フアン・カルロス・オネッティ『屍集めのフンタ』(現代企画室)

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屍集めのフンタ
屍集めのフンタ

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フアン・カルロス オネッティ
現代企画室
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現代企画室から刊行されている「セルバンテス賞コレクション」の5番目。オネッティと言えば集英社文庫からラテンアメリカ文学シリーズとして出ていた『はかない人生』が本当にはかない印象だったことくらいしか記憶にない。同じシリーズで出ていたガルシア=マルケス『族長の秋』、フェンテス『老いぼれグリンゴ』の力強さに比べて内向的な印象で、当時自分が勝手にラテンアメリカ文学に抱いていた力強い幻想性とは大分かけ離れていたように思う。

年に数冊ながらさすがに5年以上読んでくると、ラテンアメリカ文学は幻想性だけ、マジック・リアリズムだけが売りではないと分かってくる。そこで新たに見えてきたのが、日本文学よりもずっと切迫感のある政治的な距離感だ。ガルシア=マルケスやバルガス=リョサのような一部のメジャー作家を除いて、ラテンアメリカ文学者はかなりの確率で政治的ににらまれ、中にはこのオネッティのように投獄された者も少なくない。そうしたとき、幻想性が発揮されるよりも前に、政治的批判、特に独裁政権への批判が先に立ってくる。最近の邦訳だとキューバ絡みでバルガス=リョサ『チボの狂宴』、新潮クレストブックスから出ているジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』では否応なくドミニカのトルヒーリョ政権に巻き込まれる登場人物たちの悲喜劇が語られている。それらを読んでいるととにかく日本とは桁外れの政治的圧力が存在し、そのために命を落とす人々が数多くいた(ある場所では現在進行形であるかもしれない)ということがずっしりとのしかかってくる。わたしにとって、ラテンアメリカ文学は幻想性と政治性の狭間にあって、気軽に物語のおもしろさだけを見るものではないように思い始めている。

本書は政治性の重さが目立つ作品群とはちょっと異色で、『百年の孤独』や『緑の家』のように架空の街を舞台としている。このことだけで作者は特定の国の政治を語るリスクから離脱しているように思われた。帯には「架空の小都市サンタ・マリア。そこに売春宿を持ち込もうと蠢く人物群、市議会が許可した売春宿設置が気に入らぬ「紳士同盟」などの動き。特異な幻想空間のなかで繰り広げられる、壮大な人間悲喜劇」とある。ある街に売春宿を導入して混乱を招くといえば、バルガス=リョサ『緑の家』。本作と『緑の家』は同じラテンアメリカ文学の賞レースを争ったという。その際にはバルガス=リョサが勝ったわけだが、オネッティ敗れて曰く「どちらも売春宿を舞台にした物語ですが、バルガス=リョサの話にはオーケストラが付いているのですから」と。『緑の家』は時間のシャッフル、登場人物の多彩さと旧来の文学にはない要素が込められていたわけで、現時点で争ってもおそらく勝負の結果は同じだろう。

それでも本作には『緑の家』にはない、登場人物の青春を掘り下げるという文学につきもののテーマが息づいている。裕福な家に生まれた青年が死んだ兄の妻と罪悪感を抱きながら通じる物語は決して斬新とは言えないが、彼の抱く傲慢さや屈折が繊細に描かれる。一方で屍集めのフンタを筆頭とする売春宿推進派と司祭(奇しくも『緑の家』のガルシーア神父に近い厳格でクレイジーなキャラクターだ)を中心とした反対派による町を挙げての陰湿な抗争は、青年ホルヘと気の狂った兄嫁フリータの背景でしかない。たいていラテンアメリカで政治が描かれる時、個人の物語を犠牲にして権力の絶対的な強さに終始することが多いが、欧米由来の古典的な悲劇に落とし込んであるところが本書のおもしろさであり、弱さでもある。おそらくは兄の妻として貞節を誓うはずのフリータが、弟と結ばれることにささやかな批判を込めて売春宿設置につなげているようだ。彼らの恋の行方は如何に。

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