『ナボコフ全短篇』を全部読む試み――「ラ・ヴェネツィアーナ」――


ここまで4篇読んできた『ナボコフ全短篇』はもちろんどれも粒ぞろいではあるのだが、この「ラ・ヴェネツィアーナ」は頭ひとつ抜けていると言えるだろう。そしてナボコフを「幻想作家」と呼ぶことが許されるのも本作あってと言えそうだ。「森の精」に限らずナボコフが非現実的な事象を描くことは珍しくないが、本作はそれをトリックとして扱うことにより、読者はどっちつかずのエンディングを迎える。ビオイ=カサーレスの代表作『モレルの発明』と似たような味わい。

主な登場人物は5人。

  • 陸軍大佐(フランクの父、マゴア氏の友人)
  • マゴア氏(絵画商兼絵画修復師)
  • モーリーン・マゴア(マゴア氏の若妻)
  • フランク(万能青年)
  • シンプソン(内気なフランクの友人)

マゴア氏を除く4人が大佐の庭にあるテニスコートでダブルスをしているところから始まる。それぞれのラケットさばきがそのまま人となりを表している。テニスが終わるとマゴア氏が入手したセバスティアーノ・ルチアーニ「ラ・ヴェネツィアーナ」を観覧する。なお、セバスティアーノ・ルチアーニは16世紀の実在の画家だ。しかし、その絵はさっきまでテニスをしていたモーリーンにそっくりなのだ。もともとモーリーンに好意を抱いていたシンプソンは、この絵を見てさらに恋心を募らせる。そこにマゴア氏はシンプソンに絵を見ていると絵画の中に入り込んでしまい危うく出られなくなるところだったという過去を話し、これが物語の大きな仕掛けとなる。食事を終えて床に就こうとするとフランクとモーリーンが熱烈なキスを交わしている場面を目にしてしまい、呆然と見送ることになる。

日が明けてフランクは大佐からモーリーンに手を出すなと叱られる。フランクはシンプソンが告げ口したと合点し、彼が忘れていったラケットを放り投げる。そして大佐に口答えをして去っていく。ここでフランクの放埒ぶりが発揮され、一気に不穏な空気が流れる。

一方、屋敷で退屈な時間を過ごしていたシンプソンはじっくり「ラ・ヴェネツィアーナ」を見ていると感情が知性に打ち勝ち、

努めて何も考えないようにしながら、シンプソンはその上によじのぼり、ヴェネツィアの女の正面にすっくと立ち、そして再び、両手を振り上げ、彼女のほうに向かって飛ぼうと身構えた。

しかし、フランクにその姿を見られて絵画への熱い思いは急激に萎んでしまう。そして無様に「今のことは他言しないでほしい」と懇願するが、フランクは先のことを恨みに鼻にも引っ掛けない。

物語の視点は部屋に閉じこもって絵画を修復するマゴア氏に向けられる。6の冒頭の描写はナボコフの色彩と比喩表現の典型的なタイプだと思う。

日が暮れるころ雨は不意に止んだ。誰かがふと思いついて水栓を閉めたようだった。湿り気を帯びたオレンジ色の夕焼けが枝の間に震えはじめ、次第に広がって、水たまりという水たまりにいっせいに映しだされた。

と情景を描写しておいて、そこにとぼとぼとマゴア氏が登場するところはカメラがパンしていくようだ。各自穏やかに過ごす午後だが、フランクとモーリーンについては語られない。夜に入り屋敷の番人が物語にすっと出入りしたところで最大の山場を迎える。

ここから先は古いとはいえネタバレが興を削ぐ物語のため多くを語ることはやめよう。しかし最大のトリックたるレモンの解釈についてわたしは今でも判断を下せない。これこそ読書会で読むのにふさわしい一品で、全集を入手したけど読んでいないという人にお勧めできる作品。

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