コケカツ!とは野山に分け入ってコケを見ること。撮るだけで採らない。
ソーンダースの新刊と、失われた時を求めての4巻、収容所のプルーストの再読を抑えて次に読む本はナボコフ『ヨーロッパ文学講義』プルーストの章に決まった。今は河出文庫から出ているけれども、学生時代に古本屋で買ってまだ持っている数少ない一冊を本棚から取り出す。文庫だとプルーストはどっちに収録されてるんだろう、下巻かな?
いきなりナボコフ節が炸裂する。
全巻これ宝探しであって、宝物は時間であり、隠し場所は過去である。(中略)感覚から感動への変質、思い出の満ち干き、欲望、嫉妬、芸術的な至福感といった感情の波——これが膨大ではあるが、奇妙に軽ろやかで透明なこの作品の素材である。
軽やかさは確かにプルーストの特長だ。いや、ちくま文庫版など原文に忠実に訳されている版は改行や句読点が極端に少なく読みづらいと聞いたので確かに軽やかさとは言い切れないけれども、少なくとも光文社版は軽やかさが際立っている。それは描写が映像的であるということもさりながら、普遍的で小さな、ありがちな事件が起こることにも通じる。宿題をやらなかったことを指摘されて「うるさいこと言うから宿題やろうと思ってたのにやる気なくしたっ」なんて、今でもご家庭で見られる風景。『失われた時を求めて』は、ものすごく変わった話ではない。ありがちなことを煌びやかな描写と比喩、やりすぎぎりぎりの節度を保つのが軽やかさの秘訣かもしれない。
ナボコフはプルーストを読むことを「宝探し」と呼ぶ。実は宝物は見た者が宝物と認識できなければ宝物ではない。貴重なレコードも価値が分からなければその他のレコードと区別がつかないように、記憶に閉ざされた感情の波を見つけても宝物と思えなければ、プルーストはただの退屈な文章の羅列になってしまうだろう。宝を見つける技術をざっくり「教養」という抽象的な言葉で片付けてしまうのではなく、「カルパッチオ」という画家が出てきたらぐぐって眺めたり、「ドレフュス事件」がユダヤハーフのプルーストに与えた影響などを考えること、異なる質の比喩が重なると現れてくる情景を読み取れるようになること。世界の経験値が上がらないと宝物を見つけるのは難しいし、経験値の割り振りに失敗すると読めない本も出てくる。宝探しには国に決められていない、誰にも見えない資格と経験が必要なのかも。
数年前にコケにシフトして、今年はさらにこれまで読んでいないジャンルの本を読むようになった。専門性を求められない瘋癲だからこそできる気軽な読書を、来年も続けていきたいと思います。
みなさまどうぞよい2020年をお迎えください。
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