池澤夏樹編集の海外文学全集は、これを出したことに最大の意義があったと思う。それまで文庫版がしばらく品切れで相当な高値をつけ、いたずらにナボコフへのハードルをあげてきた戦犯の一冊だ。ナボコフは実際に読んでみると確かに詳細がつかみにくいところもあるし、物語全体として見ると特別たいした驚きはない、と言い切ってしまいたい。しかし、細部をじっくり読むことでいつの間にか物語に吸い込まれてしまい、戻って来られないような魅力があると思う。ナボコフについては講演や読書会などがあっても多分行かずに、わたし一人の解釈をこぼしたり混ぜたりしないように、両の掌でそっと囲っておきたい。とはいえ、本書が出版された時に某大学で開かれた訳者の講演に行って、冒頭のわずかなページで蜘蛛の巣のように張り巡らされたナボコフの仕掛けを聞いて怖気づいたのもまた事実。そして本気でとりかかるまでこんなに時間がかかってしまった。
第1章のあらすじといえば、主人公のフョードル・コンスタンチノヴィチが出版し新聞で好評を得た詩集を、自身で解釈していきながら、幼少期の記憶を掘り起こしていく。そして息子を亡くした未亡人に、息子扱いされて辟易するというもの。
しかし、本書はそこここに時間の流れが色づいて結晶化したような、ドリフトグラス的美しさがあちこちで花開いている植物園なのです。たとえば、下宿先の青みがかったチューリップの壁紙をけなしたあとで、記憶の中の父親が「アイリスで一面水色の春の平原を馬に乗って並足で進んでいく」。ここに暗く狭い現実の部屋と、記憶の中の晴れ晴れとした平原の対比を見てとれるのがおもしろい。
また、詩集が新聞でとりあげられたことを電話で聞き、あまりの嬉しさにめまいを起こして部屋のあちこちにぶつかるシーン。「脇に飛びのいた猫の体について行きそこねた虎縞模様につまづきそうになった。」に猫の俊敏さと、時間の結晶が見られるようで楽しい。自転車に初めて乗れるようになった瞬間も、ゴムと地面の接地シーンはミクロのスローモーションを見ているかのようで、そんな映像技術がなかったはずの時代にここまで描き出すナボコフの手腕に平伏する次第。
とはいえ、ロシア文学、ひいては詩の規則なども大きく影響しているので、そのあたりの知識がないわたしにはまだまだ見落としている情報がたくさんあるんだろうなと少し俯きながらも、残り4章をじんわり楽しみたいと思います。
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