推敲した先にあるもの


わたしは基本的にインターネットで書く文章を推敲することはない。一応読み返しはするし、直しもするが、推敲というレベルではないと思う。推敲というのは例えば大江健三郎が初稿からほとんど書きなおすという話。ゲラもWEBにアップされている。最終稿に近い状態でこれだけ直しが入るというのは、ワープロが流通した現在でこそ力技でなんとかなるが、手書きの時代を想像すると目眩がする。それだけ一つの文章、一つの言葉に拘って昭和以前の文章は書かれていた。

1994年に亡くなった、わたしが唯一好きだと言える詩人辻征夫は、亡くなる前の対談で、ある詩に3年以上かけていたと発言している。詩はまるで油絵のようだ。詩人は発した言葉が乾くまで待って、それから丹念に湿った言葉を重ねていく。詩にキャンバスの限りはなく、ページの長さという制限もない。そこに3年を費やして言葉を足して引いて削って印刷されたものを、わたしは1分程度の時間で読み終えてしまう。時間の重みを感じることもなく、4ページの言葉の連なりとしか見ずに。

もうすでに誰かしらが言ったことだろうが、これだけインターネットで思考を簡単に発信できるようになると、3年間推敲された言葉も、数分で書き上げられた文章も、数秒で同じように消費されてしまう。わたしは受け取る言葉を選ばなければならないし、受け取ることができる時間を意識しなければならない。そうして選ぶことを続けていくといつの間にか誰もいない場所に立って、周囲の喧騒に翻弄されて、一人で過去の書籍だけを紐解いて、誰とも言葉を共有できずに限られた生を続けていく。

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