コケカツ(27)

Bryophytes

コケカツ!とは野山に分け入ってコケを見ること。撮るだけで採らない。

邦訳が14年前に出た『黄色い雨』を久しぶりに再読。14年前かー、著者が東京国際ブックフェアで来日したのが2011年だから3回目の再読。

孤独に対して凄まじいという形容詞は相応しくないかもしれないけど、村人が出て行って、妻が死んで、犬と一緒に黄色いポプラの枯葉をじっと見つめ続けて光が黄色くなってしまうところは、天国も地獄もなく、人の最期はこういうものかもしれないと納得する。生きていることを諦めるというか、ただ食べるためだけに生きて、他人の完全な不在に人は耐えらないのだろう。という苦しみは、インターネットが常時接続されてあらゆる娯楽がありSNSで他者と「つながる」ことができるわたしたちには想像しづらくなってきた。

一方で、語り手は必ずしもまともな人間ではなく、子どもが村を出て行く日に顔を見せなかったり、昔の村人が戻ってきたら猟銃を突きつける。頑固で、村に固執している。先祖も含めた自分たちの土地に誇りを感じていて、村から離れることは誇りを失った者で、彼にとっては敵とみなされる、ように読める。土地が人格につながるのは田舎あるあるだけど、この語り手の場合はこだわりが強すぎた。
一方で、なぜ人々がこの村を出て行くのかは明示されていない。高度成長期以降の日本と同様に、産業が途絶えた人々が単に見限っただけなのだろうか。

語りが未来形で始まり、未来形で終わる。語っている自分はまだ死んでいないのだけど、死んだ後のことを想像しているのだろうか。むしろ、語り手個人の問題ではなく、土地の問題であり、連綿と続いて終わる時を迎えた歴史そのものによる語りなのかもしれない。
福島の立ち入り禁止区域も、話題にならないどこかの過疎地も、わたしが聞いていない土地の声がし、見えない黄色い雨が降っているのだろう。

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