行動経済学って人間の理性を疑うことなんですね。ダン・アリエリー『予想通りに不合理』

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自分では効率的に最適な解をそれなりに選べていると思って生活している。仕事ではタスクを洗い出して、かかった時間を記録し、繰り返しそうだったり忘れてしまいそうなことは簡単だけどマニュアル化している。
買い物だって安さとおいしさと時間を天秤にかけて、常にベストを探っている。おいしい総菜が売っている店は野菜が高い。総菜がおいしくない店は全般的に安い。レシピによって使い分けることになるけど、安い店は遠いので時間分の費用がかかっていると考えると、高くても総菜で済ませた方が効率がいい……。これを考えてベストの答えを出すだけでもだいぶ頭を使ってストレスになっているような気がする。そういうことに普遍的な最適解を模索するというのが行動経済学、なのかな?

自分の仕事にだけ集中して必要な学びだけ行っていればいいのに、当たる可能性がほとんどない宝くじを買ったり、一円も儲からないのに苔を調べたり、人は不合理なことを行う。なにを基準にして不合理な選択を行うのか、いろいろな実験を通して考えるのが本書。難しい数式は出てこないので安心です。

本書ではいろいろな実験を通して人々の不合理な行動を説明するのですが、なぜそうなるのか書かれていても腑に落ちないことがある。たとえば、無料でお金を渡すイベントをやってももらってくれる人は一握りというのは、人々はおいしい話に裏があると猜疑心を持つことが基本になっているというのですが、わたしだったら「もらうことの恥ずかしさ」が先に立つ。もらうことのメリットよりも、自分がもらう存在であることが恥ずかしい。この変なプライドがあるせいでいろいろうまくいかなかったような気がする。

プラシーボの薬でも安いのより高い方が効果が高いという話、よくそんな実験を思いつきますなーと感心しきり。ある情報が人をコントロールする力というのはけっこう抗えないものだ。読み進むにつれて普段考えている効率の良さが実はそんなに優れていないのではないか、そして自分だってプラシーボの薬に簡単に騙されるに違いないと思い至ります。すると、自分で考えるなんて非効率的で、誰かの教えに従った方が楽に正しく生きていけるのではないかとも思う。末尾にも

この本で紹介した研究からひとつ重要な教訓を引き出すとしたら、わたしたちはみんな、自分がなんの力で動かされているかほとんどわかっていないゲームの駒である、ということだろう。わたしたちはたいてい、自分が舵を握っていて、自分がくだす決断も自分が進む人生の進路も、最終的に自分でコントロールしていると考える。しかし、悲しいかな、こう感じるのは現実というより願望——自分をどんな人間だと思いたいか——によるところが大きい。

とある。わたしだったら仕事はそれなりにできて、余暇には海外文学を読んで苔を観察する多趣味な人、そういうように「自分が」思いたいだけであって、それは決して現実にうまくいっているわけではないのかもしれない(当人はなんとなくうまくいっているように思いたい)。
この悲しみは誰かの手の上で踊らされるのがいや、という支配からの離脱に起因しているようだ。だとしたら、なるべく商業的な情報がリーチするところに自分の身をおかず、テレビを見ないで厭世的な生き方を選ぶしかないのかも。しかし、インターネットで日常的に検索する今の世の中ではそんなことは無理で、意識のあるかなりの時間(もしかしたら寝ている時まで)を自分が踊らされないようにびくびくと生きていくしかないのだろうか。

作者の作った物語の中で翻弄されるといえば、ナボコフ『ディフェンス』。わたしが四打限りでは、彼の場合は最善手を打てるのが盤上だけで、人生については悪手が続いた。そういう生き方は果たして不合理と言える(本人が不合理とみなす)のだろうか?

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