吉田絃二郎『わが詩わが旅』(響林社文庫)

吉田絃二郎 book

吉田絃二郎が誰なのかも知らずに読み始めたのは、Twitterで信頼できる人がほめていたから。Kindleで安いので即決したが、開いてみたらFix型と言われるむかしの版をスキャンして並べたものだった。旧字を最新のiPadで読むというのは不思議な感じだ。国会図書館の蔵書を見るときにも思うが、ディスプレイと旧字の組み合わせが未だに慣れることができない。ただそれは、嫌悪ではなく違和感よりも不思議という印象。活版印刷を手にとって凹みに触れたりすることができない、紙でないことが前提として脳みそにこびりついているのだと思う。

序文からこれは好きだと頭の上に!がつく。長谷川四郎や小山清のように、強い欲を持たず自然をあるがままに捉えようとし、捉えることができるように祈るような文章。

出来ることならばわたくしは一生旅から旅をめぐつてゐたい。雲のごとく、鳥のごとく、執するところなく、凝滞するところなく、悠々自適の天地をもとめて生きてゐたい。

わたしはできることなら猫とともに家から一歩も出たくないので、著者の気持ちが分かるとは言えない。それでも漂泊の日々を繰り返して何者でもない状態を続けたいという気持ちなら、少しは分かる。苔を見ている時がそうだから。苔を見ている時間は自分を忘れて、特定の湿度・日照の場所を探すことだけに集中している。思い通りの場所に見たことのない苔がいたときの発見の喜び、いなかったときのなまじな観察力、どちらも自分はどこかへ置き忘れて何者でもない、苔を識別するマシーンになっている。

著者は実家の筑紫、大阪・京都、富山など、タイトルの通り旅を続ける。旅行先で幼い頃の喜ばしい記憶、目の前にある雄大な山、ふもとで火をくべる木樵に生活のあわれさを感じたりする。そうか、わたしが読みたいのはあわれさかもしれない。強い感情を伴わず、ただあるがままを愛おしむ視点。音楽も本も苔も、わたしが好きなのはあわれさを含んでいる。著者といっしょに旅をしたらどれだけの苔を見ることができただろうと、羨ましさも覚えながら日本各地の自然を著者とともに味わっていく。

巻末の山崎氏による解説は、夫人との美しい挿話、パーキンソン病に罹病してからの旅への憧れなど、本編がぐっと寄り添ってくるような内容で、こちらから読んだ方がいいかもしれない。山崎氏によると著者は旅に芭蕉を携えたという。実に粋で見習いたい心持ちだけれども、執筆から90年もたとうとしている平成の終わりには読むべき本がたくさんあり、諦観にはまだまだ遠い。

一茎の草の葉のなかにも、いかに豊かに神の意志が働いてゐるかといいふことを想像するだけでも、わたくしたちは、自然の深さと尊さとを、感じないではをれない。

コメント