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日本文化 アーカイブ

2006年04月29日

杉浦日向子『百日紅(下)』(ちくま文庫)

百日紅 (下)
百日紅 (下)
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杉浦 日向子
筑摩書房
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昼からの春雨で部屋が寒くなってきて、昼寝している猫の横にごろりと肘をつき、ビール片手に読了。今更だがこれはすごい。手に取るのも厭になるくらい。

国文出のくせに江戸というと『雨月物語』くらいしか思い浮かばない脳には、作者にはあまり興味がなかった。しかし短編の妙、絵の艶っぽさ、あらゆるところに顔を出す人の業がまざまざと描かれていて、いざ読んでみるとどれが良かったなんて比べられない質。「女罰」の脱いだ尼さんの流し目を見たらぶるっとくるし、火事を見るために走る女の上気した顔といったら。

これまでは物語に日本の匂いが強く出ていると拒絶反応があって、身近すぎて萎えてしまっていた。幻想的なものは自分の手が、想像力が届かないくらい遠くにあってほしい。そのくらい遠くて初めて浸ることができると信じてきた。だがこれは力がちがう。きちんとした研究の裏付けがあってこんな物語が生み出せる作者には嫉妬なんてちっぽけな感情ではとうてい追いつけない。作者のあまりにも早い死は神や仏が作品を読みたがったせいにちがいない。

なぜか江戸の漫画のBGMにはキューバ音楽が合う。にぎやかなようでちょっとさみしいところが混じってるところが似てる。逆にいっしょに買ったEnredo(エンヘード)という、つまりはブラジルのサンバは全然だめだ。祭り脳になってしまうので、掃除のときにかけると血が高揚して仕事が早く進みそう。

2006年08月13日

新藤兼人『老人読書日記』(岩波新書)

老人読書日記
老人読書日記
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新藤 兼人
岩波書店
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冒頭から老人の孤独をろうろうと語り始めたので、どれほど痛ましい内容なのかびくびくしながら読み進めましたが、さすがに脚本家、映画監督だけあって、本の内容を的確につかまえて、印象に残る場面をつらつらと引用してきます。本を読むというよりも、本に正体するような、本の神髄をとって食うくらいの勢いが垣間見えるほどです。

取り上げられている本は、ドストエフスキー、漱石、チェーホフ、西田幾多郎などのいわゆる古典ですが、読んでいく著者の視線は若々しい。

わたしが八十を越え、半ばを過ぎてみると、老人というものはそんなおだやかなものではない、妄執、欲望、恐怖、で苛立つばかりだ。 過去に裏切られた数々の無念、また裏切ったことへの痛恨、確実に死に向かって一歩一歩近づいている恐怖、そして家族に疎んじられている口惜しさ。平和を愛するどころか、修羅の巷といっていい。

と、達観からはほど遠い感情が沸き立っているのです。若い頃に抱えていた漠然とした不安をくぐりぬけて数々の名作(わたしは見てませんすいません)を撮ってきた著者ですら、孤独と不安に立ち向かっている。ネガティブな感情を克服するというと見映えはいいですが、実は創作の根っこを断ち切ることであり、むしろたくさんの感情を抱えたままで走りきる力を付けることが大切なのかもしれません。そのような感情を抱えた著者は、それゆえに傑作をものにすることができたのだと思います。

30を過ぎてのんびりすることばかり成長させてきた自分にとって、この本は感情の枯渇は一つの死であり、むしろ晩年を迎えてなお若かりし頃の感情を原動力としている著者に敬意を感じるのでありました。

また、書評の書き方という点からも勉強になります。「テネシー・ウィリアムズの「私」」という章では、きちんと字数を数えていませんが、おそらくは著者の言葉よりも作品からの引用の方が多そうに見えます。

ウィリアムズに「あなたは何ものですか」と問えば「さあ、ぼくは何ものでしょう」と答えるだろう。その「何もの」かをわたしたちは知りたい。

自らの言葉よりも作品の言葉を新たに書き写すことで、著者は対象に少しでも近づきたかったのかもしれない。書かれている言葉をまっすぐに受け取り、自分に照らし合わせて、さらに新しく生まれる言葉を記すこと。ほっとくと腐ってしまう脳みそを、ぬか漬けを混ぜるように、本を使って丁寧にかき混ぜるような著者の優しい手が見えるようです。

