コケカツ(19)

Bryophytes
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コケカツ!とは野山に分け入ってコケを見ること。撮るだけで採らない。

ゴーギャン展はもう開催すべきではない?」という記事、有料なので最後まで読めないが、過去に価値があった作品を現代の基準で否定するのはありだけど、評価されていた歴史までは変えられない。展覧会を禁じるというのは受容されてきた歴史を切り捨てる、なかったことにする姿勢の表れで、絶対にあってはいけないこと。

「人はそもそもまちがえるし、ほんのわずかなきっかけで犯罪者となる」と教えてくれたのは高校の先生だった。主役にして一家5人皆殺しの犯人を演じることになった時、「演じている人物は台本に書かれたフィクションではない、自分がこうなった場合のことを考えなさい」と教えてくれた。ラブクラフトのようなゴシックホラーや、エルリック・サーガのようなファンタジーばかり読んでいたわたしにとって、書かれた内容が自分の身にふりかかるという経験がほとんどなかったので、目の覚める一言だった。何かをきっかけに他者からの評価が変わる、それでもその人がなしてきた善行も悪行も消えることはなく、ただ自分の一部であるということに気づくことができたのは大きいし、今でもその価値観が強く残っている。

テッド・チャン『息吹』所収の「不安は自由のめまい」では、あるデバイスによって並行世界の自分と話ができる。自分の選択しなかった行動によって、並行世界では別の結果が進んでいることを知ることができる。わたしだったらたぶんこのデバイス使わないだろうな。作中でも議論されていることで、選択の分岐点で本来の自分が選びそうもない突拍子もないことは何度試みても行わない、とされている。最近、選択した時にとても迷ったのは、転職するときに同じくらいの給与と仕事内容でどちらを選ぶか、という4年前のことくらいしか思い出せない。若いうちにはたくさんの選択肢があるから並行世界の自分がどうなってるか気になるかもしれないけど、今は選んだ側しかなかったと目をつぶって走りきるしかないと分かってる。
「不安は自由のめまい」ではも並行世界のことは分かるけれども、過去を変えることはできない。そこに固執するか、振り切れるか、見ないふりをするか。自分だったら見ない気がする。余計なノイズを取り入れて迷っていられるほど、人生は短くない。

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