レイナルド・アレナスのインタビュー@現代詩手帖1986年3月号 その3

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その2からの続きです。

パディーリャ事件の当日、アレナス他著述家たちはすべて発表を聞くように義務づけられていた。

従わねばならない規範があると言われました。つまり、完全に体制べったりの文化政策であって、体制と対立するような傾向を生む可能性のある文学はだめ、明らさまに体制を支持するものでなくてはいけない、とね。

パディーリャによる批判、つまるところカストロ体制による批判によって、アレナスだけでなくレサマやビルヒリオ・ピニェーラといった著名な作家たちも発表の場が制限されることになった。アレナスはレサマの家族とは仲良くしていたようで、本当の友情を持ち得たのはレサマだけだとしている。上記二人の死やその当時の環境を「あたりが真っ暗になって」と表現し、

結局、主人の側にも僕の側にもモラルなんてありえない。僕は独立して存在しているわけではないから、主人の言う通りするしかない。だから彼は生き残るためだけに生きるわけですが、それ自体がすでに英雄的な行為なのです。

『めくるめく世界』と短篇集『眼をつぶって』についてインタビュアーが、短篇により濃く革命の経験が反映されているように思うという質問には、作家は経験のストックを使うという話をし、

『セレスティーノ』では、過去である幼年期のストックを使っているみたいなところがあります。というのも、扱う経験とそれを実際に書く瞬間との間に時間が長くたっていればたっているだけ作者の視線——記憶の総合力によって形成された視線——は客観的になるからです。『セレスティーノ』はぼくの幼年期の世界で、そこにももちろん、わずかではあれ、革命時代のことが反映されているはずです。

と、自らの経験をモチーフにしていることを明示している。『めくるめく世界』についても現実との類似が混淆されていることをあげた上で、歴史とフィクションの混在、現在の時間とか仮想上の歴史の時間が混ざっており、その上歴史の方は円環的ですらある、とアレナスは語る。しかし、1969年に海外に持ち出した自らの短篇集についてはこの時点でほとんど覚えていないようで、『白いイタチたちの宮殿』など自分の知らないところで出版された本について改訂したいという意欲を見せている。自らの小説を、

ぼくの書く小説というのは、ある程度読者が再構成しなきゃならないもので、厳密な意味での小説ではなく、読者の読みとりうるものと読みとりえないものが一緒くたに集められていて、つまり、発端、展開、結着といった筋が初めからあるような作品じゃないからね……。

としている。

インタビュアーは「前走者」のカルペンティエール、レサマ、「同時代人」であるサルドゥイやカブレラ=インファンテとアレナスの関係について質問している。アレナスは自分が特定のスタイルを持たずに書いていると前置きした上で、カルペンティエールは全て読み、特に『光の世紀』を評価している。レサマの『パラディソ』、カブレラ=インファンテの『三頭の淋しき虎』(クールで不敬)、サルドゥイ『歌い手たちはどこから』(「キリストのハバナ入場」)も高く評価している。キューバの作家はバロック的というよりもシュールレアリズム的であるとし、ヨーロッパの不健康なシュールレアリズムよりも、栄養が行き渡っている、湧き出る泉のようだと評している。

もうちょっと続きます。ここから先は文学論になるので一休み。

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