ナボコフの文学講義

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このたび文庫版で上巻下巻に分かれて『ナボコフの文学講義』が出るらしい(ハードカバーは『ヨーロッパ文学講義』)。誠にめでたいことです。思い起こせば文学部に入ったものの麻雀浸りで本を全く読んでいなかったあの頃、古本屋で偶然見かけたのが『ロシア文学講義』でした。この本をものした時は既にナボコフはアメリカに亡命していましたが、ロシア文学への愛が、他国の文学作品への言及と桁がちがうことくらいは、ぼんくらなわたしにさえ伝わってきたものです。その後、『ヨーロッパ文学講義』を読んでみると、

ジェイン・オースティンを扱ったときには、ある種の努力をして、客間のご婦人連中にまじわる必要があった。が、ディケンズの場合には、われわれは食卓についてポートワインを飲んでいればすむ。

とあるように、どちらもナボコフは食に喩えており、言うなれば有名な文学に感覚をすり合わせる読み方をする。しかし、ロシア文学となると、文学の医者となり科学者となり容赦なくメスを突き立てる。「恐ろしく丸いチチコフの魂」を切り刻むと、

まず真ん中に石鹸箱があって〔チチコフは悪魔がふくらませたシャボン玉であるから〕、その向こうに剃刀を入れる狭い仕切りが六つ七つある〔チチコフのふっくらした頬はいつも絹のように滑らかだ。まやかしの天使(ケルビム)〕(中略)鵞ペンや封蠟などといった細長い物〔死せる魂のための筆記用具〕……

丸いチチコフから悪魔のシャボン玉がふわふわと浮かんでいき、一つ一つに死せる魂のための筆記用具で人々の俗悪さが描かれているのが目に見えるようで、実際の『死せる魂』を読まずにはいられなくなってくる。切れ味、密度ともに『ロシア文学講義』は他の2冊と威力がまったくちがうのです。だから、文庫版の『ナボコフの文学講義』だけではなく、その先に出ると言われる『ナボコフのロシア文学講義』をこそ、ぜひ読んでいただきたい。ナボコフ自身の作品を読むときですら、この本を読んでいるといないとではおもしろさがまったくちがうはずです。

ちなみに取り扱っている作品は以下の通り。

●ヨーロッパ文学講義

  • 編者フレッドソン・パワーズによる前書き
  • ジョン・アプダイクによる序文
  • 良き読者と良き作家
  • ジェイン・オースティン『マンスフィールド荘園』
  • チャールズ・ディケンズ『荒涼館』
  • ギュスターヴ・フロベール『ボヴァリー夫人』
  • ロバート・ルイス・スティーブンソン『ジキル博士とハイド氏の不思議な事件』
  • マルセル・プルースト『スワンの家のほうへ』
  • フランツ・カフカ『変身』
  • ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』
  • 文学芸術と常識

●ロシア文学講義

  • 編者フレッドソン・パワーズによる前書き
  • ロシアの作家、検閲官、読者
  • ニコライ・ゴーゴリ『死せる魂』、「外套」
  • イワン・ツルゲーネフ「父と子」
  • フョードル・ドストエフスキー『罪と罰』、『ねずみ穴から出た回想記』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』
  • レオ・トルストイ『アンナ・カレーニン』、「イワン・イリッチの死」
  • アントン・チェーホフ「犬を連れた奥さん」、「窪地にて」、『かもめ』覚え書き
  • マクシム・ゴーリキー「筏の上で」
  • 俗物と俗物根性
  • 翻訳の技術
  • 結び

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