コケカツ(92)ゼーバルト『アウステルリッツ』冒頭から

ゼーバルト『アウステルリッツ』新装版 book

ゼーバルト『アウステルリッツ』は著者と思しき語り手が、アントワープ中央駅の待合人の中からアウステルリッツを見出すシーンから始まります。
語り手はアントワープの「夜行獣館」で木菟や原猿類の丸々とした「射すような」目について語る。右ページに獣の目、左ページに人間の目が載っている。原文でも同じ向きの掲載なのだろうか。開きが逆なのだから、写真も逆に掲載されたのだろうか。先に動物の目が目に入ることでぎょっとする効果があると思う。邦訳の場合、左ページを見ながらページをめくり、視点移動が早ければすぐに右ページの動物の目になるが、遅ければ・あるいは裏移りした写真に気を取られたりすると左ページの人間の目を先に見るかもしれない。
ふつうの海外文学には写真や挿絵が掲載されることは稀なので、初めて読んだ時は「これはいったい何だろう」と、抽象絵画を見たときのような気持ちになった。こんなに具体的な写真が配されている意味が分からなかった。文中には確かに記述されているけれども、それを写真でも掲載する意味が分からないのだ。
読み進めると不定期に写真が現れ、ようやく現実との強い結びつきを感じられるようになる。本書がフィクションなのかノンフィクションなのか曖昧になっていく。

夜行獣館でアライグマが食物を一心不乱に洗っている場面。

真剣な面持ちで小さな川のほとりに蹲り、くり返しくり返し一切れの林檎を洗う。そうやって常軌を逸して一心に洗いつづけることで、いわばおのれの意思とは無関係に引きずりこまれた、このまやかしの間違った世界(ファルシュ)から逃げ出せるとでも思っているかのようだった。

場面も思い浮かぶし、読者であるわたしもまたファルシュから逃げ出すことばかり考えていると思う。ここでハッとして、この本を好きになるにちがいないという予感がある。

後書きで訳者は、

死や、厄災や、破壊や、時間や、記憶や、狂気が、さまざまなモチーフとなって、薄暗闇のなかでひそかに響きあい、全編にはりめぐらされている。しかも心象風景の描写があれば歴史的考察があり、事実の詳細な記述があればそれが唐突にごく私的な回想に移行する、というぐあいに、筆はおどろくべき跳躍をなしとげる。徹底的な客観性と立ち上がってくる怨念のような主観性がふしぎに入り交じった、呪文のような魔力を持った文章がここにある。

と総括する。多和田葉子の解説によると、新人作家は何年かレポーターをやるべきだと話していたそうだ。客観性を土台として建造物にすることで、その中に怨念となってしまった主観が囚われている、そんな館を想像してしまう。

冒頭で不思議な出会いをしてから、語り手はふとした折りに出会ってアウステルリッツの語りを聞く。
ドイツで生まれた著者はマンチェスター大で講師となった、その間をとったベルギーを舞台にして分裂した自己による対話、みたいな見方もできる。
でもわたしはそういう見方がいやで、あくまで対話をもとにした小説、そこにリアリズムを強める写真を挟み込むことで、現実に侵食する小説だと思いたい。しかし、この思い込みは中盤である写真によって崩されることになる。

語り手はアウステルリッツの建築に関する話を聞きながら、いつの間にかアウステルリッツ自身の奇妙な来歴を聞き出すことになる。イギリスで養子となり、陰鬱な牧師館で夫妻に育てられたこと。大きくなって寄宿舎に入りラグビーで頭角を現し勉学にも励む。思えばここでアウステルリッツ自身の姿が写真に残っていると記述されています。しかし、読者であるわたしは集合写真の隅っこに写る金髪の青年とアウステルリッツがどうしても結びつかない。まだアウステルリッツはフィクションであり、写真は物語のための借り物なのだという気持ちが拭えないのです。

アウステルリッツの不思議な来歴は続きます。

コメント