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ラテンアメリカ アーカイブ

2006年01月10日

読書部第11回 ガルシア=マルケス『百年の孤独』

百年の孤独
百年の孤独
posted with amazlet on 06.10.26
G. ガルシア=マルケス Gabriel Garc´ia M´arques 鼓 直
新潮社
売り上げランキング: 1,603

何度かの延期を経て、2006年最初の読書会としてふさわしい大著の読書会となりました。わたしは今回で読むのは2度目ですが、どちらも旧版(新版では改訳され、ブエンディーア家の家系図がついています)で読んだので、結局明確に家系図を把握しないままに臨むこととなりました。

いつものように自己紹介と感想・印象を順番に言ってもらうところでは、
・『百年の孤独』は難しいイメージがあったが、読んでみたらおもしろかったし読みやすい
・どこが「孤独」なのか分からなかった
・前に読んだときは、筒井康隆の影響
・『火星夜想曲』ぽいが、実は『火星夜想曲』が『百年の孤独』ぽいのだ
・アイデアをモザイクのように重ねただけの小説が多い中、それぞれのエピソードが有機的につながっているように感じた
・文章に濃淡があり、描写が凝縮されている
などの意見がありました。

「どこが孤独なのか」については、ウルスラとブエンディーアから始まったマコンドが、最後に豚のしっぽが生えた子供が生まれるまで、外部と接触はするものの、マコンドが受け入れることはなく、最後まで近親相姦的な愛が支配していた、という感じに収束しました。

あとはマジック・リアリズム近辺の話ですが、どうもわたしの勉強不足のせいで今ひとつうまく説明できませんでした。とても割り切ってしまうと、文学とファンタジーの融合で、そこに地域性や未知の文化がテイストとして加わっている印象です。で、サルマン・ラシュディやミラン・クンデラなどに代表される現代の有名な作家もマジック・リアリズムの手法を取り入れており、今一番熱いのはマジック・リアリズム! ということをかっこよく言おうと思ったんですが。

今までの読書会で遭遇したことのないアクシデントとして、旧版と新版ではページ数がちがうため、それを調べるだけで時間がかかってしまうという問題がありました。これは事前に全く予想していなかったので、次回以降はなるべく新版を使うようにしたいものです(そんな本はあまりないと思いますが)。

それとやはり事前に司会進行を他の参加者(特にぶちょう)に相談しておくべき、と思いました。わたしだけかもしれませんが、好きな本を取り上げる人が司会になると、どうしても客観性を保つことが難しく、自分の思い入れだけになってしまう可能性があると思うのです。そのため、ある程度「こういうことを話したい」という簡単なレジュメを参加者の誰かに見てもらうということを検討したいです。

今回の課題図書はとてつもないパワーがあって、読んでいる最中に圧倒されまくりだったわたしが司会をやるのが無理だったのかも、とやや反省中です。それでもこれも経験のひとつとして、次回以降に生かしていきたいと思いますので、これからもよろしくお願いいたしまする。

2006年04月11日

G.ガルシア=マルケス『物語の作り方 ガルシア=マルケスのシナリオ教室』(岩波書店)

物語の作り方―ガルシア=マルケスのシナリオ教室
G.ガルシア=マルケス 木村 栄一
岩波書店
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南米マジック・リアリズムの雄にして、小説にとどまらずテレビドラマや映画の脚本を何本も作ってきたガルシア=マルケスが、若手の脚本家に30分間のテレビドラマの脚本を作るためにあれこれ話し合った記録集。「ガルシア=マルケスのシナリオ教室」という副題がついているけれども、ここでのガルシア=マルケスは日本の先生のように前に立って指導するわけではなく、シナリオを作るメンバーの一人として発言している。もちろん仕切るところは仕切るし、ひどくて笑えるユーモア(「小説のことは私に任せておいて、君たちは脚本を書いてくれよ」)なんかもあるけれど、決して自分の意見で場を閉じこめるわけではないところがポイント。これはできそうでなかなかできないことだし、それが単にノーベル文学賞作家という権威によって行われているわけでもない。素晴らしい脚本を作り上げたいという一心から、メンバーの全員がバザール方式によって一つの物語を作り上げる課程を地道に追ったもので、そこに関係の上下はあまりない。

この練り上げ方は脚本だけでなく、小説でもそうだろうし、もしくは普通の会社でも応用できる技術のはずだ。全体の方向性を決定する人は必要だが、意見を出す権利は全員にある。誰かの思い通りにするのではなく、全員が納得できる作品のためにアイデアを出し惜しみしない。わたしは演劇部の時に演出の方向性としてこういう経験をしているけど、同時にこの作り方は誰かがエゴを出したときに諫められる人間がいないと成り立たないことも分かっているので、こういう空間が自然にできているのがおもしろい。それは一応のトップに立つ人間の手綱の閉め方によるところも大きいが、メンバーの質によっても左右されるにちがいない。

ガルシア=マルケスの小説は複雑な時間の流れや多くの人物が行き交うために長文でこみいっているが、ここではあくまでテレビドラマの脚本を作ることが目的だから、30分の映像で語ることができる比較的シンプルな物語だけが俎上にあげられる。映像から読みとれない象徴性は不要だし、わかりやすさと驚きを与えるためのドラマを作ることだけが目的だから、ラテンアメリカを舞台とした物語の背景もつかみやすい。

ガルシア=マルケスの作品として見たときには、彼の作風よりも、タイトル通りに物語の作り方に力点が置かれているので、物語を紡ぐことにあまり興味のないわたしは途中で本を閉じた。決してつまらないわけじゃなく、今は単に本の処分中と言うことで、それほど集中して読めないというのが理由。おもしろいのは間違いないが、そういう縁もあるということで。

2006年05月14日

レイナルド・アレナス『夜になるまえに』(国書刊行会)

夜になるまえに
夜になるまえに
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レイナルド アレナス Reinaldo Arenas 安藤 哲行
国書刊行会
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キューバというと近年のブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブの影響で、貧しいけれども音楽があってそれに合わせて踊り、きれいな海で人々が楽しむというイメージを持っていた。NHKの深夜に放送している世界の風景に合わせて民族音楽が流れる番組でも、楽しげなイメージしかありませんでした。

しかし、この本を読んだ後ではその裏でいかに人間不信に陥る社会が繰り広げられていることか。

レイナルド・アレナスは1943年、キューバの貧しい村に生まれ、小説家でホモでキューバ政府に投獄され、機を見てマイアミからNYに亡命するも、1990年にエイズを苦にして自殺する。この本は彼の自伝で、60〜80年代のキューバにゲイとして生きることの苦痛が赤裸々につづられる。