著者は映画監督でありながら、溝口肇の脚本を長く手がけていたという。その時に培われた構成力は、数々の本を読んで身につけたものだというが、特に仕事がないときにこたつにくるまって妻とともに本を読んで過ごしていたというエピソードは、漫然と読み散らかしているわたしの胸にささった。妻とともに金がないながらも本を読み続け、やがて戦争に駆り出される、その間の書評とは関係のない体験には愛があり、孤独がある。とりあえずは読む本に不自由せず、食べるものに不自由しない自分をもっともっと奮い立たせて、老人になってもこの1/10くらいでも感動できるような読書を続けたいと思いました。暑くてだるくてなんとなく本を読む気にならないときにおすすめ。

2006年09月18日

白洲正子『器つれづれ』(世界文化社)

器つれづれ
器つれづれ
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白洲 正子 藤森 武
世界文化社
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著者が雑誌などに書いた器に関する記事をまとめ、カラー写真でお気に入りの器や道具を掲載した一冊。著者はこの本を編纂している間に亡くなられたそうです。

本書は日本の伝統文化に造詣の深い著者が、青山二郎などの陶芸の師匠たちから学び、生活に取り入れていった器の数々をきれいな写真で紹介しています。わたしには、そのへんの古道具屋でほこりをかぶっていそうな汚れてふちの欠けた器に思えるのですが、それでも著者のしなやかで自分の誇りを芯にした文章を読み、写真をじっくり見ていると、自分の器を見る目が変わってきます。きれい、整っているだけが美ではない。素直さ、素朴さ、生活の一部となれる馴染みが感じ取れるような気がしてくるのです。

著者は器は趣味の問題だから必ずしも正解はないとしながら、

好き嫌いというものは、あくまでも趣味の問題だから、当然、一人ひとり「好み」が違っていいし、私ごときが口をさしはさむことでもない。しかし、悪趣味は、どう見ても悪趣味としか思えない。

と言い切ります。断言するには背景となる知識と体験が必要で、身に付いた自信がなければどうしても腰がすわった言葉になりません。これはわたし自身も常々痛感していること。著者は青山二郎や魯山人から知識を受け継ぎ、自ら器を見、買い、使うことで他人は他人、だけど自分が美しいと思う物の指針を明確にしています。

ただ、明確にしているといっても、それを言葉で言い表すことは難しいし、すべてが伝わるとも思えません。その点、本書は著者が使って気に入っている器や道具を多数掲載しています。その写真は一枚としてスタジオで撮影したようなすべらかなものはありません。おそらくは著者自身の家や時には外に並べられ、器に合う布を敷かれ、季節の花を生けられて撮られています。薪の上に置かれた灰釉徳利だけでも、静かで凛とした、それでいて開放的な空気が漂っています。

この空気を少しでも我が家に持ち込むためにも、本にしおりを挟んで古道具屋に行ってきます。古本やめても骨董に呼ばれていては、ますます財政が苦しくなってしまいそうですが、これも理想の自分に近づくため。学ぶことは自分を好きになり、毎日を暮らすための重要な糧であるとしみじみ感じました。酔っぱらいながら眺めるのが最高です。

2006年09月27日

『くらしのやきもの事典 昭和の名品と全国の窯場』(MCプレス)

まさにわたしのようなやきもの素人のための一冊。磁器と陶器のちがいという当然のところから、やきもので使われる専門用語、地方のやきものの特徴がオールカラーで説明されており、大変便利。副題に「昭和」とありますが、古伊万里などの写真もあります。ただ、B6サイズで160ページと情報の濃度を求めるにはちと薄い。あくまで初めの一歩として入門編という位置づけで作られた本でしょう。

実家の笠間焼も出ています。淡白な感じ。数葉の写真だけで判断すると、備前焼や萩焼の力強さにひかれ、常滑の酒器などもシンプルだけど普段の生活にきりっとした筋が入りそうな切れがありそうです。

巻末には昭和に活躍した偉大な陶芸家を紹介している。わたしはいわゆる骨董の趣味はまだないけれど、萩焼の三輪休和の雪をかぶったような茶碗には魅力を感じますね。確かその筋にあたる人が今年の夏に東京で個展を開いていたはずなのですが結局行けずじまい。旅をしてでも見に行きたいですが、それにはまず貯金をしなければ……。

