コケカツ(83)ゼーバルト『鄙の宿』(2)ローベルト・ヴァルザー

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ゼーバルト『鄙の宿』は作家論というには短く、書評というには長い。作家のたどった運命と本の関係について語られるけど、それは日本の評論とはちょっとちがう気がする。うまく言えないんだけど、紹介されているのが1800年代の作家ということもあって、自国ドイツ・隣国フランスの関係にも紐付くところが多い。歴史的な宿命によって生まれた作家という視点があるように思う。

ゼーバルトと言えば文中にふいに現れる図表。絵や写真が現実との結びつきを強めるはたらきをする。今回は各作家について見開きカラーの絵が収められていて豪華。ローベルト・ヴァルザーの章だけカラーがない。しかし文章の密度とそこから発せられる愛はここが一番。

初っ端から、ヴァルザーは世界とはほんのうっすらとしか結びついていなかった。

ゼーバルトを読むような読者の心を最初でさらっていく。一生涯何も持たずに暮らしたと最近のミニマリストがうらやむような生活だけど、ヴァルザーの場合は人付き合いすら遠ざけていた。「女性とうまくやっていくことなど、ヴァルザーにとっては不可能以外のものではなかっただろう。」とゼーバルトは一刀両断する。

こういう他人とうまくやっていけない人の本を読むとほっとするのって、自分よりも下だと蔑むことによる安心なのだろうか、といつも不安になる。見下げるというよりは仲間と思いたい。社会生活や流行に興味がもてない自分と同種の人が存在して良いという安心感であって、自分より下とは思っていない、はずだ。現にヴァルザーはきちんとではないけれども、後世に語り継がれる文章を残しているわけだし。

社会不適応者だったヴァルザーだが、書くことは続けていて長生きしている。しかし詳細は伝わっておらず、ヴァルザーの不安定な空虚をゼーバルトは「亡霊じみた」と称している。ヴァルザー本人の生活はもとより、書かれたテキストが読む端から忘れてしまうような、それでいて朗らかな明るさがあるという。わたしはヴァルザーを読んだことがないので興味をかきたてられる。

社会不適応者で思い出すのが尾形亀之助だ。雨に降られると濡れるのはなぜだと考えながら雨に打たれ、ひらめいたと思えば着物を脱いでふんどし一つで雨に打たれる。

(何といふことだ)裸になると、うつかり私はも一度雨の中へ出てみるつもりになつてゐた。何がこれならばなのか、私は何か研究するつもりであつたらしい。だが、「裸なら着物はぬれない——」といふ結論は、誰かによつて試めされてゐることだらうと思ふと、私は恥かしくなつた。(『尾形亀之助詩集』p.80)

わたしはこの部分が大好きで、「研究するつもり」という気概が美しいと思う。勘違いで常識を覆す発見をしたと思い込んでしまうことが、誰にだってあると思う。そのエウレカ味が見事に出た一文だ。

ヴァルザーはどうだったのか。

ヴァルザーの理想は、重力に打ち勝つことだった。

尾形亀之助のように現実に右往左往するタイプではなく、自分だけがおもしろい造語や場面を作り出すことに専念する、浮世離れしたタイプだったようです。
日本語のWikipediaは外国人作家にしては珍しく詳細に書かれているものの、ゼーバルトの文章から受けるイメージとは異なり、文学を追究した人物に見えます。
読者によって異なる姿を見せたヴァルザーを読まねばならない、テキストがテキストへ細胞分裂してくような世界が広がる経験をしました。

ゼーバルトは長く品切れだった『アウステルリッツ』が2月末に復刊し、さらに年内に『土星の環』も出るとか出ないとか。

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