とにかく序盤のゲイ活動の積極性には頭を垂れるしかない。21世紀のわたしから見ればこれでエイズなり性病に感染しない方が奇跡的なペースで「やらないか」を繰り替えす。基本的には「道下正樹」側。「エロティシズム」という章では、引用するのも面倒なくらいにどこそこでどういう男を見つけた、話をしなくてもそれとなく分かった、水中でもやるなどという描写が続き、同性愛は体制への反抗心があったのだと結論づけられる。アレナスの描写するキューバには女性がほとんどいなくて、キューバには女性はいないとすら思えてしまう。いくら同性にしか興味がないといっても、これほど広く同性愛が広まるのか疑問にも思う。結局当局がゲイを取り締まって同性愛傾向のある者は逮捕されかなりの重罪に処されるわけで、あながちアレナスの描写は嘘でもないようだ。女の子大好きなわたしには受け入れることはできても実感できない世界です。

本の後半ではそうして逮捕された牢獄の描写が続く。娑婆ではあれほど男を漁り続けたアレナスが、牢獄ではさらに罪を犯すことを恐れてほとんど男性と関係を持たずに過ごす。周囲ではそれなりに男同士の花が咲いていたにもかかわらず。そう見ていくと確かに社会主義体制の抑圧へ反抗するため、過度に同性愛に走るというアレナスの理屈は本人なりに正しかったのかもしれない。もちろん彼自身が実際に男性を好きだという性向があるのはまちがいないのだが。

アレナスの生涯を理解はできない。性的傾向や社会の治安などわたしの経験してきた生涯とはあまりにも隔たっていて、それは小説ではない現実だったというのが突きつけられる。また、本書のような体験をしている人が『めくるめく世界』のような小説を書くということをまだ関連づけられずにいます。自由を求めた遍歴として見れば、確かに近いかもしれませんが。

本はかなりヘヴィなゲイワールドが展開されているので、まずは映画から見ておくとショックは軽減されるかもしれません。

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2006年06月24日

G.ガルシア=マルケス『幸福な無名時代』(ちくま文庫)

幸福な無名時代
幸福な無名時代
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G. ガルシア=マルケス Gabriel Garc´ia M´arquez 旦 敬介
筑摩書房
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ガルシア=マルケスは1950年代のほとんどをジャーナリストとして過ごし、パリに特派員として渡った後、本国の新聞社が政府から圧力を受けたせいで出張費が止まり、そのために小説を書き始めたといわれている。これはまだジャーナリストとして、『百年の孤独』を執筆する前の作品、というかルポ集。

ルポ集といっても「見てきたかのように嘘を言い」と言い切ってしまえるほどに物語的な視点や会話文取り入れて、舞台となったベネズエラ(ガルシア=マルケスの生まれはコロンビアだが当時はベネズエラで新聞記者をしていた)をガルシア=マルケスのフィルタを通して読むことで、南米の熱くわくわくした感じや熱さとリズムが感じられます。

狂犬病や旱魃、そしてお得意の独裁者ものなど、それぞれはどれもそれなりに聞いたことがあり珍しい話題ではありません。しかし、ガルシア=マルケスのマクロとミクロを兼ね備えた視点から切り取られたカットが、真実を旨とするルポルタージュのおもしろダイジェスト版になっています。日本の新聞などでは許されないかもしれませんが、しかし、そこには政治的な歪みはない。著者の筆はあくまで現実のおもしろさを増幅する装置に徹しています。

マジック・リアリズムの代名詞としてのファンタジックな事象については、本作ではさほど強調されていません。むしろ物語り方のお手本、現実を虚構へすり替えるテクニック集として読むことをお勧めします。これは、別に文筆活動で生活する人でなくても、現実をちがったフィルターでとらえることにより見えてくるものがあるというサンプルとして、生活のアイデア集のように読むことができるのです。本書は廉価で入手しやすいし、『百年の孤独』のような異質な空間が舞台ではなく現実のベネズエラという土地を想像するためのスーパージャンプ台としておすすめです。中でも「戦う聖職者」「潜伏からの帰還」は楽しい。前者はRPGのクレリックを彷彿させて機転のおもしろさが光り、後者は伊坂幸太郎『陽気なギャングが世界をまわす』あたりが好きな人にも安心しておすすめできます。

2006年09月08日

ガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』(新潮文庫)

予告された殺人の記録
G. ガルシア=マルケス Gabriel Garc´ia M´arquez 野谷 文昭
新潮社
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再読(3回目)。

本作が傑作であるゆえんは、この短さにあるかもしれない。映画でも2時間を超えるとどんな名作でも「長すぎ」という不満が出てくるものだ。短いながらも他の代表作『百年の孤独』や『族長の秋』と同じレベルの密度を保っているところがすばらしい。

今回はルポ的小説としてカポーティ『冷血』との比較を意識して読んだ。訳者あとがきでは、やはり『冷血』ばりの調査を元に執筆されていることが示される。

『冷血』と大きく異なる点は、作者が作中に登場して聞き書きの形をとること。『冷血』では作者は姿を消し、事実のみを追いかけている一方で、スミスに託されたカポーティの願望がありありと伝わってくる。本作では作者が住人の一人として後追いで事件をおいかけながら、当時の状況をリアルタイムで描いている。陰惨な殺人事件が当事者の目から見て、またガルシア=マルケスのユーモアと時間感覚のずれによって、ただのルポルタージュにはない不思議な共感を呼び起こす。『冷血』はルポルタージュの性格が強いために嘘が混じっていると信頼できない気持ちが先に立ってしまうが、本作で嘘がまじっているのは書き手の効果として受け入れられる余地があるところがおもしろい。キャラクターのちがいと一言で片付けられない作者の個性の発露です。

2006年09月17日

ガルシア=マルケス『愛その他の悪霊について』(新潮社)

愛その他の悪霊について
G. ガルシア・マルケス Gabriel Garc´ia M´arquez 旦 敬介
新潮社
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1994年、ガルシア=マルケスが70歳を間近に迎えたときの作品で、『百年の孤独』や『族長の秋』から伝わってくる灼熱の大地や有無を言わせぬ迫力は衰えてきてますが、話は実におもしろい。 このタイトルは、海外の短編集でよく見る「●●とその他の短編」のパロディなのかしら?

