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日本文学 アーカイブ

2006年02月11日

梨木香歩『沼地のある森を抜けて』(新潮社)

沼地のある森を抜けて
梨木 香歩
新潮社
売り上げランキング: 699

この作品はNHK-FMのラジオドラマ「フリオのために」がきっかけですぐに読もうという気になった。なんせぬか床から卵が産まれて、そこから人が出てくるのだという。ラジオでは冒頭の1章だけしか放送していなかったが、本ではそこからさらに9章も続いている。そして冒頭のぬか床ファンタジーなんてなまっちろい印象は読み進めるに従ってずっしり水分を含み、SFなところも出てくる壮大な話になってしまう。この手際、異世界で変な生物に出会いボスキャラを倒してエンディングなんて単調な物語をファンタジーとは決定的にちがうのだ。

物語は先祖代々受け継がれるぬか床を、叔母がなくなったあと「私」が引き受けるところから始まる。幼少の頃に同級生だった情けないフリオがぬか床から産まれた少年が、やはり幼い頃の友人だった光彦だと分かり、なんでか「私」の家に転がり込むところから始まる。その後はダメ男にふりまわされる「私」が、やがてぬか床の謎を解き明かす方向へ展開する。

3章と6章は「かつて風に靡く白銀の草原があったシマの話」というSFパート。現実からかけ離れていて、ジーン・ウルフ「新しい太陽の書」にちょっと近い雰囲気。ここはぬか床がつなぐ別の世界として読んだけれども、細胞の寓意ともとれるし、いろんな解釈を許す描写になっている。はっきりと位置づけることができなくて、ちょっととまどった。

ラストは壮大なんだけど、こういう壮大なものに直面すると思わず笑ってしまう。自分の理解の範疇を超えてありえなさが前提となってしまうことが理由だとすれば、それはわたしの人生経験値が足りないせいかもしれない。ただ、それだけ重み、迫力があるわけで、正対して自分の中にとどめるに値する力だ。

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2006年03月04日

町田康『浄土』(講談社)

浄土
浄土
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町田 康
講談社
売り上げランキング: 4,868

パンクとは相性が悪い。様式美を重んじる時代のメタルはパンクの破天荒さを鼻で笑っていたし、さらに様式美と難しいこと考えたがりのプログレがパンクと合うはずがない。プログレにはまってた頃、なぜか吉本ばななにもはまっていて、そのつながりで町田町蔵の、たしか『どてらい男又ら』を持ってた。しかしそれまで聴いてきた音楽と比べて「これはいったいなんだろう」と3回聞いても楽しくもなく心地よくもないために売った。で、そのときあまりにも分からなったことがずっと印象に残っていて、『くっすん大黒』も読んでみたけどやっぱりさっぱり分からなかった。

20過ぎてもばりばり肩に力が入っていてさーわるものみなじゃっじゃーきずつけたーなわたしには、このへらへらぶりが理解したくないものだったのかもしれません。「ま、いいやん?」というてきとーさ、関東からほとんど出たことのない人間にはひっかかりのある関西弁のリズム、ぼーっとしてるかと思うと突然殴りかかってくる凶暴さ、そういうのがすべて理解しがたかった。

さて現在に戻ってこの『浄土』。次の読書会『告白』前に短編集で肩慣らしの意味合いで読んでみた。最初はやっぱり言葉のリズムがきもちよくなくてページが進まなかったが、徐々におもしろくなってきた。やっぱりまんがの『ピンポン』と同じで違和感のある表現方法は、触れずに毛嫌いするんではなくある程度慣れの期間が必要なんだな。

特によかったのは「一言主の神」。国文出ながら古代はさっぱりなわたしだけど、昔の天皇周辺をこの口調で描くのが新鮮。もちろん橋本治の桃尻語訳もあるけど、それより古い時代をぼんやり野蛮な関西弁で描くというのがすごくいい。話のめちゃくちゃさも含めて超おすすめ。京都弁と大阪弁のちがいも分からないわたしよりも、関西在住経験のある人だといっそういいかも。

