断捨離遂行中

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苔観察に出かけると、行きに見ていた景色と帰りに見る景色が異なる。一度通った道なのに、行きで見つけられなかった苔を見つけたりする。対象が小さいせいももちろんあるが、そこに差異を見つけられるかどうかが問題だ。たぶん、行きの道で一度記憶した映像を帰りに逆から見ることで、自然と客観視することができるのだと思う。こどもの頃に、行きの車ではフロントガラスから見えた月が、帰りは後ろの窓ガラスから見えたことに違和感を覚えたことにちょっと似ている。

断捨離(この言葉はあまり好きではないが、要は不要品を選別して捨てること)も同じかもしれない。普段の生活で見慣れてしまった不要品は、そこに存在していても別に困ることはない。しかし、要不要の差異を見つけて自分が認識することで、不要品と初めて識別することができる。そのためには、自分の部屋を客観視することが必要で、長く住むほど難しくなる。

最近、覚えている限りで処分したものは、

  • 麻雀セット
  • レーザーディスクプレイヤー
  • スピーカーセット
  • 大きな衣装ケース3つ
  • 衣装ケース1箱分のタオル
  • 段ボール5箱分の本
  • 衣装ケース1箱分のCD
  • 拾った木製の棚

10年以上押し入れにしまい込んでいた壊れたレーザーディスクプレイヤーなどは使わないのが明らかだから、捨てようと思えばすぐに捨てられるのに、粗大ゴミシールを買うのが面倒とか粗大ゴミ申請するのが面倒(Webですぐできます)とか理由をつけてため込んでいた。いや、理由など別に考えてもいなかったな、足の踏み場に困っているわけではないから不要品だと認識していなかったというのが正しい。

一方で本の処分は難しい。残す基準を作らなければならないからだ。レアな本は残す? シリーズものは残す? わたしは「再読するくらい好きか」「5年以内に再読するか」を選別基準にした。5年以内というのは難しいところで、1年に100冊読むとしてどのくらい再読できる本があるか。3割くらいと見込むと150冊。さらに読む/読まないは別として好きすぎて処分できない本もある。たとえば、キアラン・カーソンやジョン・クロウリー、ジーン・ウルフは死ぬまでもっていたい。そうなると倍の300冊くらいが目安だ。このくらいなら何かあっても段ボールにちょいと詰めてどこかへ送ることができる。おおげさかもしれないけど、自分が死ぬとなったらすぐに処分できるくらいのものだけで暮らしていく年齢になったのだと思う。

わたしの実家は広大という形容詞がおかしくないくらいの広さで、6つの部屋と土間・台所・風呂場・竈があり、さらに門にも居住空間があって、それとは別に父は小屋を建てて暮らしていた。農作業を一応の生業にしていたから道具が大量にあり、さらに物が多すぎて入れない部屋があったりした。そんな場所で父が死んだとき、ものを処分するのがとにかく大変で、洋服やためこんだちらしなど燃やせる物はひたすらに家の庭で焼いた。「野辺の煙」などと言うけれども、その人が所有していたものを焼く煙というのもまた地上での役割を終えて空に返っていくものなのだと思う。ものを処分するというのは身体を洗って垢を落とすような行為なのかもしれない。

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