侯爵婦人が奴隷と交わって生んだ娘が狂犬病の疑いをかけられ、修道院に入れられて幽閉されるが、そこに有望な神父見習い(36歳童貞)が現れる。聖と悪魔が禁断の恋に落ちるという案外古典的なあらすじです。

さてその中身はといえば、『キャリー』のようなB級ホラーぽさと、ラテンアメリカのじめっとした鬱屈加減が混じって、妙にキリスト教の敬虔さが強調されています。ちょっとカルペンティエール『バロック協奏曲』を彷彿させるのは、ラテンアメリカの貴族が中心になることで政情の不安や「所詮は移民」という引け目が出ているせいかも。歴史もの特有の距離感による軽さがあるので、『百年の孤独』よりは気軽に手に取れます。

まじめな坊主が年を取ってから色恋に落ちるとろくなことがない、というのは古今東西同じことのようで、ここでももうすぐ神父をつぐことになるデラウラが、美しいけれども狂犬病の疑いを受けてから人生が狂ってしまい修道院に入れられたシエルバ・マリアに惚れてしまい、幽閉された牢屋まで出向いて連れ出そうとします。しかし、シエルバ・マリアはそこまでの愛情はないために怯えてデラウラに立ち向かう印象的なシーン。

「ほっといて」と彼女は言った。「さわらないで」。 彼(デラウラ)は耳を貸さず、すると少女は嵐のように彼の顔に唾を吐きつけた。彼も後には引かず、反対の頬を差し出した。シエルバ・マリアはなおも唾を吐き続けた。彼は臓腑の奥からわきあがる禁じられたよろこびの息吹に陶酔して、ふたたび反対の頬を出した。目を閉じ、魂をこめて祈った。

変態や。この「禁じられたよろこび」に目覚めるシーンは、聖職者ならではの物悲しさと人としての歓び、人が覚悟することの潔さが、汚れたものにまみれることで美しく描かれています。ともするとSMシーンの一場面で終わりそうなものですが、ここまでのデラウラの生き方を読んでくるとこのシーンの輝きが天上の光を伴って映し出されます。

覚悟という意味ではシエルバ・マリアの母ベルナルダも、この物語で決定的な覚悟をします。それまでは侯爵の妻として好き放題に生き、何かといってはカカオの魅力に陶酔していましたが、やがて財産を持って侯爵の家を出ます。

彼女は奴隷の中から相手をグループで選んで、バナナ畑の畦道に一列に並ばせて相手にしたものだったが、そのうち蜂蜜酒とカカオ粒のせいで彼女の魅惑にもひびが入り、体はむくんで醜くなり、これだけの体が相手となると、どんなにやる気のある男でも気持ちの方が追いつかなくなった。最初は年下の男たちを、美貌と逸物次第で金ぴか物を餌にして釣り、最後にはとにかく黄金を積んで釣れるものなら何でも釣った。彼女の果てしなき欲望から逃れるために奴隷たちが集団でサン・バシリオ・デ・パレンケに逃亡していることに気づいたのはずっと後になってからだった。

豪傑ベルナルダ。醜く老いさらばえた彼女はさらに侯爵に告白します。

「その時になって、あたしには連中のこと、鉈でぶっ殺してやるぐらい平気でできたのにってわかった」と彼女は涙のしずくも見せずに言った。「奴隷だけじゃなくて、あなたやあの子、それに安物買いのうちの親父、あたしの人生にうんこをかけてきた奴らみんな、平気でぶっ殺せる自分がいた。でももう、その時には、人を殺してどうなる自分でもなくなっていた」

恐ろしい告白です。人を殺してどうとも思わない倫理観はもちろんですが、それを超えてしまった自分を冷静に見つめるまなざしは救いなどないし求めてもいない。おそらく人が死を意識したときなどに「どうなる自分でもない」ことに気づくのかもしれませんが、同じ発想でもそれが幸せなのか絶望なのか、二つの間にある果てしない隔たりがずしりとのしかかりました。

この秋に出るガルシア=マルケスの翻訳2冊のウォーミングアップとして、充実した読書ができる一冊でした。200ページ足らずなので、ガルシア=マルケス入門編としてもぜひ。

2006年10月07日

G・ガルシア=マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』(新潮社)

わが悲しき娼婦たちの思い出
ガブリエル・ガルシア=マルケス 木村 榮一
新潮社

断筆宣言をしたガルシア=マルケスの最後になる(はず)の小説です。川端康成『眠れる美女』に影響を受けたといわれ、N.Y.TimesではあのMichiko Kakutaniにけちょんけちょんにけなされた作品なので、期待と不安を抱えたままで読書開始です。

90歳の誕生日に新聞記者が大志を抱いた。「処女とやりたい」。それまで娼婦たちとは数多くの機会を持ち、

あなたは臆病で、外見もぱっとしないけど、その代わり悪魔が馬も顔負けするような一物をくれた(P.111)

と言われるほど、その道では有名人なのでした。しかしそれ以外ではまるでボルヘスのように自分の城に閉じこもって黙々と原稿書きに専念するライターだったのです。顔なじみのやり手婆が14歳の子を紹介してくれて、ほんとに家までやってきてしまいます。90歳から始まる純愛物語。高齢化社会に入り「世界で最も淡白」と蔑まれる日本人には必読です。

途中で娘っこのために自転車を買うシーンがあるのだけど、ここがすごくさわやかで、束の間の万能感がさあっと、厚い雲間から射し込むレンブラント光線のよう。天気はまったくちがうけど、「雨に唄えば」でSingin in the rainが流れるときの高揚感、期待感、そして死を間近に迎えているはずなのに年甲斐もなくはしゃぐ主人公にぐっときます。

途中お得意の時間を揺らすテクニックも使ったりして、中編、そして最後の小説と思うと本当よりもちみっと評価を上乗せしているかもしれませんが、充分おもしろいです。それほど長くないので、ちょっと読書欲が減退しているときのカンフル剤にもいいかもしれません。なんせ90歳であっちもこっちも現役ですから、負けていられませんとも!

2006年12月31日

ガルシア=マルケス『コレラ時代の愛』(新潮社)

コレラの時代の愛
コレラの時代の愛
posted with amazlet on 06.12.31
ガブリエル・ガルシア=マルケス 木村 榮一
新潮社
売り上げランキング: 4006

岩波書店から出ている『物語の作り方―ガルシア=マルケスのシナリオ教室』では、ガルシア=マルケスの発言にマジック・リアリズムという言葉はなかったように思う。マジック・リアリズムは元来ドイツの美術に対してつけられた総称を、アレッホ・カルペンティエールがラテンアメリカで生まれた現実と幻想の垣根を取り払ったようなラテンアメリカの小説につけたことが由来とされている。よって、ガルシア=マルケス自身からマジック・リアリズムという言葉が聞かれないのは決して不自然なことではないのだが、『シナリオ教室』ではテレビドラマのシナリオ教室ということで、いかに視聴者をひきつける脚本を書くか、ということにこだわり、小説的な仕掛けは不要と言い切っていたのが印象に残っている。ガルシア=マルケスが1960〜70年代に作り上げた小説の技巧をきれいにそぎ落として、一読して伝わる物語の重要性を解いており、その根源はルポルタージュらしい小説として社会的現象にまでなった『予告された殺人の記録』、そして髄まで恋愛小説でなりたっている本作を書いたところから導かれた言葉のような気がする。

本作『コレラ時代の愛』の構成はきわめてシンプル。美人で気の強い女性フェルミーナ・ダーサは、熱烈な手紙を出してきたが痩せて年寄りじみたフロレンティーノ・アリーサを選ばずに、性格外見社会的地位の3つを兼ね備えた医者フベナル・ウルビーノ博士を選んだ。しかし、ストーカー気質のあるフロレンティーノ・アリーサは帯にもあるように51年9ヵ月4日もの間待ち続けて再び告白する。

