『失われた時を求めて』はついに光文社古典新訳文庫版に追いついてしまった。2年に1冊くらいのペースで出ているようなので、うまくいけば今年あたりに7巻が出るかもしれないけど、待つことで今のプルーストを読める流れを崩したくない。
だから岩波文庫版に手を出すことにしました。註の入り方や文章の区切り方が他の訳より似ている気がする。
でも、さすがに手に取って100ページくらいは、ちがう学校に転校してきたみたいで、同じプルーストのはずなのに異なる環境にいるようで落ち着かない。
落ち着かないのは「私」の脳内モテにつきあっているせいもある。前の巻で悲しみに暮れた祖母の喪に服すこともなく、アルベルチーヌと久しぶりに会ってイチャイチャしていたら、フランソワーズがガチャリと入ってきてぶち壊そうとする。ここは笑うところ。
出て行ったらまた続きをはじめるのだけど、頬にキスするだけで何ページも割くのに、営みについては一行で終わり。この行儀の良さが微笑ましい。書いているプルーストは慎ましさがあるのに、「私」ときたら営みが終わったら「夕飯あるから帰って」とアルベルチーヌを追い出そうとする。
次の日にはアルベルチーヌのことなどおくびにも出さず、別の夫人と島のレストランでデートすることしか考えていない。
私に必要なのは、ステルマリア夫人をわがものにすることだった。私の欲望は、何日も前から絶え間なく活動をつづけ、空想のなかでこの快楽を、ただもうこの快楽だけを準備していた。ほかの快楽(べつな女との快楽)を用意しておくことなど、できるはずもなかった。(p.100)
お盛んだなーという感想しか抱けないし、別なところではスペアとしてアルベルチーヌがレストランでオーダーしてくれるの、主婦みたいで助かるとか言いつのるのです。なかなかの下衆。
でも、そういう表面的なことではなくて、読んでいて思考回路が大渋滞しているところが本書のおもしろさ。ナボコフも主人公は元祖ロリコンだったり妄想殺人鬼だったりするわけで、それの大長編版だと思うとつきあう甲斐があるというもの。プルーストを読んでいて図らずもナボコフが読みたくなるという困った現象におそわれました。でも、ナボコフに手を出すと時間がかかるし……。
ナボコフとプルーストといえば、『ヨーロッパ文学講義』でナボコフが『失われた時を求めて』「スワンの家のほうへ」について解説しています(河出文庫版は『ナボコフの文学講義』)。学生時代に国文学に進んだもののさっぱり分からなくて本が読めなくなっていたところに、この本と『ロシア文学講義』に出会って、「細かいことは分からないけど、小説は詳細をきっちり読むと楽しいものなのだ」と啓蒙されたのを思い出します。その頃は『失われた時を求めて』を読めるとはとうてい思っていなかったから、プルーストの項は読まずじまい。こうして何年も経ってから同じ本を同じような気持ちでめくることができるのはけっこう幸せなことじゃないかと思うのです。
いいかえれば、現在における感覚の花束と過去における事件ないし感動の幻影との出会い、そのとき感覚と思い出とは合体し、失われた時はふたたび見出されるということである。(『ナボコフの文学講義』p.317 TBSブリタニカ版)
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