「世界文学とは何か?」デイヴィッド・ダムロッシュ、池澤夏樹+柴田元幸、沼野充義、野谷文昭

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東京大学で開かれた「世界文学とは何か?」を聴講してきた。

まず「世界文学とは何か?」の著者ダムロッシュ氏からは日本語で書かれたテキストを渡され、それに沿って氏が話していく。まずは、杜甫「旅夜書懐」・芭蕉「おくのほそみち」・ワーズワース「ウエストミンスター橋で——1802年9月3日創作」を比較し、詩作の主体とフィクション性について、そして東西の詩の読まれ方の違いについて語られた。東では季節の感動をそのまま歌い上げるが、ワーズワースは秋の情景を夏に重ねるように時節の変動を組み込むことがあるというのは驚き。モリエールの「町人貴族」と近松門左衛門「心中天網島」では劇中に扮装を取り入れること、三島由紀夫が「失われた時を求めて」の手法を用いながら平安時代の要素を取り入れることで単にものまねに終始しなかったことなど、現代の見地から比較する手法について聞けたことは実に有意義でした。そして比べることが不可能なことを比べていくことの大切さ(単なるこじつけにならないための論理が必要になるだろう)とおもしろさに気づかせてくれたことで、本書の読解の補助以上の濃密な時間でした。

河出書房新社から世界文学全集を編んだ池澤夏樹氏は、文学の同時代性について強調され「新しい今の世界を読む」ことを目的に編纂されたと発言。フォークナーから中上健二、フォークナー+P.K.ディックでスティーブ・エリクソン、エリクソンから古川日出男とつながる話や、カルヴィーノの「軽さ」が多方面に影響を与えて川上宏美の初めての小説がカルヴィーノのパロディだったとか、興味深い。全集中、唯一日本人作家で取り上げられた石牟礼道子を絶賛し、公害で苦しむ人々の言葉は単なるルポではなく、彼らに寄り添ってきた著者だから書くことのできた人々の言葉を抽出し著者によって新たに生成されたというところは考えさせられる。3.11以前の「死者がいない世界」が終わり、生死がより身近になり日々の生活に地震と放射能の不審を抱える読者に「幸福とは何か」という定義を迫るという。石牟礼道子『苦海浄土』ぜひ読まねば。

休憩を挟んで、柴田先生、沼野先生、野谷先生から世界文学について意見があり、その後は研究者や参加者からの質疑応答。翻訳者が多かったこともあり、翻訳で原文から失われることよりも得ることの方が大きいという話を中心に回ったような印象。個人的には野谷先生によるラテンアメリカ文学が日本で受容されていく話や、ガルシア=マルケスはおもしろさが共有されるのに対しボルヘス(『日本の作家が語る ボルヘスとわたし』が出ていることを知らなかったのは不覚)は個人個人で意見が異なりまとまりにくいというのがすごくおもしろかったけど、会場の受けはいまひとつだったかも。

質疑応答は「世界文学とは何か」というテーマからはやや外れている質問が多かったような。英語の優位性と傲慢さ、文学が切り捨ててしまう当事者性などについて考えさせられる一日でした。沼野先生がおっしゃるとおり、もっと文学を読みもっと語学を学ぼうという気になったぜ。

コメント

  1. sabosashi より:

    あらためてこんにちは。密度の濃いテキストが並んでいて、はっとしてしまいそうです。ところでこの講演会、ずいぶん広範な内容だったんですね。これからじっくり読ませていただきます。

    • uporeke より:

      コメントありがとうございます。翻訳により失われる情報よりも、翻訳によって得られるものの方がずっと大切だ、
      というような説明があったのが印象的です。
      これからもよろしくお願いします。