ダニロ・キシュ『死者の百科事典』を読みかけてはいまひとつ乗り切れずに投げ捨てるということを何度か繰り返した。物語としての核に触れていない感覚がずっとつきまとっていたせい。この短編集は単に著者の経験から紡がれたものではなく、聖書などが背景に色濃く塗られているので、そのまま読んでものれんに腕押し状態となってしまう。
たとえば冒頭の「魔術師シモン」。これは分かりやすくグノーシス派の先駆けと言われたシモン・マグスが使徒ペテロと術比べした時のエピソードだ。シモン・マグスはペテロに金を渡して信仰を得ようとしたことが大きく取り上げられているようですが、ロープを空に投げ上げてよじのぼったり、他人の病気を治したりしたという。ダニロ・キシュは、ペテロの前でシモンが空を飛んだり、地中に埋められて棺桶大脱出という引田天功ばりの技を見せようとする。自信をなくしたペテロは神にすがりつき、信仰を取り戻す。同行する娼婦ソフィアを含め、伝説をそっくり小説に仕立てたという印象が強い。
もう一つ聖書の伝説を短篇に仕立て直したものが「眠れる者たちの伝説」だ。
- ディオニシウス
- マルフス
- 牧人ヨハネ
- 犬のキトミル
3人と1匹が洞窟に横たわり、いずこかへ運ばれる過程で夢か現実か定めのつかない光を見る、というだけの物語だ。これも聖書、または後生の聖人伝説にのっとっている。さらにコーランまでも持ち出されており、洞窟の中に潜んで迫害を免れるという聖書とコーランに共通する舞台が与えられている。
【ディオニシウス】
フランスで布教するも異教徒に斬首され、首を切られた後もキリストの教えを語り続けた、というちょっとホラーな伝説を持つ聖人。おいしいワインの名産地モレ・サン=ドニノ由来ともなった。
【マルフス】
彼の由来が不明。ディオニシウスが作中で一番年下であると明言しているので、おそらく1世紀前後、ローマ帝国からキリスト教が弾圧されていた時期の人物と思われる。
【牧人ヨハネ】
ヨハネはおそらくサロメに首を切られた方。この物語に出てくる人々はみな、聖人として迫害を受け、斬首されている。
【キトミル】
日本では「キトミール」と称されている。コーランで信仰篤い人々が迫害を受けた時、洞窟に案内して長い眠りにつかせ、迫害を免れたという伝説の良犬。この物語では3人とともに洞窟で寝ている。
【プリスカ】
ディオニシウスの恋人と語られるが、実際は1世紀後半の女性で、生きていた時代に隔たりがある。裕福な家庭に育つがキリスト教に帰依し、むち打たれ、沸騰した獣脂をかけられても信仰を曲げなかった。後に斬首される。
と、4人中3人が斬首されているところからして、後半の夢か光か分からないとディオニシウスが問い続ける場面は、処刑あるいは処刑後の死のイメージを描いていると思われる。最後の傍点「そんな姿の彼らを見たら、背を向けて逃げ出すだろう。さもなくば、恐ろしさのあまり身が竦むだろう。」は、首と身体が離れた遺体を目撃する、という意味だと解釈している。
ダニロ・キシュのおそらくは唯一の日本語での解説書である奥彩子『境界の作家 ダニロ・キシュ』(松籟社)では、ユーゴスラヴィアに生まれて母国を離れざるを得なかった著者自身に基づいた解説がぎっしり詰まっていて、読み応えがある。しかし、『死者の百科事典』で取り上げられていたのは「死者の百科事典」「赤いレーニン切手」の2編のみで、キリスト教の伝説がダニロ・キシュにどう影響を与えているかまでは探すことができなかった。このあたりは聖書や聖人に詳しい人からの解説を聞きたいところ。また個人的には、キアラン・カーソン『シャムロック・ティー』に引き続いて出てきた聖人たちのエピソード、カソリックでの捉えられ方に興味が湧いた。日本だと親鸞や法然のような僧の立場にあたるのだろうが、事物にまつわる聖者というとらえ方をされているようで、より民間信仰に近い形で受容されている印象でした。
コメント