1点残念だったのは、写真によって妙に赤っぽく写ってしまっているのです。きれいな紙を使ってオールカラーなのにもったいないことです。器がややぼんやり見えてしまって、残念。

2006年12月17日

杉浦日向子『江戸へようこそ』(ちくま文庫)

江戸へようこそ
江戸へようこそ
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杉浦 日向子
筑摩書房
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歴史の勉強だけでは味わえない江戸への興味をかきたてる一冊。歴史で習った江戸は町人文化が花開き、平安時代以降できわめて珍しく平和が長続きした時代でもあります。そこで生まれた文化は浮世絵や劇などが有名だが、それらの中心になったのが粋という発想。冒頭で著者のこころがまえが「歴史好き」と「時代劇好き」でもないことが説明されている。「歴史好き」はまじめに過去の表層的な出来事を知ることに興味を持っている層、「時代劇好き」は文字通りチャンバラ活劇に興奮する層。そのどちらでもないことについて、

これらの閉じられた「世界」の中の、完成された「様式」についての興味は、私にはありません。そういった意味で私は「時代もの好き」とは言えません。「時代もの」に陶酔できない私が江戸のことを語るのですから、「時代もの」としては変な本になりそうです。

と、これまでに作られた固定的なイメージにはない江戸を模索します。浅草や上野の情緒だけが江戸ではない、懐古趣味でもない、わたしたちと同じように生きている人が知恵と生命力をふりしぼって江戸のあちこちに生きていた。「吉原」という言葉から簡単に売春宿がイメージされてしまう発想の貧困さを排除しようとしている。遊廓とは単に性行為を金で買う場所ではなく、男と女のかけひきを楽しむ場所として対話が前提となり細かいしきたりがたくさんあった。基本的な遊廓の遊び方から、遊女の格、手練手管の数々で遊女が客の男を叱りつけたりするような場所だという。今の世ならSMクラブのようにすぐ身体的な方向に行くところを、言葉で遊ぶことによりイメージをふくらませて客を飽きさせないようにしていたのですな。

ほかにも浮世絵を江戸のテレビと見立てたり、戯作という風刺文学の基本にしてその随を味わったりできて、学校の教科書にはないライブ感とイメージを転がす楽しさがあります。それは江戸を味わうことがイメージをふくらませることにかかっており、半端な興味(それこそ「歴史好き」「時代劇好き」のような固定観念に寄りかかった興味のありよう)では楽しみきれない奥深さがあるようです。SFなら数学の知識なしにイーガンを読んでもおもしろいけれども、その歴史があればもっと世界を手にしたような喜びがあるような感じでしょうか。国文学なんて全然興味のなかった学生時代のわたしに手渡したい一冊でした。

2007年01月07日

新藤兼人『弔辞』(岩波新書)

弔辞
弔辞
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新藤 兼人
岩波書店
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『老人読書日記』を読んでから新藤兼人の文章が気になっている。文字を読んでいても常に映像が浮かんできて、単に分かりやすいだけではない、映像の力づくを感じさせる文章なのです。この本は各界の著名人にあてた追悼のエッセイで、中には実際に著者自身が弔辞を書いたものもありますが、回想であり人物を亡くした悲しみの文章で構成されています。

とりあげられた人は次の通り。
・自分で選んで歩き出した道ですもの:杉村春子
・勝新ひとり旅:勝新太郎
・あるシナリオライターの生涯:田村孟
・松本清張は何を書いたか:松本清張
・太陽に向かって昇った:岡本太郎
・汚い絵:甲斐庄楠音
・マルクスボーイ歴史家の生と死:絲屋寿雄
・恥ずかしながら生きながらえて:横井庄一

日本文化に疎いわたしはどの方の生涯を読んでも初めて知ることばかり。単に事典のような外側から見たイメージだけで語られないことが何よりもすばらしい。宴会で酔っぱらって絡んだ田村孟や勝新太郎の名監督ぶりなどは新聞や雑誌から作られただけのイメージにはない。才能や努力がきちんとあることを認めさせる文章なのです。取り上げられた人たちの隣にいながら、その人たちを俯瞰する視点も持ち合わせており、何よりも人への尊敬が前提にあります。

