レイナルド・アレナスのインタビュー@現代詩手帖1986年3月号 その1

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レイナルド・アレナスの境遇については、祖国の弾圧を逃れてアメリカに亡命したがAIDSを苦に自殺、と言われることが多い。こうやって一言で書いてしまうのは簡単だし、苦労した作家というイメージは確立できるものの、その中で作者はどのようにもがいてきたのかという具体的なレポートはあまりない。現代詩手帖1986年3月号のアレナス特集は、当時の苦難の数々が作者本人の言葉で語られている。この内容が現在単行本で読めるかどうかは分からないが、彼の自伝的な著作を読むにあたっては避けて通れないのではないか。

時は1980年6月8日のマイアミ。インタビューアーはエンリコ・マリオ・サンティ。亡命時点の様子から話は始まり、『夜明け前のセレスティーノ』がなぜUNEAC(キューバ作家芸術家協会)の賞で2位に甘んじたかを語る。

彼らが言うには、政治的内容がなく、全くのファンタジーだ、全くの創作だ、それゆえ政治的に革命の文脈の中にない

今から考えるとおよそ無意味な批評だが、この批評にはカルペンティエールも関わっているのがポイントだ。ただし、アレナスは後の言葉で『光の世紀』は素晴らしいとも言っている。そして2位を受賞したにもかかわらず、2000部しか出版されず作家協会などからもほぼ無視された。1960年代、アレナスは国会図書館に勤めながら作品を書き続け、1969年、パディーリャ事件があった年に弾圧が厳しくなってきたことでUNEACへ転職する。しかしUNEACでは不遇を託つことになり、著作を発表することは叶わず、他者の校正しかできなかったという。

同じ1969年には『めくるめく世界』がキューバではなく、メキシコで発表されている。この年は同性愛を彷彿させる描写があるレサマ=リマ『パラディッソ』が出版されているが、そのせいで当局の締め付けが厳しくなり『めくるめく世界』は出せなくなった。そして著作権のないキューバで出すことは断念する。翌年1970年は中国の文化大革命のような施策がキューバでも行われ、作家たちは田舎に追いやられて共同生産を書くことで共産主義に貢献することを求められるが、

砂糖黍をどう刈るかといったことについて小説を書くよりも、実際に砂糖黍を刈っている方がよかった。

と、インスピレーションをかきたてられることはなく、日に日に厳しくなってくる情勢に迫害され、肉体労働にいそしむ日々が続く。この頃、ウルグアイ人と出会って『眼をつぶって』という短篇集がやはり国外で出版される。

続きはのちほど。

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