コケカツ(37)『失われた時を求めて』3巻、私がジルベルトと不仲になる

Bryophytes

コケカツ!とは野山に分け入ってコケを見ること。撮るだけで採らない。

2018〜2019年はアニメを見る機会が増えたのですが、話題になっているものでも趣味じゃない作品があって、どこが好きとそうでもないの分岐点なのか分からなくて悩んでいた。ユーフォシリーズはすごい好きで百合ぽいのもいけると思っていたのに、世間で評判のいい「やがて君になる」は全然興味をもてず2話くらいで見るのをやめてしまった。たいていはアニメを見て原作を読む流れなのだけど、「ゆるキャン△」はアニメを見てもぴんとこなくて放っておいたのが、マンガを読んだらえもいわれぬ感動があってアニメを見直したり。己の目が節穴で、その時々で評価基準がちがっているだけかもしれませんが、人が同じ価値基準を持ち続けることができるというのはちょっとした幻想で、体調や環境次第で判断が変わってしまうものなのかも。味覚は体調の影響をかなり受けやすいらしいですが、視覚も同じくらいぶれやすいのか。

プルースト曰く不安定さは幸福の要素らしいです。

脅威はしかし、あろうことか、私が何の危険も感じていなかった方角から、つまり、ジルベルトと私のほうから迫りつつあった。私は逆に、自分を安心させていたもの、幸福とはこれだと思っていたものに心悩ませるべきだったのだろう。恋をしているときの異常な精神状態は、一見何でもないように見える、いつでも起こりうる出来事に、そこにもともと含まれていなかった重大性をすぐにでも付与してしまう。人をかくも幸福にするのは、心のなかのどこか不安定な要素である。人はそれを絶えず維持しようとする。それでいて、それがどこかに場所を変えない限り、ほとんど気づくこともない。実を言えば、恋愛にはつねにやむことのない苦悩がある。それはふだんは歓びで中和され、潜在化され、先延ばしにされているものの、いつでも残忍な姿に変わりうる。それは望んだものが手に入らないときに昔からいつも苦悩が取ってきた姿にほかならない。(3巻、p.372〜373)

「私」がジルベルトとの恋路が順調だと思っていたのに、うっすらと気づかないふりをしていたジルベルトが会いたがっていないことに気づく場面です。ここが今のところ『失われた時を求めて』の白眉。恋愛がうまくいかない、破局に向かっている場面で、自分の幸福だと思っていたものが不幸へ導く片道切符だということに気づく。不幸だと気づいて電車を下りようとしても切符を買ってしまって下りることができない。普遍的で当たり前の話なのですが、『失われた時を求めて』のゆったりした時間の流れに身を任せていると、突然急流にさらわれたかのような驚きがあります。緩緩緩緩緩緩急、くらいの熟語があったらいいのに。

幸福は不安定だけど、不幸は安定している。おもしろさの基準も分からないままぼんやりとアニメを見ていられるのは幸福ということなのかも。

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