『百年の孤独』では登場する人物すべてに愚直なまでにスポットが当てられて生活感まるだしだったが、等しくスポットが当たったために一人一人の人生は駆け足で過ぎていった。逆に『族長の秋』では独裁者だけにスポットが当てられて他の人物は書き割りに過ぎなかったため、独裁者のやることなすこと(それがまたどれもひどい)を濃密に描き出した。本作ではスポットは上記3人のみに当てられ、結婚生活という集団生活と心の動きの両方ともにくっきり描かれて、それまでのガルシア=マルケスの小説よりバランスがとれていると言えそう。

従来とのちがいはマジック・リアリズム要素をすっぱり削ぎ落とされていることにも見える。最後に手品めいた大量のヒヨコが出てくるシーンがちらっとあるが、それくらい。しかし、語られる時間は恋に落ちた者の不安定さを象徴するかのように、過去に未来にスイングし続ける。それが安定するのは51年9ヵ月と4日たってからのこと。ここを時間の起点としているけれども、それぞれのエピソードがあたかも今起こっているように語られるために読者としては現実の時間がゆらいでいるように思われます。また、それぞれの時間を引き継ぐときのうまさは達人の技。なめらかな時間の流れこそが本作いちばんの見せ場と言えるでしょう。最後に出てくる船の旅のように、『コレラ時代の愛』という時間の波に揺れる船に乗り込み年末のひとときを過ごせたことは大変にしあわせでした。

★★★★☆

2007年09月09日

フリオ・コルタサル『海に投げこまれた瓶』(白水社)

海に投げこまれた瓶
海に投げこまれた瓶
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フリオ コルタサル 鼓 直 立花 英裕 フリオ・コルタサル
白水社 (1990/01)
売り上げランキング: 1075053

ラテンアメリカ文学にカテゴライズされながら、半生をパリで過ごしたフリオ・コルタサル。もっぱら作品の舞台は街や邸宅など自然から遠いところに置かれているため、ガルシア・マルケスの暑苦しさやカルペンティエールの鬱屈からは遠く、フランスの洗練とアルゼンチンの熱さを持ち合わせている作家。しかしなんといっても彼の特徴はシャイさにあります。

表題作は作家自身がロサンゼルスからロンドンにいる女性に向けて手紙を書いているが、伝達方法は瓶に手紙を詰めてロサンゼルス湾に流すという、80年代青春のようなもの。その方法がシャイ。手紙の内容はやや混乱していて、やがて手紙の相手が映画化する作品の女優とごっちゃになってしまう。ごっちゃになっていることを気づきながらも、書きやめることができず、捨てるに捨てられない手紙は瓶に入れて流されることになるのです。

万年二流だったボクサーが語り手から不思議な力を得て急に勝ち続ける「二度目の遠征」。わたしがコルタサルらしさを感じる明快な語り口でずるずると超自然的な世界観にひきずりこむやり方が出ていて、楽しく読める一編。ラストのセンチメンタルぶりもいかにもシャイ。他の作品も夢のような超自然な環境に、青春の甘酸っぱさを足して、コルタサルにしかできないやわらかだが不吉な光を感じられる作品ばかり。とはいえ、岩波文庫の『悪魔の涎・追い求める男』に比べるとやや切れ味が鈍く、特に最後に収められた日記はコルタサル自身に興味がないとどうでもいいことが多く、長い割には作品としてのおもしろさは薄いため、コルタサルのおもしろさに気づいた人向けの一冊といえましょう。

2007年09月22日

ルイス・セプルベダ『パタゴニア・エキスプレス』(国書刊行会)

パタゴニア・エキスプレス (文学の冒険シリーズ)
ルイス セプルベダ Luis Sepulveda 安藤 哲行
国書刊行会 (1997/12)
売り上げランキング: 263654

Moleskineを元に書かれた私小説ぽい冒険譚。

著者自身がほぼ語り手とみなしてよさそうな印象だが、社会主義にはまって投獄されていじめぬかれ、出獄してからはヨーロッパでライターになるため奔走するが、なぜかエクアドルで年増の家庭教師になったりアルゼンチンに出戻ったりと紆余曲折を経てスペインにたどり着くまでの物語。

Moleskineにとったメモを元に物語を紡ぎ出していくスタイルを、著者は同じ旅行仲間のブルース・チャトウィンに習ったという。そのへんの話は本家サイトにも書かれていますが、本書ではより詳細に物語られています。

ブルースがまさしくこの旅のためにプレゼントしてくれた方眼紙のノートにメモをとっている。それもただのノートではない。セリーヌやヘミングウエー(原文ママ)といった作家たちが大事にし、いまはもう文房具店にはない正真正銘モルスキンの逸品。使うまえにわたしみたいにするんだ、とブルースはそれとなく勧めた。まず、ページに番号をつける、次に表紙裏に最低二つの連絡先を記す、そして最後に、失くしたときのために、このノートを上記宛送ってくださった方にはお礼をしますと書く。それはあまりにもイギリス的だね、とぼくが言うと、ブルースは応えた。まさしくそうした類の予防策のおかげでイギリス人はイギリスが帝国であるという夢を持ちつづけている。

人間の記憶量に限界がない人もいようが(ちょうど次に読んでいる『ヘミングウェイごっこ』のイギリス人がそうだ)、わたしはからっきしだ。高校の英語の参考書でとても頭がよいがとんでもなく記憶力がわるい学者の話があったが、それを笑えないほどわたしの記憶のプールは浅い。だとしたら記憶については外部装置にある程度頼るしかないんじゃないか、と思ってこの夏からはかなり頻繁にメモをとるようにしています。Moleskineに。おかげで酔っぱらったときでもお酒の銘柄を覚えていられるようになったのでした。

さて、本書の売りはなんといってもメモをとられた現実(かもしれない)の挿話の小粋さ。パタゴニア嘘つき選手権では感動的な嘘がつかれ、クレイジーな飛行機乗りは小さな砂浜に不時着してすかさず飛び上がり、イルカと少年の悲しい物語に涙する。まとまった小説としてはやや構成が弱いが、著者が旅した南アメリカそのものがどさっとつきだされる。パタゴニアの乾いた大地でたっぷりの栄養をたくわえたMoleskineが食卓に出されるのだから、読者は塩も砂糖も醤油もつけず、とれたての『パタゴニア・エクスプレス』にただかぶりつけばよい。異色揃いの「文学の冒険」シリーズとしてはさらに一ひねりしてシンプルに戻った本書は、ふつうの文学好き(それこそヘミングウェイとか)にとってもおすすめの一冊。新潮あたりで文庫化すれば堅実に売れそうです。

2008年02月02日

マリオ・バルガス・リョサ『楽園への道』(河出書房新社)

