アルベルチーヌに出て行かれてしまった私の画策はすべて裏目に出る。
「私に会いたいなら自分で来なさいよ」
まったくの正論をぶつけられて、それでも直接は行かずに手紙を出す。またこれが、どうしてこうなるの? と首をかしげざるを得ない文面で、ひたすらに僕はキミのこと好きじゃないかもしれないけど戻ってきたいなら、まあ部屋を開けておくことはできる、みたいな。
プライドゆえの屈折した愛情は誰も幸福にならない。そんな当然のことさえ分からなくなる恋にはやまいだれが相応しいのではないか。なんでこんなに素直じゃないかなー。
そうして、愛する榛野なな恵先生の『ダブルハウス』を思い出したのでした。
親同士の都合でお見合いしたものの、女性はまったく話が合わないと断るけれども、男は本気になってストーカーになってしまう。当時なら「おかま」と呼ばれた人にストーカーが話を聞いてもらう場面。
「バカねぇ 男でも女でも誰かを好きになったら その人の前に心でひざまずかなきゃならないものよ どうか 愛して欲しいと」
性別のちがいではなく個人の資質で判断するというのは榛野なな恵先生から教わったところが大きい。毎日のように読んでいたから身体に染みついている。
某掲示板で「むかしは夢中で読んだけど、結婚して現実を知ったら夢物語だと分かった」と書いてる人がいて、一面識もない人だけどすごく悲しかった。理想をもちながら生きてはいけないのかな。
わたしは好きなものを好きと言いながら持続できる人生がしあわせだと思っているので、誰であろうと好きなものが変わってしまうことには一抹の悲しさを拭えません。その情熱は嘘じゃなかったと人生を賭して証明するというのが、生きてる意味ってやつだと思うのです。
「どうか 愛して欲しい」アルベルチーヌを愛する「私」はどうもこれが言えそうにない。
もう嫌われる寸前なのに相手を試し、返事がないと嫉妬に苦しむ。一人ラブ相撲。軍配はいつでも自分と反対側に上がるに決まってる。
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