ロベルト・ボラーニョ『2666』は何がおもしろいのか

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『2666』については、読了してから何度も書きかけてやめることを続けてきた。この本のおもしろさとは何なのか? アメリカ人がなぜこの本に熱狂したのかがどうしても理解できなかったからだ。読んでいる間、半分くらいは楽しいのだが、読んだ人には分かってもらえる「犯罪の部」によってこの本はずっしりとした重量となり、内容的にもこの本に他の章とは異なる暗さの影を落としているからだ。とにかく女性が膣と肛門を犯されて殺されるという報告がずっと続く。暇でもないので数えないが、数百人はくだらないだろう。どうしてもあれだけ経過報告の描写を繰り返した意図が理解できない。

まず思い出したのは「エンドレスエイト」だ。夏休みが終わらず最終日でループしてしまうSFの設定を、視聴者にも(8回だけ)体験させる。わたしはリアルタイムでほぼ見ていたが感動した。繰り返しとはいうものの、微妙に異なる夏休みをきちんと描き演じ分けていたからだ。そしてこちらの場合は同じであることが物語の枠なので、時間ループを本当に描くと退屈さがあると同時に微妙な差異を見つける楽しみがあるという新鮮さがあった。

ところが、『2666』ではそれが感じられない。「犯罪の部」はループするSFではない、というのももちろんだが、何度も同じ犯罪が起きても解決されない、それどころか貧しい人が殺されて「ああ、またね」と淡々と処理されるだけの絶望感は数回目ですでに実感できる。残りの8/10くらいは不要に感じ、後半に入って獄中にいるドイツ人が現れても全貌はうっすらとしか見えてこない。メキシコの警官たちも調査に行くところまでは描写されるが、いつもフェイドアウトしてしまう。それをメキシコの砂漠が延々と続く光景やノンフィクション風であると評価することはできるかもしれないが、一般の読者にとって苦行とも言える同じ描写の繰り返しが続けられる必然性を誰かしっかりと説明してほしい。

それ以外の章、特に5章の海藻少年の話はたいへんにおもしろいので、なおのこと「犯罪の部」が不可解でならない。わたしにとってのボラーニョは『通話』も『野生の探偵たち』もおもしろいんだけど、不要な残骸がそこここに残っていてひっかかるので手放しで褒められない作家で、『2666』では特にそれが「犯罪の部」で顕著になっている、という印象です。

コメント

  1. ぽんちゃん より:

    こんばんは。2666、たった今読了したところです。
    正直なところ、魅力は感じるものの、ネット上で皆さんが褒めそやしているほどの感慨を得たかというと、そうでもない。何か釈然としない感、不思議なことに分量の割にどこか食い足りない印象を受けました。あくまでも個人の感想ですが。

    書いておられる通り、あの犯罪の部で繰り返し繰り返し描写される死体の発見(とその場所)をめぐる顛末の数々。あの部分が持つ意味合いは何なんでしょうか。正直、腑に落ちません。

  2. uporeke より:

    >>ぽんちゃん

    コメントありがとうございます。
    そして『2666』読了おつかれさまでした!

    それまでのおもしろさと最終章のおもしろさが、「犯罪の部」が入ることで、素直に楽しめないというか、全体としてこの本をどう受け止めたらいいのかわからなくなりますね。

    単純に考えると、「犯罪の章」もその他の章も全て同じ世界で起こっていることであり、世界はこのように事件が同時に動いているということを示したいのか、と今は受け止めています。

    共訳者の野谷先生をはじめ、去年くらいにあちこちでボラーニョについて語るイベントをやっていたようなので、その内容がどこかで公表されたら、もっと理解が進むかもしれませんね。