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宮本常一の存在を知ったのは、東日本大震災がきっかけだったと思う。Evernoteの記録によると2011年5月に岩波文庫の名著『忘れられた日本人』を読んでいた。「忘れられた」というのは民衆の生活であり、技術が発達していくごとに使われない技術や風習は忘れられていく。まして東京に情報が集中するようになると、地方の事柄は地方史家くらいしか目を向けなくなってしまう。
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東日本大震災による福島原子力発電所の事故によって、多くの放射性物質が福島県土に放たれ、人々は「除染」を行った。地表の草や土についた放射性物質をまとめて管理しようとしたが、その際当然小さい草花は根こそぎ排除されてしまう。その結果、福島県の植物相は変化してしまった。現地の蘚苔類研究者で服部植物研究所の研究員として名を連ねた湯澤陽一氏は、市販されていない自著『福島県苔類誌』の後書きで、カビゴケをはじめとした土や草花の表面についていたコケが一掃されてしまったことを嘆いている。除染しなければ人体やそれ以外に影響を及ぼすかもしれない放射性物質を環境に残したままになる。除染すると固有種が消える。良い悪いの問題ではなく、こんな大事故を人は決して起こしてはいけないのだと改めて溜息が出る。
古文書とコケには「忘れられた」存在が消えていく過程の共通項がある。人間にとっての利益ばかりを見て、「役に立たない」ものは忘れられていくのかもしれないが、実はその時の技術や知識では有益であることが理解できないだけかもしれない。
『古文書返却の旅―戦後史学史の一齣』は忘れられた日本人を見いだすために宮本常一をはじめとした水産庁に所属した人々が過去の古文書を各地で借りて、そのままになってしまったものを著者を中心に返却する顛末を描く。著者の意見などはあまり差し挟まれず、淡々と履歴を追っていく感じは、意見をコンパクトにまとめる新書のスタイルではあまり見ない。それが新鮮ではあるけれども、一方で実名も淡々と書かれているので、(詳細は書かれていないまでも)返却に際して諍いのあったような話については読んでいるこちらが気まずさを覚える。借りた研究者たちのスケジュール管理の杜撰さは、21世紀だったらWebサイトのトップページに画像でお詫びを出すレベルの失態だ。読んでいてやるべきことがあるのにやりきれないつらさに共感してしまう。
水産庁の一部だった彼らが古文書を借りに行った場所にはどんなコケがあったのだろう。高度経済成長期の途中なので、地方はまだまだ空気がきれいで至る所にコケが残っていたはず。当時は愛知県や三重県あたりでコケの研究が盛んでした。その結果は、孫福正先生たちが中心となって「三重生物」にまとめられている。同じくらいの熱量が各地に広がっていればよかったのだけど、世界にそれほどの関心と技術はなかった。人の歴史だけではなく、コケをはじめとして多くの歴史が経済の成長と引き替えに失われてしまった。東京大空襲などは明確に失われたことに気づくが、徐々に消えていくものは認識するのが難しい。人間の視点からはほとんど影響がないように見えるが、わたしたちは本来見るべき・学ぶべき歴史を見落としたまま未来に進んでいるのかもしれない。その答えがもしかしたら民俗学にあるのかも。
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