白水社
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世紀が変わった頃にボトルメールが話題になった。まだメールはパソコンのOutlook Expressが主流だったころに、宛先を決めずに出すとボトルメールに登録した誰かにメールが届き、誰かから届くというものだ。サービス自体は残念ながらもうなくなったみたいです。メールのサービス自体は「海に流すのに金とるの?」という気持ちになりましたが、海に流すよりも誰かが受け取る確率が高いメールの世界に、宛先もなく読む人がどんな風体かも分からず言葉を投げかけるというのは浪漫であります。
本書はつまりボトルメールに関する本なのかと思って原題「Deshoras」を検索したら、「時ならぬ瞬間」。あれ。
スペイン語ができる人ならおそらくWEB上で読めてしまうのではないか。
本書の収録作は次の通り。
- 海に投げこまれた瓶 ある物語へのプロローグ
- 局面の終わり
- 二度目の遠征
- サタルサ
- 夜の学校
- ずれた時間
- 悪夢
- ある短篇のための日記
ここに収められた作品の初出については詳細がないが、出版された1983年という時期を考えると彼の晩年に書かれた作品と判断していいのではないか。そしてコルタサルの晩年といえば、「わざと分かりにくいように書けるようになった」とわけのわからない喜び方をする時期なので、本書にも一部で分かりにくいと評判の『愛しのグレンダ』につながる「海に投げこまれた瓶 ある物語へのプロローグ」が収録されている。グレンダ・ガーソンという映画女優に向けてボトルメールを出すという設定。
こんなふうにして深層の伝達は行われるのだと、私は思います。瓶が穏やかな海をのんびりとさまよう。そのように徐々に、この手紙も道をひらき、その真実の名前のもとにあなたを探し当てることでしょう。
本当のことはインターネットで一瞥しただけでは伝わらない、手紙が海によって運ばれる間に意味をひらいていくという考え方の柔和な優美さに、はっとさせられる。語り手から『石蹴り遊び』の言及があったり、紛れもなくコルタサル自身からグレンダ・ガーソンに宛てた手紙なのだが、おそらくグレンダ・ガーソンという女優は存在していなかった。ラストではグレンダ・ガーソンの死によって「われわれの愛はとこしえに成就する」とあり、ちょっと危ない妄想にも受け取れるが、「オフィーリア」を例に出すまでもなく、空想上の死ほどまた美しいものもない。
一方で鼠狩りをなりわいにし、政府に反抗する底辺層のぎすぎすした人々を描く「サタルサ」や、夜の学校でドラァグなパーティを垣間見てしまう「夜の学校」などダークな印象の物語もおさめる。
もっとも好きな収録作は「二度目の遠征」。うだつの上がらないボクサーがある遠征をきっかけに、第4ラウンドになると猛烈なラッシュをかけて次々と対戦相手を倒せるようになってしまう。語り手は仲の良いボクサーに理由を聞くが、ぼんやりとした返事しかもらえない。そしてチャンピオンと対決する時がやってくる……。やさぐれた会話を中心に、不器用な男の人生の歯車が回り始める音が聞こえるが、その端々にどこかかみ合っていない不吉な雰囲気を残す名作です。『愛しのグレンダ』の難解な不協和音に投げ出してしまった(わたしだ)人にもおすすめです。
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