コケカツ(91)ゼーバルト『アウステルリッツ』の肌になじむ感じ

ゼーバルト『アウステルリッツ』新装版 book

すっかり春めいたけれども、コロナウイルスのせいで外出に自粛勧告が出て、人が集う形式の店舗や業態が軒並み経済的打撃を受けている。
一方で出版は好調で、書店や出版社から売上が伸びているという話を聞く。業界の片隅に身を置く者としては早く収束してほしいけれども、本が売れるのはうれしいアンビバレンス。
家にこもって読書する人が増えるのは良いことだと思います。人付き合いでやらなければいけないことが減って時間ができたという話を聞くと、ぜひこの機会に読書の習慣が広まったらいいなと思います。

去年くらいから読書の傾向が変わってきて、家族愛を描く物語がつらくなってきた。独身である身の上も、結局のところ一つ同じ屋根の下に人間がいるというのが苦痛に感じられるから。
考えてみたら子どもの頃から家では常に怯えていて、大きな声で呼びだされて農家の仕事を手伝わされるのがいやで仕方なかった。母屋と父のいた事務所は、2Kの部屋と倉庫を兼ねた門が間にそびえ、そこを通して声なんて聞こえるはずはないのだけど、気分屋の父は人を呼び出すことに躊躇いなどはありませんでした。
その時の経験が影響しているように思うのですが、とにかく大きな声や音が苦手でライブなどにもほとんど行ったことがありません。その傾向は年をとって治るどころか少しずつ過敏になって、イヤホンしたまま工事現場の横を通ると、わたしにはできない仕事だなと思うのです。

そんな準ひきこもりのわたしは、とうとう小説でもやかましい本が読めなくなってきました。小説からは音がしていないはずなのですが、会話文が多かったり近い者同士が諍いを起こす場面があると、彼らの言葉が再生されてしまってうんざりしてしまいます。ドストエフスキー『悪霊』、ウィリアム・トレヴァー『恋と夏』でこの現象に遭遇して驚きました。これは作品の出来不出来には関係なく、ただ読めないという状態。

それはそれでおもしろいので、逆に読める本は何だろう。去年から読んでいるプルーストはするする読めるようになってきて、これは語り手の豊潤な脳内世界なので全くうるさく感じない。
そして、記録によると2012年に読んでいたゼーバルト『アウステルリッツ』。これも語り手がアウステルリッツに出会い、アウステルリッツの語りを聞き書きしたという形態なので、やかましさを感じません。加えて本書の静寂さは類を見ない。100ページ目にいたるまで語り手がアウステルリッツに幼少期から学生時代を聞き続ける場面は、不明瞭なラグビーや鸚鵡の写真もあって現実としか思えないまま語り手同様にふむふむと聴き続け、気がつくと夜が更けているということも。

なんとなく、物語の単位が家族ではなく人レベルであると読めるような気がします。
そう考えると、以前散々読んだ『百年の孤独』や『アンナ・カレーニナ』は家族単位で描かれるので、今のわたしには読めないかもしれない……。
こんな単位で物語を考えたことがなかったので、これはこれでおもしろい基準点ができたと思うことにして、今のわたしが楽しめる本を探していこうと思うのです。

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