ミロラド・パヴィチ『ハザール事典(男性版)』

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本棚に収められてから幾歳月。いつかは読まねばならない本というのはたいていそうなのだが、いつも本棚からこちらを見ているように感じられる。自分の視界には入っていないはずなのだが、『ハザール事典』が本棚に収まっていて読まねばならないという誰に約束したわけでもない強迫観念に囚われて、他の本をとるたびに心が痛む。ああ、またこの本をとらなかった、と。

そんな気懸かりを解消するには読書会に参加できないこのタイミングを利用するしかない。この本で読書会をやるにはちょっと入手が難しすぎる。

本書のタイトル「ハザール」は9世紀頃に実在した国で、黒海を挟んでバルカン半島の反対側、黒海の東側にあたる。ただ、本書ではキエフを含む黒海の北側も支配していたということだ。今ではロシアとトルコに挟まれたグルジアやアニメニア、アゼルバイジャン付近が舞台ということになる。王カガン、女王アテーによる支配の中で国の宗教を選ぶことになり、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の聖職者たちが集まって、王家にプレゼンを行う。このプレゼンを聞く側の女王アテーは眠るときに自分のまぶたに文字を書き、その文字を見たものは死ぬという。彼女は基本的に不死の存在なのだが、この文字をあるやり方で見てしまい死んでしまう。このような伝説もハザールの神秘的な面を浮かび上がらせる。

ハザール地図

※画像はAN INTRODUCTION TO THE HISTORY OF KHAZARIAから転用

しかし、本書の主な舞台は17世紀にハザール王国の改宗についての資料が見つかり、ハザールの改宗について議論が進むところにある。『ハザール事典』執筆者の一人と言われるアブラム・ブランコヴィチを中心に、剣戟の達人や書写師たちが失われたはずの『ハザール事典』毒入りインキ印刷版などをめぐって、ついには夢の世界に踏み込むことになる。ユースフ・マスーディというウード奏者が自分に夢狩人の力があることに目覚め、ウードを捨ててあるユダヤ人の夢を追うことになる。悪魔やゴーレムも登場するというと西洋を舞台にしたファンタジーを彷彿させるが、『アラビアン・ナイトメア』を読んだ時のように、世界観に深く埋まっていくような、それでいてその世界を肌で感じている現場感のような臨場性がある。世界を把握しきっていないのに臨場感があるというのは矛盾するようだが、それこそが夢の体験に似ている。丁寧に人物関係を読み解きさえすれば、眠らずに夢の中のハザールに出会うことができる。

そして、現代になると数少ないハザール研究者の自分宛の手紙という変わった形式が中心になる。この辺りまで来るとカガンとアテーの歴史的な位置づけがわかるようになり、そして予想される悲劇が当然のように起こる。因果を断つことができないと仏教ならば言うところかもしれないが、これも運命。

イスラム圏に近い文学って『アラビアン・ナイトメア』もそうだが、夢が人生を左右することが多い。これはコーランに由来するものなのか、土着の文化があるものなのか。このハザールブームにのって、図書館でハザール関連本も予約してしまった。こちらも楽しみ。パヴィチは『風の裏側』も持っているので、そちらも続けて読むつもりです。

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