学校できちんと学んでいないせいで、自分の読書経験には偏りがある。日本も西洋も文学の古典といわれるところをほとんど読んでいない。岩波文庫の赤い背とか、英国女流文学とか。そもそもシェイクスピアなんて触ったことすらないかもしれない。そういういわゆる名作を100年以上経過してから徒手空拳で立ち向かうのは、車輪の再発明を大量に行いそうで効率が悪いように思う。とはいえ、なんで文学を読むかと問われれば「おもしろいから」の一言しかなくて、そのおもしろさを限られた時間でたくさん吸収するためには、一人で闇雲に読むのは討ち死に必至。
わたしの暗愚な脳みそをさっと広げて良書をたくさん受け止めさせてくれるような、良い解説書というのをいつも探しているがなかなか難しい。テキストよりも作者に寄り添ってしまう本が多いように思うのだ。具体的には挙げないし覚えてもいないが、少なくともわたしの視界に入る入門書にはその傾向が強い印象。基本に忠実にテキストを丹念に読み解いていくような文学の解説書が増えたらいいなあと思っている。
そんな中、海外文学のシンポジウムがあるということで著者のことは全く知らずに参加した時購入した、『世界文学とは何か?』が1年たって開いてみたら望外の良書で嬉しい驚き。『ギルガメッシュ』から『ハザール事典』まで、世界の文学がどのように受容されてきたか、翻訳によって世界はいかに広がったかを教えてくれる。日本ではどうしても海外文学は翻訳に頼らざるをえないが、それゆえに「誤訳」が悪目立ちして、本質である文学の内容まで辿り着けないことがあるようだ。しかし、著者のデイヴィッド・ダムロッシュは、「本当に悪い翻訳も存在する」としながらも、「原作の色あせた複製ではなくその発展的な変形になる」と原文に忠実であることが正義ではないと断言している。従って、明治から平成まで翻訳のスタイルは変わっているはずだし、基本的には昔の翻訳より現在の方がより多くの情報をもとにすることができるので正確性が高まっていると考えられる。また、光文社新訳文庫の『外套』のように文学に落語を取り入れたりすることさえ、「戦略」として有効だ。
そうして翻訳を通して世界の文学に触れることができると、世界はより広がり続け、読みたい本が増殖し続けることになる。『ナボコフの文学講義』で取り上げられていたのでディケンズに挑戦したところ、中野好夫のきっぷのいい翻訳のおかげもあって、たいそう読みやすく久しぶりにページを繰る手が止まらないおもしろさを体験している。一方で、何が起こっているのかさっぱり理解できないレーモン・ルーセル『ロクス・ソルス』なんて本もあり、多様性って不思議でやっぱりおもしろい。
そんなわけで、3月16日(土)にレーモン・ルーセル読書会『ロクス・ソルス』を開催予定です。現在8〜9名程度の参加者。この不可解さはこれまでの読書会でも未体験ゾーンなので、当日はわたしにルーセルとは何かを教えてくれる人を大募集中です。メールやTwitterなどでご連絡ください。
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