特撮好きな人はその前のギャオスが中野でモデルになる話がおすすめかもしれません。

でも正直現代を舞台にしたそれ以外の話はせせこましくてどーでもいーや。ちなみに『告白』はかなり読みやすく、史実に比較的忠実なのでおもしろい(読み終わった)。町田康は歴史ものを書くと無頼な感じがリアルで文体に合ってるように思えます。あ、そうすると勧められたパンク侍もOKってことか。うーん。

2006年03月05日

絲山秋子『イッツ・オンリー・トーク』(文藝春秋)

イッツ・オンリー・トーク
絲山 秋子
文藝春秋

なんとなく最近の日本の作家も読まなきゃ、という変な切迫感から借りてきた1冊。そんなに時間はかからないだろうという予想通り、1時間で読み終えて今年一番早く読了した本で賞を進呈したい。

それ以外に何か残ったか? 「イッツ・オンリー・トーク」は出てくる人たちが無関心そうな顔をしてる割には欲深だなあということ。不思議な人間関係が主眼だと思うけれども、そこから新しくわき起こってくるおもしろさを感じられなかった。舞台設定だけで終了されちゃった感じ。キング・クリムゾンがかかったり舞台が近所なくらいではほめる気にもけなす気にもなれない。普段読まない傾向の本はつかみどころがないものです。

「第七障害」は主人公の女性が馬術障害でかわいがっていた馬を死なせてしまうのだけど、とにかくその思い出話がうっとうしくて「何もこんな直接的にだらだら話さなくても」という日本人的婉曲な方向に流れないことが重苦しくてイヤになった。別れ話で延々自分のダメなところを責められているような感じで、解決へ向けた意思が見られない。

日本のブンガクはよく分からない。毒にも薬にもならないというか、さっぱり驚きがなく淡々と日常を描くことがブンガクなのでしょうか。別に教訓とか本気さとかいらないから、読んでわくわくするもの、おもしろい物語を求める人にとってブンガクって不要なのかしら。

2006年03月12日

町田康『告白』(中央公論新社)

告白
告白
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町田 康
中央公論新社
売り上げランキング: 1,481

「河内十人斬り」という河内音頭を下敷きに、考えばかりが先行してしまい結果ふらふらと遊び歩く熊太郎を主観的に描いた町田康の話題作。本屋大賞のshort listにもなっているそうで、これほど一般的に評価されている本が読書会の題材になったのは初めてかもしれません。

読書会であがった話題(でわたしが覚えていること)といえば
・熊太郎と熊次郎という似た名前でありながら、対照的な性格になっている
・ようじょこのシーンは熊太郎の生活力のなさを象徴している
・ミステリやSF系の作品とちがって、伏線に見えそうなところは別に回収されない
・いやいやながら盆踊りでも気が付くとノリノリな自分を見いだすあたりは、著者投影ぽい
あたりでしょうか。他の参加者のレポートのがずっとずっと参考になりますので、アップされるのを待ちましょう。

普段とちがって、今回は熊太郎と自分と重ねあわせて読んでしまったというのは、かなり共通部分があるせいだ。子供のころに末は博士か大臣かなんておだてられた人ほど大成しないなんてあたりはいかにも。勝てない博打と分かっていてもやめられずにいる熊太郎と勝つために博打を打っていたわたし。熊太郎はすごいよな、博打が勝てないシステムだと分かっていても、根拠がないのに勝てると思いこんでいる自分自身を分かっていてもひたすらうち続けるのだから。いい年になっても手に職もなくぶらぶらしていたり、美人の妻をめとってもほったらかしにしといたりと、どこをとってもおおたです。本当にありがとうございました。

