ヘーゲル『歴史哲学講義(上)』挫折の記録

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心身共に疲労していて最近はじんましんも出てきてしまったので、しばらく読書会はお休みしています。代わりといってはなんですが、読んだ本についてつらつら書いていこうと思いました。
わたしは本を読むとき、難しいことやおもしろいことが書いてあったら付箋を貼るようにしています。使っている付箋は3Mの「ポスト・イット スリム見出し(ミニ)」。

付箋を貼ったところについて、なんで気になったのかを書き記していきます。

最初はヘーゲル『歴史哲学講義』。みなさーん、アウフヘーベンしてますか?

まずタイトルがかっこいい。歴史と哲学両方いっぺんに講義しちゃうなんてすごい。曰く歴史には3種類あって、「事実そのままの歴史(現代では「事実」さえも危うい)」「反省をくわえた歴史」「哲学的な歴史」のうち最後のものを考えていく。哲学的な歴史というもの、わたしから見るときわめて曖昧で、

世界史のうちに理性が存在すること、知と自覚的意思の世界は、偶然の手にゆだねられるのではなく、明晰な理念の光のうちに展開すること、そのことだけはしっかりとゆるぎなく信じるべきです。

ここでもう、わたしには良い読者たりえる資格がなくなった、とがっかりです。世界史に理念が存在するというなら、これまで散々繰り返されてきた悲劇はなんだったんだ? 
しかし、本書が書かれたのは1820〜30年代でフランス革命の直後。世界大戦や被爆などを体験したことがなく、キリスト教の力が絶大な時期であることから、絶対的な西欧主義による史観なのです。そのあたりを差し引くとしても、あらゆることが相対化された現在読み返すには、正直埃を被った代物のように見えます。

序盤の「A 歴史のとらえかた」「B 歴史における理性とはなにか」がとにかく難しい。キリスト教を基礎に「偉大な世界史的情熱に突き動かされた主観的意思が、どのようにして現実の真理に合致した目的をもつか」を解説するのだけど、もうこの時点で誰の主観的意思(首長?)で、現実の真理に合致した目的って民衆にとって何なのさ?

一方でそこを抜けると各国の紹介に入り、なかなか独特な視点を開陳します。

黒人の特徴はといえば、その意識がなんらかの確固たる客観性を直観するにいたっていないことが、まさにそれで、人間の意思が関与し、人間の本質を直観させてくれる神や法律がかれらのもとにはない。アフリカ人は、個としての自分と普遍的本質としての自分との区別を認識する以前の、素朴で内閉的な統一のうちにあって、自己とはべつの、自己より高度な絶対の実在については、まったく知ることがありません。

このあと数ページにわたり、黒人がいかに無知蒙昧の輩であるかとうとうと語ります。キリスト教の傲慢さよ! アフリカについては全く

難しい「歴史のとらえかた」ですが、とにかくキリスト教の考えが中心にあり、今の歴史解釈とは大分異なるように見えます。

理性の原理を信じてくれるようあなたたちに要求する気はない、といいましたが、宗教の形をとった、、、、、、、、原理なら、信じてほしいと要求してもいいような気がする。

キリスト教に則って西欧は動いていたので、そこはやむを得ないかも知れませんが、「世界史」としてくくることはできない。読み解く側の哲学のありようというわけでもないし、哲学の経験値が浅いわたしにはまだまだ手を出すべき本ではなかったようです。そして世界史の概説ということであれば、ヘーゲルの後にたくさんの優れた書物が刊行されています。岩波青背を読んでるとかっこいい!以外の、本書を読む蓋然性というところから考えてみるべきかもしれません。

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