楽園への道 (世界文学全集 1-2)
マリオ・バルガス=リョサ 田村さと子
河出書房新社 (2008/01/10)
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ラテンアメリカ文学の雄にして1990年にアルベルト・フジモリと大統領選を争ったことでも有名なペルーの文豪マリオ・バルガス・リョサの、2003年の新刊がとうとう出ました。リョサの代表作『緑の家』を読んでからというもの、どうも混沌として読みにくい小説を書く人、というイメージが固定していたのですが、2004年に翻訳された『フリアとシナリオライター』を読んでからその印象は一変しました。かちりと音がしそうなほどエピソード同士がきっちりと構築されており、何よりもストーリーテリングが爽快で子供の頃の読書のように我を忘れてのめりこめる。比較対象がややおかしいかもしれないが、ただでさえろくに出なかった授業をさぼりにさぼって『十二国記』を片っ端から読みまくったときのような、魂を小説にもっていかれる経験をしてしまいました。

『楽園への道』はタヒチに楽園を探しに行ったポール・ゴーギャンと、その祖母にして世界に楽園をもたらそうとしたフローラ・トリスタンの人生を物語る。フローラは破天荒な人生に加えて早くに亡くなったこともあり、孫の顔を見ないままだった。しかし、一世代挟んだ二人の人生がかくも異なり、すべての労働者の楽園を夢みたフローラと己の楽園のみを追いかけ続けたゴーギャンの対比がすごい。フローラの物語を読んでいる時は「労働者よ、覚醒せよ!」と共産主義的になってフローラと争っている無知蒙昧な愚民どものところに行って加勢したくなる。しかし次の章ではロリコン・アル中のダメ人間ゴーギャンがタヒチでのんべんだらりと暮らしている人生をうらやましく思っている始末。庭でにゃんことにわとりがニャゴコケニャゴコケいってるところで、ぐったり寝そべってアブサンのロックすするのは最高ですよねー。章が変わるごとに自分のスイッチが全体主義→個人主義→全体主義ところころ変わるので、読みやすさは抜群なのに変なところで疲れるのもおもしろい。

いっしょに暮らさなかったのに、祖母と孫の間にはとても似ているところもあって、それは自分の理想のためなら他人の犠牲を厭わないところ。フローラは自分の正しさを証明するために自分の書いた本だけを頼りにあちこちに出向いて他人を調伏しまくる。金持ちは「うるさいのがやってきた」と鼻であしらい、労働者は「なんだ女かよ」と蔑んだ目で見下す。それでも俯仰不屈の精神で自分の理想を説き続ける姿には涙を禁じ得ない。ゴーギャンの方は一時期証券マンで家庭を持つ理想のヤング・エグゼクティブ(はじめてタイプする言葉なので指がつった)を体現したにもかかわらず、一切合切放り投げて絵の道に進み、それからは誰がなんと言おうと絵ばっかり描いてあまつさえ楽園を追い求めてタヒチに行ったり、はた迷惑なおっさんである。

ラテンアメリカ文学のブームの時代によくあったのが一人称と二人称と三人称を書き分けることで読者の視点を変える効果。レイナルド・アレナス(アリステア・レナルズに似ているのでよく間違える)『めくるめく世界』では章ごとに人称を変えて小説と年代記が混ざったような書き方で人物とともにその場にいる臨場感と神の視点を同時に持てる効果がなされています。リョサも人称によって書き分ける効果には意識的で『緑の家』から取り組んでいたはず。本作ではその書き分けを文中に仕込んで読者に意識させないような工夫がしてあります。メインの文章を三人称にして伝記的なスタイルを作っておいて、ところどころに主人公の一人称の視点と自分への呼びかけを忍ばせています。あの言葉が出てくると主人公の内面にパンするかのように視点がしゅるりとミクロになっていく感じがすごくおもしろい。

できればフローラ・トリスタンもポール・ゴーギャンについても下調べせずに先入観なく読んでいただきたい一冊。「損をしない読書」という言葉はきらいなのですが、この本だけは確かに損をしない。ラテンアメリカ文学の最前線が読めた上に、史上初のフェミニストと世界最高の画家の伝記が読めてしまうのです。しかも文章はめっぽう読みやすく田村さと子氏の訳はまさしくこの本にぴったり。ラテンアメリカ文学を読んだことがない方は混沌としたガルシア=マルケスではなくバルガス・リョサを入口におすすめしているのですが、『フリアとシナリオライター』に続いてまたも入門にして最高の本が訳されたことが本当にうれしい。本棚に揃えて誇らしく思える一冊です。

2008年03月16日

N・ホーソーン/E・ベルティ『ウェイクフィールド/ウェイクフィールドの妻』(新潮社)

ウェイクフィールド / ウェイクフィールドの妻
N・ホーソーン 柴田 元幸 青木 健史
新潮社 (2004/10/28)
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換骨奪胎。「先人の詩や文章などの着想・形式などを借用し、新味を加えて独自の作品にすること(Yahoo!辞書より)」。

ナサニエル・ホーソーンという作者名を出さずとも、ウェイクフィールドという作品名を知らずとも、「ある日夫がでかけたまま戻らなくなった。夫人は哀しみをたたえたまま暮らすが、20年以上たったある日、出て行ったときと同じように夫が戻ってくる」という話はどこかで聞いたことがあるにちがいない。たぶんわたしは子供の頃、『ムー』のような雑誌でそういう記事を目にしていたはずだ。何よりも、本作でとったウェイクフィールドの無鉄砲さにあこがれる気持ちはどうしても否定できない。

たしかにこの上なく異例な出来事であり、他に類を見ず、おそらくは二度とくり返されぬであろうとはいえ、人間誰しも持つ同情心に訴えるところがあると筆者は信じるものである。

それまでの生活をすべて捨ててまったく違う自分になりたいという願望。それまでの生活が立派でパーソナリティが強ければ強いほど、それを放り投げたときの爽快感もまたひとしおだろう。

しかし『ウェイクフィールド』(この名前も「目覚める」「野原」という言葉が連なっており、なんとなく思わせぶりだ)のあらすじを読んでもあまり新鮮味を感じることはなかった。ジェイコブ「猿の手」のように不思議であり謎は解明されていないが、既存の知識として埃をかぶって貯えられてしまっており、それは本書に収録されている「ウェイクフィールド」を読んでもあまり印象は変わらない。

「ウェイクフィールドの妻」はそんな「ウェイクフィールド」を置き去りにされた妻の視点から描き出した意欲作。ある作品を別視点から他人が描くことは、世界観を壊してしまいそうで、読むわたしがこわい。しかし「ウェイクフィールド」には読者それぞれの世界観を許すだけの懐の深さがある。すでに「ウェイクフィールド」自体が伝聞で知ったという作りでノンフィクションではないというスタンスであり、想像をふくらませた物語をさらに想像で広げようとしたのが「ウェイクフィールドの妻」であります。

