コケカツ(45)「文藝 2020春」ジェニー・ザン

文藝2020春 book
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コケカツ!とは野山に分け入ってコケを見ること。撮るだけで採らない。

話題の「文藝」を買ってみた。売れすぎていてなくなるかもしれないというTweetを見て書店に走ったら本当に売っていなかったので、余計に欲しくなってしまう。まんまとやられています。でも、買った価値は十分にあった。

ジェニー・ザン「存在は無視するくせに、私たちのふりをする彼ら」は身につまされた。白人男性が本名で詩を投稿しても一向に採用されないので、中国人名で送ったら採用されるところから始まる。著者もまたフィクションを書いているつもりなのに、自伝や知人のことを書いていると思われてしまう。異邦人であることが社会的メリットとして処理されているが、自身はただフィクションを書きたいだけという主張。

著者の主張にはとても同意するのだけど、一方で多くの人は自分のコミュニティ外のことを知ろうと思わないし、詳しくなることができないとわたしは諦めている。著者はフィクションを仕事にしたいと考えているけど、そうやって著者の属性だけを重視する雑誌、さらには社会において広域で読まれることにどれほどの価値があるのだろうと不思議。ジョージ・ソーンダーズの話じゃないけど、化学物質を注射してあらゆる偏見を取り払うようなことができない限り難しそうだ。

私はただ労働に対して報酬が支払われて、自分の才能を評価して欲しいだけだ。大半の出版物がこれまでも今も有色人作家の枠を一人か二人分しかとっていないために私の作品が掲載され、そのせいで他の素晴らしい有色人作家がその枠を得ることができなかった、ということに気づかなくてもよくなって欲しいだけだ。

分かる。分かるけれども、編集者というか人はそれほど有能にはできていない。テキストの質以外に考えなければならないことがあまりにも多すぎる。だからこそ雑誌や書籍はターゲットを細分化していかざるを得ないのではないか。一方でそれはカルトや極端な思想集団へと繋がりうる危険性ももつので、バランスを取らないといけないけど、そう簡単にいく話でもない。

同じテーマについて書かれているなら複数の視点として読めるのだけど、今回の「文藝」のように実際の中国の盗聴事情を経験によって書き記す黒色中国と、樋口恭介の伝奇的な小説を同じカテゴリとして読むことは難しい。それが中国の広さだと言われたらそれまでだけど、わたしはそれほど器が大きくない。雑誌が悪いのではなく、情報が多すぎてついていけなくなりつつある自分を憂えている。

表現の場はインターネットによって増えた。一方で自由はどんどん減ってきていると思う。ポリティカル・コレクトネスを無視しては表現できない時代、ライターが1文字数円単位でたたき売りをし、140文字を追いかけるので精一杯の読者に向けて、文章で対価を得られるのはごく一部の人に限られるのではないか。
ジェニー・ザンの主張を理想、絵に描いた餅と言いたくはないのだけど、疲れた大人はそこまで希望を持つこともできなくなっている。

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