p.25からは「活動的生活」について詳述されます。労働<仕事<活動の順番付けがあり、人間の行動として最もアーレントが評価する基準です。
活動的生活というのはアリストテレスから始まっていて、「公的=政治的問題に捧げられる生活」ということで、以前にも書かれていたように、「活動」は他者の存在を前提にした行動です。アリストテレスの時代は、めんどうなことは全部奴隷がやっていたので、「活動」は奴隷や職人、商人などの生活においてはありえないこととされていました。当時は特権階級にしか自由が認められていなかったのは分かりますが、その基準をそのまま現代に持ち込むのは無理がありそうです。ですが、アーレントはそれにはまだ触れず、「活動的生活」についての解説を続けます。
この自由な三つの生活様式とは、第一に、肉体の哀楽を享受する生活で、そこでは与えられているままの美しいものが消費される。第二に、ポリスの問題に捧げられる生活で、そこでは卓越が美しい功績を生みだす。そして第三に、永遠なる事物の探求と観照に捧げられる哲学者の生活であって、この永遠なる事物の普及の美は、人間が介入してもたらすこともできなければ、人間がそれを消費することによって変えることもできないのである。
美を消費し、行いが優れ、永遠へ想いを馳せる、こんな生活をおくってみたいものです。ここの解説はちょっと分からなかったのですが、「市民」という特権階級だけが経験することができた「活動」が今では「現世的生活の必要物の一つとなり下が」ってしまい、アーレントは観照だけが真に自由な生活様式としています。観照、難しいです。
主観をまじえないで物事を冷静に観察して、意味を明らかに知ること。
美学で、対象の美を直接的に感じ取ること。美の直観。(コトバンク)
と言われますが、ここでは前者の意味でしょう。主観が入らない観察なんてありえるのかな?
p.29では「活動的生活」を政治的生活よりは「多忙」に近いとしているところがおもしろい。あらゆる活動は、「思考の過程でさえ、観照の絶対的静の極みに達しなければならない」とし、「すべてが真理の前では止められなければならない」というのがちょっと分からない。真理は人間があたふたしていると現れてくることがなく、観照の域に達していないと現前しないということでしょうか。理想としては分かるんですが、21世紀に真理なんて期待していいんでしょうか? 期待することそれ自体が主観だとしたら、真理には到底たどりつけないのでは?
p.29〜30で宇宙に比べると人工物は美しくなく真でもない、と言い切っています。「不易の永遠が(中略)姿を現すのは、ただすべての人間の運動と活動力が完全に静止するときだけ」としています。湿度があって人の入らない山で自然に生えているコケは、それはそれは美しく、こういうのが不易の永遠なのかとも思います。しかし、歴史的に見ればわずか100年くらい前には樹木がほとんどない山地を切り拓いて植林した歴史があります。それ以前のコケの生息については調べられていませんが、植林という人工物の結果であるから不易の永遠ではない、と考えるべきなのでしょうか。
数学に置き換えてもいいかもしれません。わたしには数学が全く分かりませんが、永遠とも思える数字の中にきらめく素数などはただ圧倒されますが、数学は人工物といえないでしょうか。
アーレントが言いたかったのは、活動的生活の根本は観照にあり、ということです。政治的な活動は主観を交えずに行うべき、ということでしょうか。p.31ではアーレントの本当に議論したいことが記されています。
伝統的ヒエラルキーにおける観照の圧倒的な重みのために、<活動的生活>それ自体の内部の区別と明確な文節が曖昧となった(中略)マルクスとニーチェがこのヒエラルキーの順位を転倒したにもかかわらず、本質的には変化していない
うーん、難しい。近代の転倒って何?
p.32には<活動的生活>という言葉を使うとき、元になっている関心は<観照的生活>と同じではなく、優劣もない、としています。アーレントの本を読んでいると、あるゴールに向かって思考を進めるのではなく、その場その場で考え方は変わることを是としているように思います。ここの活動と観照の対比も、主観抜きで考えた結論と、それでも行うべきことが異なることは仕方ない、と考えるべきなのでしょうか。
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