この本の最大のみどころは、最後の横井庄一さんの半生を著者がシナリオ化し、それが全編掲載されているところ。バラエティ番組などでおもしろおかしく取り上げられたりしたけれども、横井さんが28年もの間ジャングルで孤独と恐怖に打ち克って生き延びた精神力、ゲテモノを食べて生き延びる生命力、満月で時間を正確に量り食べてはいけないものを見分ける知識に感嘆するしかありません。一方で、捕縛されてアメリカ軍に連行されて日本に帰るまではリアル浦島太郎の弱さをさらけだし翻弄され続けます。そんな中、病室のかたわらで熱狂し続ける人々を冷静に見据えながら、横井さんを優しく見守るグアム観光局次長の妻ヒサエの献身ぶりに泣きます。

   老兵は、ベッドにぐったりとなっている。
   ヒサエは、その傍らに立って、しずかに老兵をみる。
   老兵は、不安な眼でみる。
   ヒサエは、黙ってみている。
   老兵の眼から、不思議なことにしだいにゆっくりと、警戒の色が消える。
ヒサエ「ヨコイさん、ながい間、たいへんでしたね」
   老兵は、眼をしばたいたようである。
ヒサエ「あなたに、食べていただこうと思って、日本のお雑煮をつくってきたんですよ」
   ヒサエは、魔法瓶から、お椀に雑煮をつぐ。
   老兵は、ベッドに起きて、ヒサエの手許をみている。

みながみな、横井さんを見たとたんに大声をかける中、静かな病室の空間で向き合う二人のファースト・コンタクトに泣いた。距離感の中にあふれる優しさ、横井さんを「老兵」と指す誇り、警戒を解いた老兵は顔ではなく手許を見る。顔を見て相手の考えを推し量る必要がないと判断し、ただ日本の雑煮を待ちわびる懐かしさだけがある。久しぶりにシナリオを読んだけれども、無駄なことは書かず、ただ映像を作るための指示がこれほどに文章として洗練されたものとはじめて気づきました。大推薦の一冊。

★★★★★

2008年06月07日

榊原悟『江戸絵画万華鏡 戯画の系譜』(青幻舎)

今ではすっかり漫画が隆盛していますが、実は平安の昔から「をこ絵」という戯画があって、江戸の町人文化で華開いたということがよく分かり、それよりも何よりも江戸の発想力は本当に奇想天外と言うしかない、優れた遊び心満載で楽しくなるムック。図書館で借りましたが、これは手元に置いておきたい。

江戸の文化はさっぱり知らないのですが、江戸のおもしろさは文学でも絵画でも21世紀の今にも充分通用するものばかり。昨年は伊藤若冲が江戸にこれほど細密な描写が、と注目を浴びましたが、他にも本書に掲載されている河鍋暁斎、長沢芦雪のおもしろさは見逃せません。河鍋暁斎の「怪猫図」は恐ろしくも愛らしく、”描き表装”という技法を使った「幽霊図」を初めて見た人は3Dの赤青メガネをかけて「キャプテンEO」を見たときのような衝撃を受けたのではないでしょうか。幽霊が描かれるべき場所を超えて掛け軸の棒に近いところまではみ出しているのだから。

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長沢芦雪のヘタウマだけど迫力だけは何ものにも負けない「虎図襖」もすばらしい。こうして見ると江戸で題材になるのは昆虫や魚のリアルな描写(この辺は後に海を渡ってジャポニズムになったのだろう)というそれまでにはない身近なものの他に、犬よりも猫の方が圧倒的に多いことに気づく。「お犬さま」があったくらいだから、江戸の人は犬にはあまり良い印象が無かったのだろうか。にゃんこ最高だから素直にうれしい。

ともあれ、本書で取り上げられている絵画の目の付け所はおもしろい。志ん生が「骨がなかったらいっしょになりたいよぉ」「俺ぁ骨があっていけねえな。あぁ、なまこがうらやましい」なんて言うのと同じで、発想の飛躍が尋常でない。飛行機がない時代に、海側の上空から厳島神社の全景を描く(長沢芦雪)視点の新しさがあるかと思えば、かの色男在原業平の死を釈迦の涅槃に見立てた「見立業平涅槃図」(英一蝶)や七福神の混浴図(河鍋暁斎)なんてエロいものもある。この発想の自由さは一見自由にあふれた現代でも見逃しがちな、脳みその中の自由をふんだんに使った成果。笑えるだけでなく、この自由さを常に見習いたい。脳みそをリフレッシュするに最高の一冊です。

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