何度読んでもタイトルが覚えられない。「トゥルーン、ウクバー、マルクス・アウレリウス」でもたぶん気にしない。いっそひらがなにしてはどうか。「とれーん、うくばーる、おるびす・てるてぃうす」。最後の「オルビス・テルティウス」が難しい。ギリシアの皇帝みたいなふりしてやっぱりラテン語らしいじゃないの、というか「第三の眼」ってフリーメーソンではありませんか。だいいち、Wikipediaにかなり詳細な解説が載っている。
ボルヘスのいいところはしっぽを捕まれる前にするっと話を終わらせてしまうところで、それによって読者の想像力をかきたてる。カフカとはちょっとちがう方向性だが、世界に読み取れないところが多いためにおもしろい、というエンターテインメントとは逆の指向性だ。本当はこういう本で読書会をやりたいものだけど、きちんと研究している人たちがいる分野は二番煎じもいいところで出し殻を細々とすするだけになってしまう空しさを追随するだけになりがちなので、ボルヘスの場合は読書会をやる前に尻込みしてしまうのだった。
トレーンの言語には名詞がなく、名詞と思われるものはすべて動詞・形容詞・副詞を駆使して言い表されるという設定だけで、もうおもしろい。「闇に光る丸い黄色」なんて直接的な言い方はしない。「流れやまぬものの間で、上方に、月した」と名詞が動詞化されてしまう。よく詩的な表現などと言うけれども、実は文法を限定するだけで詩的な表現というのは生まれうるものなのかもしれない。ただ、動詞を使わないとか形容詞を使わない、よりも名詞を使わない表現こそはより詩的であり、解釈の余地を残しながら動きのある表現となるだろう。
そもそもはボルヘスの持っている辞書とビオイ=カサーレスの持っている辞書が同じなのに、なぜかノンブルが異なり、ボルヘスの本にはない語義が書かれているというところが発端だ。20世紀の初めには、紙の辞書こそがあらゆるものを定義づける力を持っていたし、それが版によって異なる事態があれば今よりもずっと大きな問題に発展しただろう。いや、もしかするとそうでもないのかもしれない。この作品が現在でも極めて新鮮で類する短篇が追随していなさそうだということを見ると、日本で言うところの広辞苑が版によって、同じ版でも別のページを持つかもしれないという信頼性が欠如する可能性について、大事だと思っている人がそう多くはないのかもしれない。ある一冊の辞書が言葉の規範になることは当然だが、日本人はそれほど辞書の語義に重きを置いていないのではないか。方言の問題もあるし、流行語・新語も豊富だ。
それは宗教の差にもつながることかもしれない。多神教の日本と一神教のスペインから派生したラテンアメリカ、特にアルゼンチンはインディオの影響も少ないだろう。一神教であることと語義への追求はどれほどつながりがあるのだろうか?
コメント