訳者あとがきで柴田元幸がたくさん書いているように、フェミニズム的視点をことさらに顕示するものではなく、かつウェイクフィールドが蒸発した謎を解こうとも試みない「ウェイクフィールドの妻」は元の世界観を生かしたうえに、繊細な手触りで偽未亡人の生活を追っていくもので、地味だがおもしろい。長年使った木のまな板を新調して厚さが変わったりすると違和感を感じるものですが、いつの間にかまた手と包丁に馴染んでいくものです。そんなふうに「ウェイクフィールドの妻」は徐々に「ウェイクフィールド」という作品に馴染んでいき、最後にはまるで別人が書いたとは思えないようにしっくり合わさります。この馴染み感こそがウェイクフィールドの妻エリザベスが得ていくものであり、一方勝手に失踪したウェイクフィールドが得られなかったものなのかもしれません。派手な事件はありませんが、名作の換骨奪胎に挑戦しそれを見事に達成しているエドゥアルド・ベルティ、アルゼンチンの作家ということを差し引いても、新潮クレストあたりを好きな読者には見逃せない一人ではないでしょうか。

2008年03月23日

イサベル・アジェンデ『精霊たちの家』(国書刊行会)

精霊たちの家
精霊たちの家
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イサベル アジェンデ Isabel Allende 木村 栄一
国書刊行会 (1994/05)
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ラテンアメリカ文学のブームはコロンビアのガルシア=マルケスで頂点に達しますが、それ以外にもメキシコのフェンテス、パス、アルゼンチンのボルヘス、コルタサル、プイグ、ペルーのリョサなどが一斉に華開いた時期です。おおよそ1910〜30年代に生まれた人が多い。それに影響を受けた第一世代が1942年生まれのイサベル・アジェンデに当たるでしょう。ペルー生まれチリ育ち。本作は彼女の第一長編にして各国でベストセラーとなり映画化もされた傑作。

という前書きはともかく、とにかく読み手を飽きさせないという点では評判通り。エステーバン・トゥルエバという精力的な事業家(のちに政治家)の一生を借りて、恋人、妻、娘、孫娘たちの女系について描かれた波乱に満ちた物語。最近のアジェンデは子供向けの冒険小説やハーレクイン系にも進出しているようですが、それを予感させる人間関係の甘さと苦さ、それに作者が育ったチリで否応なく直面せねばならなかった政治についても作中に反映されています。

トゥルエバが物語の枠を作ってはいますが、中心になるのは女たち。中でもミズ・マジックリアリズムの「透視者クラーラ」は美人な上に超能力者。自分の座っている椅子を手も使わずに持ち上げて家の中をすいすい移動したり、蓋を閉めたままのグランドピアノでショパンを弾いたりします。何不自由なく育った少女期からそういう力を持っていましたが、大人になり苦労を重ねてからも力は衰えず、編み物しながらすいすい動いている様は「あ、このうちのお母さんはこういう人なんだ」と納得してしまいそうな自然さで描かれていて受け入れやすい。イギリスの小説だと家に霊能力者が出入りしはじめると、インチキ霊媒師にぼったくられてお家没落となる前触れだったりしますが、本書では霊媒師たちも近所のおばちゃんみたいに普通に出入りしているのがおもしろい。ちょっとしたユートピアのようです。

しかし、世間はユートピアをそのままにしたりはせず、家にもやがて没落する時がやってきます。時を同じくしてラテンアメリカでは独裁者たちが力をふるい、街には戒厳令が敷かれ、不当に逮捕される人々が出てくる。ほんのちょっと反政府的な行いをしたり、目立つ人間が容赦なくしょっぴかれていく。このシーンには本当に怒りを感じ、歯止めがきかない政治権力の恐ろしさを痛感しました。今も地球上では勝手に人の土地に乗り込んでいって爆撃したり、自分の国でもない土地を勝手に収奪して無辜の民を殺している国家が存在します。本書はラテンアメリカという遠い国の話ではなく、ファンタジー(マジック・リアリズム)としてのおもしろさを持ちつつ、国家が持つ愚かしさについては21世紀に入っても何も変わっていないという現実に気づくためにも有効な一冊です。

2008年04月20日

アドルフォ・ビオイ=カサーレス『モレルの発明』(水声社)

モレルの発明 (叢書 アンデスの風)
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カサーレスは10代でボルヘスに認められて、決して大きくはないアルゼンチン文壇で大きな影響力を与えるようになる人物。しかし、二人の合作『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件』はわたしがミステリに興味がないせいもあるが、人物設定に魅力がない上にひねりにひねりすぎて失敗したような印象しか残っていません。それでカサーレスにはしばらく興味をなくしていたのですが、確か2年くらい前におもしろいと評判を聞いた本書を手に取り、興奮で本を置くこともできずに一気読みしたはずなのに、今年の春にあらすじを聞かれてさっぱり覚えていないという恥辱を味わい、今回改めて再読した次第。負け惜しみではなく、本は再読することに意義があると思いますが、不幸にして読書速度が遅いわたしには再読できる本は限られている。しかし、本書についてはまちがいなく再読が必要であり、読めば読むほどにモレル(実は某SFに関係した名前らしいのですが、わたしはそっちを読んでいない)の発明がいかなるものであり、手記形式で書かれる本文の裏に隠された物語内の事実が明かされていくのです。

主人公はとある罪を逃れるために島に流れ着いた。無人島のはずのその島では、潮が満ちるとどこからともなく人々が現れて島でのバケーションを楽しむ。観察者となった主人公はその中の一人、フォスティーヌに懸想するが、どれだけ彼女にアプローチしてもなぜか反応がないのだった。

本書はおそらくまず最初にラテンアメリカ文学としてくくられると思うが、その前にSF以外の何ものでもなく、SFファンは必読。それもジーン・ウルフのSFマガジン収録作「アメリカの七夜」を気にいるような人はこれを見逃す手はない。そのほかにも信頼できない語り手の裏を読み解くのが好きな人にはおすすめできます。あとがきでも触れられている話ですが、冒頭の一文から既に謎をはらんでいる。

今日、この島に信じられぬことが起きたのである。早くも夏になっていた。

そもそも突如として夏になるのも不思議なのだが、この事件のすぐ後で「昨夜は、このひとけのない島で眠った百度目の夜だった」という書き記している時間の関係性が分からない。ちょっとタネを明かすと潮の満ち引きを原因としてこの島に不思議なことが起こるのだが、百度目の夜までに潮の満ち引きは幾度となくあったはずなのに、なぜそこまで主人公はこの現象を体験していない(少なくとも文章上では)のかは読み終えた今でも謎。そして夏になった島で主人公は不思議な人々に出会い、まるでドラえもんの石ころぼうしを被っているかのように、他の人々には反応されずに彼らの間をとまどいつつ観察し続ける。やがて不思議な現状の原因を突き止めてからは新たな野望に乗り出す。それはロマンチックでありながら、空虚で少し滑稽でもある。それでも孤独よりも幻想の中で生きることを選んだ彼のことは忘れられない。いや、この前まで忘れていたんですが。

そうそう、あとがきでアラン・ロブ=グリエが本作に影響されて『去年マリエンバートで』を書いたというのを知り、意図的に手を出さないようにしていたフランスものにも興味が出てきてしまって困る。

