松本啓『18世紀イギリス文学漫歩』(日本図書刊行会)
次回読書会のため図書館で借りるも、スウィフトの生涯ならびにイギリスの時代背景の歴史的な事項のみで、読解としては大きく踏み出すものではなかった。
うーん、他の図書館に回らねばならんか……。
次回読書会のため図書館で借りるも、スウィフトの生涯ならびにイギリスの時代背景の歴史的な事項のみで、読解としては大きく踏み出すものではなかった。
うーん、他の図書館に回らねばならんか……。
いやはや、これほど身もふたもない評論は珍しい。いろいろ辛口の批評は読み聞きしているけれども、これほどのものはそうそうない。かなり打ちのめされたので、印象深いところをたくさん引用します。
文壇という奇妙な小社会を前提とした、私小説というこれまた奇妙に日本的な小説が出てくると、女は貧苦と並んで、作家の苦行僧的生活を成立させるための不可欠の要件となった。つまり文学的求道者である「私」は、「悪魔」であったり災厄であったりする女と敢えて関係を結び、その上でいかに非情に、というより身勝手に女を傷つけることができるかを文学修行の試金石としたのである。
『死の棘』! 『死の棘』!(読んでない)
島崎藤村の代表作であり問題作の『告白』(藤村が姪とやっちゃった話)については一刀両断です。
天下の朝日新聞という「公器」を自分の懺悔に利用して憚らない無邪気さと図太さとは田舎者の強みであって、誰にでも真似のできることではない。またこの懺悔という方式はまともな人間が倣うべきものではない。かつての文壇のような特殊な世界ならいざ知らず、世間を相手に小説を書いている人間が自分の生活の存立にかかわるような重大問題に直面したら小説を書くどころではないはずである。
まっぷたつになった藤村が左右にぱたりと分かれて倒れる姿が見えます。
自己表現などと言えば大層結構に聞こえるが、本当のところは自分に興味のもてる唯一のこと、つまりは自分のことしか書かず、他人を異種の動物のように眺めているだけのことなので、これは子供と素人に共通に見られる性質である。この他人を顧慮しないということから出てくる特徴はいくつかあって、例えば人を楽しませる芸も感心させる芸もないこと、妙な理論(いってみればUFOは存在するはずである式の)への信仰がある反面、その理論ですべてを料理してみせるほどの度胸も力量もないこと、「怪力乱神」を好むこと、文章が下手なこと、全体が子供のひとりごとじみていること等々がそれであるが、いずれも他人すなわち公衆に向かって語るという覚悟が欠けているところから派生するものであると言ってよい。そして右のような特徴をことごとくそなえた結果、今日の純文学はひどく型にはまったものになっていて、この点も一昔前のフォークソングと同じである。もっともフォークシンガーの方は若い聴衆に向かって歌いかつ語り、時には冗談を言うことも忘れない。純文学の作家はひたすら自閉的につぶやく。
最近の純文学の型は介護&ひきこもりでしょうか?
本書についてはつべこべ言うよりも、正論の力強さに圧倒されるべき一冊です。ちまちまこまごまとした正論ではない、正論を言うならば徹頭徹尾貫き通す覚悟が必要で、それを「あたりまえのこと」としらっとしてみせるだけの冷静さを兼ね備えていなければならない。どのページにも分かっていたはずなのに大人になって見落としていた正しい筋がきちっと通っており、頭を垂れて教えを請うしかありません。おもしろい小説がない時のカンフル剤としておすすめしますが、かなりの劇物なので取り扱いにはご注意。
「良い文章」とは何か。文学部を経て年に50冊くらい本を読んでいるわたしだが、恥ずかしながら良い文章がどんなものかと問われて答えられたことがないし、「良い文章」がどんな文章か漠然としか想像することができない。漢文や古文のリズムを持っていて、格調高い文章。格調高いとはいったい何ぞや、具体的には何が良い文章なのか。分からなかったので本書を読んでみました。
本書は具体的に良い文章を取り上げてそのどこが良いのか、真摯に解説してある。はじめの方では日本国憲法の文章がダメなことを取り上げているけれども、普段憲法の条文など見慣れないわたしにとっては使えない魔法の呪文を解説されているような気分になった。しかし、中盤以降、特に第九章「文体とレトリック」で取り上げられている大岡昇平の『野火』は、中学か高校の教科書以来となるが、実に切迫感がありつつも人間としての品格と苦悩を描き出しているすばらしい文章と思えた。これは一度通して読まねば。
かつて、物語の良さと文章の良さは別物ではないか、と思っていた。どんなにつまらない現象も名文家にかかれば書かれている内容はつまらなくとも名文になりえると思っていたのだ。逆におもしろいことが書けるからこそ名文家なのだと。しかし、初期のスティーブン・キングの短編はすごくおもしろいけれども、翻訳とはいえあまり名文とはされていないようだ。逆に森鴎外の「安寿と厨子王」などはあらすじを記憶しているため、一つの物語としてのみ認識されていて名文かどうかはあまり意識したことがない。しかし、第八章のタイトルにもなっている「イメージと論理」に書かれているとおり、名文だからこそ物語のおもしろさをより深く強く伝えられることができると本書では説かれている。その難しさとおもしろさを説明した文章を抜き書きしてみる。
イメージとはもともと、論理的でもなければ非論理的でもない、論理とはまつたく別範疇に属するものだといふことに由来する。だから、それを駆使して文章を仕立てるとき、われわれは話の進め方によほど気を配らなければならないし、そこのところをうつかりすると、文章はたちまち妙な方向へ行つて、いや、方角を失つて、話が濁り、筋が通らなくなる。
つまるところ、名文とはあるべきところにあるべき言葉が配置され連関して認識され、読者の理解を妨げずにイメージを作り出す文章、ということらしい。しかし、小学校1年生の語彙と大学生の語彙、新聞しか読まない人の語彙と新聞は読まないけれども1年に200冊以上の小説を読む人との語彙では明らかに異なり言葉選びが変わってくることは明らか。ビールとは認められていない発泡酒しか呑んだことのない人に、いきなり名酒と呼ばれるロマネ・コンティや純米大吟醸を呑ませても「うまい」しか出てこないはずで、名酒の持つ複雑さや美味に感動する身体や心の変化までは言い表すことはできますまい。むかしは名文を理解するには天声人語を読めなどと言われたものですが、あれは世間一般の常識的な文章構成力を得るための方法だったのかもしれません。大学受験にはそれでもいいかもしれませんが、それは和食だけが最高と決めつけて、フランス料理や、お酒、駄菓子などそれぞれにおいしさがあることを知らずに終わってしまうのと同じようなことではないか。本書で扱われている名文はそういう偏ったものではない。イメージを作り出すための言葉選びに妥協してはいけない、そのためには語彙を増やし的確に言葉をつなぎ合わせて大きな絵を描くように文章を書くことを心がけようと思いました。あとは推敲も大切です。ちゃんと書いた文章は読み直してみなければいけません。難しいけれども良い文章を味わうための手がかりを得られて大変ためになる本でありました。