ゼーバルトを大事に思う気持ちが大きくて、なかなか全部一度に読もうと思えない。クリスマスのシュトーレンのようにちみちみと定期的に摂取している。読み終えると一つの大きなイベントが終わって、日常に戻り、またシーズンがくるまで押し入れの奥にしまっておく感じもクリスマスのようだ。
『鄙の宿』は作家について1章を割いて解説する。解説といってもゼーバルトのことだから、内省的で静かな文章が続き、歴史的な記述と個人的な想いがない交ぜになっている。今回発見したのは、ゼーバルトには笑いがあるということ。それもえらくまじめな顔をしたままおもしろい話をする、大学の教授のようだ。
最初はヨハン・ペーター・ヘーベル(文中では「ヨーハン」)。全く知らない作家だったが、岩波文庫で出ているし、訳も岩波文庫版を踏襲している。本来のタイトルは『ライン地方の家の友の小さな宝箱』とちょっと冗長さを感じさせるもの。
しかしいまは幾度も幾度も、この暦物語を読み直している。それはベンヤミンが言うとおり、読んだ先から忘れられてしまうのが、ヘーベルの物語の完璧さのしるしだからなのかもしれない。
ここで、あ、これはゼーバルトの笑いだと気づくことができた。時折ひどい悪口や、意識していないように見せかけた批判が顔を出す。『鄙の宿』は笑っていいのです。
「ヘーベルは、無反省で盲目的に突き進んでいく歴史の流れに向かって、耐え抜いた苦労がいつか報われる物語を対置する」とあり、これはわたしが好きなタイプの物語だろうと思う。愚直でカタルシスのある物語を想像していて、これは読まねばなるまいという気持ちになっている。しかしヘーベル自身はシュルレアリズムを先取りしたような夢に悩まされていて、自分の信仰が強固なものではないことがばれることに怯えている。
空色の背中をした、足元で跳ねまわる極小の鼠、部屋に入ってきて、腫れ物でかたちが変わった前肢を彼の肩に載せるアフリカライオン、なかには、ふたりの天使が鶏といっしょに鶏小屋で飼われていたが、そのうち雌のほうの天使が妊娠した、などという夢まである。
博覧強記と称されるヘーベルは想像力豊かな夢を見た。天使と鶏小屋の組み合わせはガルシア=マルケス「大きな翼のある、ひどく年取った男」を彷彿とさせるが、こちらはもっと即物的。
シュールな夢を見るヘーベルは、現実では「彗星が現れると不吉という迷信を、20年間に起きた災厄の数は彗星の数をはるかに上回っている」と一蹴する。このアンバランスさが好きだ。
ヘーベルは晩年に、地球が滅びて人々は別の星で生きていくと想像する。ここを捉えるゼーバルトにはアーサー・C・クラークのことが思い浮かんでいたにちがいない。
農民の役に立つ物語として始まったヘーベルの旅は、地球を飛び出して宇宙から荒廃した故郷を眺める視点を会得する。現実のしがらみから解放されたヘーベルの旅をわたしもたどってみたい。
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