2008年07月06日

「現代文芸論研究室主催 世界の文学とラテンアメリカ」その1

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 東大で行われた「現代文芸論研究室主催 世界の文学とラテンアメリカ」と題された講演会に行ってきました。面子がすごい。アメリカ文学からは柴田元幸氏、ロシア文学からは沼野充義氏、そしてラテンアメリカ文学は野谷文昭氏、さらにゲストとして直木賞受賞作家桜庭一樹氏という豪華さ。

 赤門をくぐるのは学生以来。法文2号館2階1番大教室という広い教室に15分前に入ると、既に7割くらいは席が埋まっており、ほとんどが学生とおぼしき若い人ばかりで、中にはスペインからの留学生もいたようだ。男女比は半々。大学とは思えないサルサのBGM(ルーベン・ブラデスらのコンピらしい)が流れ、わたしとしてはラテンアメリカ文学の本拠地に乗り込んでしまったという緊張と興奮でいっぱいです。まず柴田氏の仕切りで1部は桜庭氏と野谷氏による『赤朽葉家の伝説』とラテンアメリカ文学の関係について、続く第2部では柴田氏と沼野氏も加わってラテンアメリカ文学の現代における影響について語られることがアナウンスされた。

 『赤朽葉家』について野谷氏から質問する形式で進行する。アジェンデの『精霊たちの家』やラウラ・エスキヴェル『赤い薔薇ソースの伝説』を想起したという話から女性による年代記の話になり、『赤朽葉家』は家の歴史を男性視点にせず、そのまま女性の視点、弱い方からの視点で描いたとのこと。「一度外に出ることで自分の(生まれた)環境が書ける、ということはありませんか?」という質問に、島根には顔にトゲのある地蔵が道沿いにずらりと並んでいるというのが実は珍しいと東京に出てから気づいた。島根のエピソードには日本ばなれした感覚があるということで、編集者からは「本当に日本の話なんですか?」と失礼なことを言われたと桜庭氏は怒っていた。島根はラフカディオ・ハーンや水木しげるが目をつけた場所ということもあり、不思議な現象に無縁ではない。地元を離れるという点では、ラテンアメリカでもボルヘスはアルゼンチンを出てアルゼンチンのガウチョについて、アストゥリアスはグァテマラを出てマヤについて、カルペンティエールはキューバを出てハイチについて語っている。また、話には出てこなかったけどコルタサルもパリに出たりしているし、全体の中でもこの質問は強い印象を持っていた。
 また『百年の孤独』と『赤朽葉家』の共通点として年代記という形式が使われており、桜庭氏は『赤朽葉家』が戦後60年の年代記を普通に書くならもっと長くなるところだが、『百年の孤独』を読んできっちり書く必要はなく、「もっと自由に書いていい」という安心感を得たとのこと。年代記の形式をとりながらマジック・リアリズムを持つ小説としてあげられていたのが、ヴァージニア・ウルフの『オーランドー』。実はガルシア=マルケスも同じ著者の『ダロウェイ夫人』にエピソードの集積という書き方で影響を受けていたというのは桜庭氏も知らなかった様子。
 ガルシア=マルケスが祖母の語り口をそのまま小説にしたというエピソードは有名だが、両作品の共通点としてやはり土地の目を持った語り手の存在で、桜庭氏もやはり終戦で満州から引き揚げ船に乗った祖母の話をよく聞いていたという話が印象的だった。大きい船と小さい船があり、大きい船に乗ろうとしたところ間一髪で出港してしまい、仕方なく不安定な小さい船に乗ることになったのだが、すると目の前の大きな船が魚雷か何かで沈没してしまった。この話を聞いてもし祖母が大きな船に乗っていたら自分はどうなっていたかというパラレルワールド的な世界を想像したと語っていた。生きながらえて語り継ぐということ。祖母の(生命)力の強さ、千里眼であること、世代をつなげるための血の強さを描きたかったそう。
 桜庭氏はガルシア=マルケスの後の世代ということで、批評的な視点で単に『百年の孤独』の再生産に陥らないための別の書き方が必要になるという野谷氏。最近の作家だと古川日出男『ベルカ、吠えないのか』、笙野頼子『二百回忌』、平野啓一郎や中上健次にも触れられていました。ちなみに『赤朽葉家』は第一章がマジック・リアリズムだとすると、第二章は少女まんが(『花のあすか組』が大好きで山口百恵の髪型にするところにキュンときたそうです)、第三章は青春小説の形式と書き分けている。
 桜庭氏から逆に英語、スペイン語、日本語では翻訳に影響が出るのか? という質問では、ガルシア=マルケスは非常に言葉を選ぶ作家で、実際には80人ほどが亡くなった事故の話を「リアルすぎる」という理由で3000人に書き換えたところ神話的なエピソードを紹介。こういうところで読者が考え込まないように読ませるところがすごいと指摘。また、いかがわしいジャーナリストでもあり、小説家の前は新聞記者で、岩波新書から『戒厳令下チリ潜入記』も出ているが、現実には強盗事件の取材ですでに終わった事件の臨場感を出すために再度強盗をやらせたとも。それらのエピソードを含めて作者自身がすでに伝説化してしまい、浅田次郎氏が世界ペンクラブの会合で今度コロンビアに行くといい「ガルシア=マルケスが来たらびっくりだね」という話。野谷氏によるとガルシア=マルケスの現在の住居はメキシコなので、実際にはちょっと難しいかもしれない。

 この辺りで第一部は終了。会場からは盛大な拍手が送られていました。中休みにはガルシア=マルケス(ちょっとインスマウス面)、イザベル・アジェンデらのインタビュー映像が流れていたが、ガルシア=マルケスはスペイン語のままなので何を言っていたかは不明。この後は柴田氏、沼野氏も参戦してラテンアメリカ文学の影響について語られる。刮目して待たれよ。

2008年07月21日

ガルシア=マルケス『エレンディラ』(サンリオ文庫)

エレンディラ (1983年) (サンリオ文庫)
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前に読んだのは2001年12月3日だから、6.5年ぶりに再読。読むきっかけになったのは東大で行われた「現代文芸論研究室主催 世界の文学とラテンアメリカ」でゲストの桜庭一樹氏が朗読していたところがぐっときたので。桜庭氏の声はほっそりしているけども芯がある感じで、エレンディラはこんな声かもしれないと思うような説得力がありました。

