部屋の掃除をして発掘された、1967年に編纂されたSFのアンソロジー『SFベスト・オブ・ザ・ベスト(上)』を読んでいる。「ベスト・オブ・ザ・ベスト」とうたうだけあって、当時の最高のSF短篇集だし、50年以上たった今でもおもしろい。
時代性を感じさせることはおもしろさを阻害するのだろうか。高級なアンプを通して高いスピーカーから出てきた音と、ラジカセから出てくるLo-fiな音では、聞いた当初は音質の良さが圧倒的勝利だったけれども、Lo-fi Hip Hopが流行しているように今では音質の良さが必ずしも評価されるとは限らない。
古さの中におもしろさを感じることができるのは心の余裕なのだろうか、それとも情報量が少ない方が受け止めやすいとかが影響しているのだろうか。
本書については技術的なちがいが明確になりすぎて、今だったらどうなるか考えてしまうところも含めおもしろい。
ウォルター・M・ミラーJr.「帰郷」は出稼ぎで宇宙に出た男が9ヵ月たって帰ってきたら、どうも嫁は既に他の男と一緒に暮らしてるらしい。それをうすうす感づいているのか、男は帰り道ずっとウォッカで泥酔している。
出稼ぎという発想が今はかなりうっすらとなったし、Webを通じて毎日オンラインで顔を合わせて話すこともできる。でも、目の前にいて触ったりにおいを嗅いだりはできない。「帰郷」の男が毎日嫁とオンラインで話せていたら、こんなに泥酔して帰ってくることはなかったのではないか、もっと言うと出稼ぎという概念自体が消えてしまうのかもしれない。人が存在しなくても成り立つ仕事が確実に増えてきている。それによって幸せの量は増えるのかどうか。
ゼナ・ヘンダーソンの名作「なんでも箱」だってスマートフォンのようなもの。そこに自分の隠された願望が明示されるのはまだ今の技術では難しいけれども、スー・リンがなんでも箱に逃避したように今はスマートフォンに逃避できる。授業の妨げになるから使うことは許されていないにしても、同僚教師アルファのように「その子は、情緒的に強い不安を持っているように思えるわね。ことによると、精神病者とさえ言えるかもしれない」なんて評価を下したら、言った教師の方が首になるだろう。アルファさんこそ今から見ると情緒的に信用できない方で、
あたしのクラスの子が、みんなまともな子ばかりで助かったわ。考えてみると、あたしにはなにも不平を言うことなんてないみたい。お喋り屋や、もじもじうじうじしてばかりいる子を除いて、問題児にはめったに出くわさないし、たとえ出くわしたとしても、その程度なら、大声で怒鳴りつけるか一発ぶってやるかすれば、なんとかなりますものね」
これは停職まったなし。しかし、1956年当時の倫理観なんてこんなものなのかもしれない。米ソ冷戦まっただ中で、赤狩りが跋扈していた時代に、繊細で周囲になじめない子どもはそれだけで敵視されただろう。
一番好きなのはリチャード・M・マッケナ「闘士ケイシー」。作者は若くして亡くなったそうだが、デニス・ジョンソンやトム・ジョーンズのような現代の荒んだ文学にも通じるところがあるこれだけの作品をもっと遺してほしかった。
入院患者たちは今にも死にそうだったが、猿の幻影を患者間で共有することで実在しているかのような存在になる。医者や看護婦にいたずらをしかけ、変な顔をして見せる。そうして心慰められる一方、弱って病室から運び出されていった者は戻ってくることがなかったことで、死を常に意識させられる。ついに猿の幻影を生み出した男が喀血して運び出されようとすると、猿が猛攻撃をしかける……、という話。ラスト2行もすごい。
ここでは共同幻想が生きる活力になる一方で、現実には力を持たない。でも21世紀ではオンラインゲームの協力で仲良くなったりお金を稼いだりすることもできる。TRPGも単にゲームだけではなく、仕事の練習としてロールプレイが活用されるようになった。目に見えない幻想・思考、人の信用という結びつきが力を得るのは人間の大きな可能性があると改めて感じる。
10年以上前に読んだ時は単純に物語だけ受け取っていたけど、スマートフォンができてインターネットでいろいろなことができるようになってから読むと、可能性のヒントが見つかるように思いました。古いSF、なかなか侮れない。
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