ハンナ・アーレント『人間の条件』をゆっくり読む(6)

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『人間の条件』、分かるようで分からないところがたくさんあるので、そもそも哲学の教養が足りないのではと思い、中山元『自由の哲学者カント』(光文社)を並行して読んでいます(さらに『鬼滅の刃』も並行して読んでいます。11巻は衝撃的だったなー)。この本にもちょくちょくハンナ・アーレントが註釈なしで出てきて、アリストテレスや理性の把握について語られるので、副読本に良さそうです。

p.32「3 永遠対不死」を読んでいきます。

政治的領域が人間のいっそう高い活動力を必ずしも満足させる物でない(中略)ポリスを支配している原理にとって代わる、それよりも高い原理を発見した

選ばれた市民によって運営され・議論されるポリスでの活動が最高のものではない、というのは、いわゆる政治が楽しいことばかりではなく虚虚実実の人間関係による駆け引きが多く、精神の充足を満たすものではないと解釈しました。「とって代わる、高い原理」というのは形而下の問題ではなく、形而上の理念に関わる、ということでしょうか。

ここから表題のとおり、不死と永遠について考察されます。ギリシア人にとって自然と神々は不死であり、ひいては宇宙が不死である。人間は生から死まで直線的に進み、宇宙の円環から逸脱しているというのです(ボルヘスみ!)。
苔や羊歯をはじめとした自然がきちんと観察されず、背景としか認識されていないから不死と考えられたということなら、自然を解明する力がなかったがゆえの誤りだと思うんですが……。他の生命も直線的に生から死へ進んでいるわけですが、人間のような理性・知性がないから円環から抜け出ることができない。個人的にはちょっと人間の優位性を過大評価してるように思います。

話は不死から永遠に変わります。思想家が永遠について著述するとき、それは<活動的>であるというところまでは分かります。著書が他者と共有されることは<活動>になるんだろうなと。そこから先の「永遠と哲学者」タッグチームの<活動>は、不死への努力と矛盾する、と考えているのはプラトンだけ、というところがよく分かりません。プラトンにとって永遠は語ることができないもの、アリストテレスは言葉はないが「永続する今」として永遠を語ることができる、ということか。このあたりはプラトンの「洞窟の比喩」が関わっているそうです。


哲学者が当初「永遠」について考えたのは、自分たちのポリスの永続性を検討したことが機会だといいます。それがローマ帝国の没落・キリスト教の福音によって、現世で不死を努力することは諦めるべき、となりました。

文末の「<活動的生活>の源泉であり中核であった不死への努力を、忘却の中から救いだすことはできなかった。」について、キリスト教以降は、己の努力ではなく神の望む努力に変容しましたが、現代はどうなのでしょう。大金持ちが自分の身体を冷凍保存したりしますが、一般のわたしたちにとってそもそも不死へ努力すべきものとは考えないように思います。もちろん、死への恐怖は多かれ少なかれ誰しも持っていますが、死を永遠に先延ばしにすることを求める人は少ないように思います。永遠によって何を得るのか、ギリシア時代はポリスの永続を求めたのかもしれませんが、価値観が多様化して絶対への不信が最大化している現在、労働者にとってはただ労働が続くだけでしょうし、働く必要のない富裕層にとっては退屈が続くだけのように思います。『ハザール事典』でも不死の存在が出てきますが、世界の駒の一つでしかなく、到底幸福には見えませんでした。老いや死はこわいけれども、不老不死は退屈でしかない、そう考えると何を求めて生きるべきなのか分からなくなってしまいます。

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