それぞれの短編集が実におもしろく、奇怪で奇天烈な題材でありながら、田舎でしかありえない集団的な妄想にかられるところがすばらしい。都会に限らず現代だとちょっとインターネットで調べれば海から薔薇の匂いがするはずは科学的にありえないし、立派ながたいをした水死体が流れ着くこともありえません。腐っちゃうからね。でも狭い田舎の村社会で育った人ならば多かれ少なかれ都会の常識では考えられないようなふるまいや信仰がはびこっていることを体験したことがあるのではないでしょうか。ただでさえ塩味の付いている漬け物に醤油をかけて食べるとか、未だに土葬だとか、墓石に水をかけるのはご先祖様に失礼だとか、いろいろ勝手な風習がついてまわる。15年前わたしが実家にいた頃には非常識だと思っていたことがいつの間にか常識になっていたりする。そんな外部との差異が風習レベルを超えて「事件」に仕立て上げてしまうのがガルシア=マルケスの真骨頂だと思うのです。直球過ぎるタイトル「大きな翼のある、ひどく年老いた男」のあらすじはこう。羽の生えたおっさんが突然庭に飛んできたのはいいけど、天使にしては元気がなく、神様にしては霊験のかけらも感じられない。そんなおっさんを田舎の共同体はうまいこと住まわせてしまう。人権的にはひどいかもしれないが、受け入れる共同体の葛藤がしっかり出ていてぐいぐい読まされてしまう。「現代文芸論研究室主催 世界の文学とラテンアメリカ」でも触れられていましたが、田舎に生まれ育った人が一度都会に出ることで、不思議な風習が息づいている地元を地元民でありながら外部の人間として見直す視点を獲得して書かれているのです。

ちなみに、「奇跡の行商人、善人のブラカマン」は筑波のがまの油売りが元ネタ、というのは茨城県出身のわたしの妄想です。

ガルシア=マルケスには『百年の孤独』やこの短編集など何もない田舎を舞台にしたものと、『コレラ時代の愛』や『わが悲しき娼婦たちの思い出』のように比較的都会を舞台に恋愛を題材にしたものとに分かれるような気がしました(ルポルタージュから発展した『予告された殺人の記録』も後者に入るかもしれない)。その間にある『族長の秋』は大統領府という国の中心地でありながら荒廃して田舎の人気のなさも持ち合わせているという、二つの世界観を融合させているんではないかと思った次第。そして訳者あとがきにあるように『エレンディラ』のエピソードが『族長の秋』という長編に連関していくと思うと、春先に種を埋めて水をやったときのような、これからやってくる大きな物語が発芽するのを待つような期待感がわき出てくる。次は『族長の秋』を再読せねばという機運が高まってきました。

2008年08月23日

フリオ・コルタサル「終わりなき旅」@セルバンテス文化センター

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ずっと気になっていた「フリオ・コルタサル「終わりなき旅」」に行ってきました。場所は奇しくも今月なぜか靖国神社に行ったときと同じ市ヶ谷。かなり道に迷ってたどり着いたセルバンテス文化センターは、純粋にスペイン語の語学教育を行っているところで、1階の書店にも日本語の本は教材以外まったくありません。日本語の本は置いても売れないのかしら。

会場の2階には受付に誰もおらず、つい写真まで撮ってしまいました。10分もあれば全て見られてしまうくらいの広さの会場は、赤と黒に塗り分けられており、コルタサルの言葉と写真が展示されています。旅がテーマとあって、アルゼンチン→パリ→スペイン→イタリア→インド→ニカラグア→アルゼンチンと移動した彼の軌跡をたどることができます。

子供の頃はぷっくりして目がぱっちりで本当にかわいい。それが小学校教員時代になると途端に眉毛もヒゲもごっそり生えてきておっさんとしか形容できなくなってしまい、同一人物とは思えないくらいの変貌。その後パリ(1952〜1958頃)に移住すると、つきあっているアウロラ・ベルナンデスと一緒の写真が多い。ふざけている写真でも目は笑っておらず、まじめそう。インドに行ってもそう。ここでは現地の古い天文台を何枚も撮影しており、白い石を切り出して作られた幾何学的な造形が気に入ったことがうかがえる。

会場の中心にはクッションとヘッドホンがそれぞれ3つ。大写しになったコルタサルとトランペットの写真を見ながらビバップの演奏を聴く。その裏側ではコルタサルが旅に出た時、船から撮影した写真が映像に編集されて流されている。BGMはマーラーの三重奏とシューベルトの五重奏。コルタサルのきまじめな顔にはジャズよりも室内楽の方が似合うような気はする。

いっしょに写っている作家も豪華で、イタロ・カルヴィーノとはピサの斜塔で、バルガス・リョサとはギリシアで、オクタビオ・パスとはインドで、レサマ・リマとはニカラグアで撮影されている。時には家族といっしょに、時には男同士で。メキシコでフェンテスと写っている時だけ、唯一笑っている。実際もこんなに笑わない男だったのだろうか、またはカメラの前では緊張して笑顔が作れなかったのだろうか。

「ぼくにできることと言えば見ることだけだが、見るというのは確かな保証もないのに対象に身を投げ出すことだから、そこに嘘がふくまれることは言うまでもない——『悪魔の涎』」

2008年11月16日

リチャード・バーギン『ボルヘスとの対話』(晶文社選書)

ボルヘスとの対話 (1973年) (晶文選書)
柳瀬 尚紀 リチャード バーキン
晶文社
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ボルヘスが70歳を越えてアメリカで講演を行った時に、学生が押しかけてインタビューしたものをまとめたもの。ボルヘスというとラテンアメリカ文学でくくるよりも、あらゆる文学に通じた国籍を感じさせない自由と学問の徒というイメージがある。そしてもちろん本好きに特有の偏狭さもあるんだろうと身構えていたが、本書で学生たちに話を合わせるボルヘスは優しく引っ込み思案でありながら、本当に物語を愛した一人の人間としてインタビューアーや読者に分かりやすい言葉で語る素敵なおじさまでありました。

外部からボルヘスを語るとどうしても複雑な迷路に惑う気持ちとそこに身をゆだねる快楽に焦点を当てられることが多いが、ボルヘス自身が語ると(当然だが)とても自由。難しく言い表そうとして通じづらい専門用語をなるべく排除しているところが、ボルヘスを読んで難しいなと首をひねって本を放り出してしまいそうなわたしの頭にすんなりと入ってくる。トルコ人を描くと嘘っぽくなるけどイタリア人だったらアルゼンチンにいっぱいいるからOKとか、雑誌のページが足りないから短編を一晩でひねり出したとか、神秘と迷宮だけではない等身大のボルヘスに出会える貴重な一冊です。

また、相変わらずラブクラフトが大嫌いで、アルゼンチン人が世界の短編集を編もうとしたときにラブクラフトを選んだ人がいたのでめくじらをたて、

ボルヘス ラブクラフトの非常に不愉快で、かなりいんちきな短編を採りました。ラブクラフトをお読みになったことがありますか。
バーギン いいえ、ありません。
ボルヘス そう、読む理由などありません。

と一刀両断。さらに、

ラブクラフトの短編をとりあげて、世界最高の短編だなどという、それは人をびっくりさせるためにすることです。ラブクラフトが世界で最もすぐれた短編を書いたなどと思う人があるとは考えられませんからね

と追撃。相変わらずよのう、とにたにたしたことでした。というわけで、晶文社が文芸を放棄した今、どこでもいいから再刊してください。

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