『プルーストを読む生活』1の時はあっという間に読み終えて、ああこういうふうにプルーストに向き合うことができるのはいいなあと感心しきりだったのだけど、『プルーストを読む生活2』は急いで読まないように1日数ページに抑えている。おもしろさが過ぎ去るのがもったいない。
どこも大好きなんだけど、p.105
その頃の僕は抑えきれない苛立ちというか感情の波にいくらでも飲まれていて、だいたいトイレに引き籠ってはアムウウウウウウムウウウウウと唸っていた。
ここがぐっときた。わたしも唸りはしないものの、衝動を止められない状態があった。というか、衝動ばかりで身体の内側から弾けそうになっているので、動かすと破裂しそうなので何もできない。唸ることも叫ぶこともできなかった頃を思い出した。声を出すのは部活で散々やっていたのに、いざ自分の内面から出そうとすると出せないのはわたしの良くない癖だ。
自分の場合はこういう衝動を本と猫で抑え込んでしまえた。社会人になってから本に関するたくさんの知り合いができて、本を楽しむことができるようになったのも大きい。あと、おもしろい本を探すことも(どちらかというとこちらがメインだ)。実家にいたとき、大学には出てきたものの何もやりたいことがなくてモラトリアムだった時から飛躍的に自分の考え方が変わった。
猫がいたのも大きくて、実家にいたときも含めて人生のかなりの時間を猫と共にしてきた。一人暮らしになってから猫と暮らすと、自分の収入が途絶えたら猫も死ぬ、という思いで働き続けられた。根本的に働きたくない人間にとって、この切迫感による考え方・行動の変化は大きかった。契約社員でいることをよしとせず、資格試験のために勉強して、遠回りしたけど今すぐつぶれるような会社ではないところで働けている。
何ならみんな動物と暮らすのを義務にしたらいいと本気で思っている。憲法一〇一条「国民は、法律の定めるところにより、動物育成の義務を負ふ。」こういう憲法改正をやろうぜ。
言葉で意思疎通ができない存在と生きるためには、相手の欲求を読み取れないといけない。腹が減るとうるさくなる、病気をするといつもとちがう静かさになる、暑いも寒いもこちらの設定次第。そういうことが猫と暮らすまでは分かっていなかった。猫がいるとアムウウウウウウムウウウウウと唸っている暇がなくて、「メシね」「トイレね」「メシの調達ね」とやることいっぱい。
今考えると仕事も安定しないのに猫と暮らすなんてようやるわ、とほめたいようなあきれてしまうような。
『プルーストを読む生活2』を読むと、著者の考えに引っ張られて、自分の行動をきちんと言語化して誰かに差し出せるようにしておかないといけないな。自分一人で納得しているだけだと何も始まらないな、と気づかされる。
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