結局、この物語の中で熊太郎は実質成長しないと言ってもいい。読書会では大阪なり東京なりに出て周囲の環境を変え、他により優れた人、熊太郎の思弁を外部から影響して言語化してくれるような人に出会えれば悲劇にはつながらないんじゃないか、という話があった。自省すると子供の頃より成長していないと思うのは誰にでも経験のあることと思うけれども、それでいてそれなりには成長しているものだ。考えすぎること、思弁的であることによって、社会の中で役割を背負わず、精神的に子供のままで育ってしまった熊太郎は、わたしはもちろん、今の世の中で決して珍しい存在ではない。熊太郎の主観というフィルタがかかっていて、町田康らしい当時ではありえない言葉遣いで緩和されているけれども、なかなかどうして読む人にとってはヘヴィな話のような気がします。

2006年03月31日

金井美恵子『タマや』(講談社)

タマや
タマや
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金井 美恵子
河出書房新社
売り上げランキング: 51,298

昭和61〜2年に群像で連載された短編を集めた本で、「タマや」「賜物」「アマンダ・アンダーソンの写真」「漂白の魂」「たまゆら」「薬玉」とそれぞれのタイトルに「たま」がついている(除「アマンダ・アンダーソンの写真」)。この本を読んだのはひとえに表紙。もちろん金井美恵子に興味があったのだが、この表紙の美女は誰なのよと。タイトルにアマンダ・アンダーソンとあるけれども、あとがきによるとゴダールの諸作品に出ているアンナ・カリーナだそうで、ろうそくの灯りで一心に何かを読み解こうとするような横顔で、同じ絵がモノクロの色調を変えて9枚並んでいる。表紙と同じ写真はwebsiteにはないけれども、とにかくこの触れれば切れそうな美女にイチコロでした。文庫版は猫の絵で、それはそれで小説に即しているけれど、たぶんありきたりな印象で読まなかったろうな。

小説に入ると羊頭狗肉とは言わないが、えらくテンションがちがっていて、うだつの上がらないカメラマンである主人公の家に、アレクサンドルという風来坊がタマという猫を預けに来たところから始まるのんびりした日常が描かれる。兄弟かもしれない冬彦さん(某ドラマ同様頼りないキャラクターだ)とか、ファム・ファタルなお母さんが出てきて、タマが子猫を生んだりとかでもやっぱり避妊手術したりとかな、ダメ男三人の日常。

文章は会話の鍵括弧もなく一人称でさらさらとだらだらの合間を行くような流れ方をしている。改行もかなり少ないが、一人称できちんとぐうたらな空間を描写して映像的でありながらも、決して説明口調には流れない。言葉と映像がきれいに結びついた文章だなあと感心。

どうも今読んでいるガルシア=マルケス『物語の作り方』をはじめ、ラノベ=ラテンアメリカ文学やSFにすっかりかぶれてしまったせいで、物語が進んでいかない非エンターテインメントな小説はつかみどころがないように感じてしまう。ラノベ=ラテンアメリカ文学は物語にいろんなフックを仕込んでごりごりと突き進む。人間関係を描き出すところに重きが置かれる日本の小説は、同じ小説であっても脳の中でしまう棚がちがうというか、楽しむスイッチを切り替えて読まねばならぬな、と思う。おおざっぱに分類してしまうと、ラノベやマジック・リアリズムでは物語の推進があってそこに登場人物の関連性が副次的なものとして関わってくるのだけど、日本の小説は一つの場を元にしてぐるぐると円を描きながら物語が進んでいく感じ。移動手段でいったら車と徒歩くらいちがうという感触。

決してつまらないわけじゃなくて、徒歩だと目的としていた地点までたどりつかないこともあるけど、ま、散歩程度のものだから目的地なんてどうでもいいではありませんか、とのんびりした気持ちになった1冊でありました。それにしてもアンナ・カリーナは美人だ。映画を見たときはこんな衝撃を受けなかったのになあ。

2006年04月03日

森見登美彦『太陽の塔』(新潮社)

太陽の塔
太陽の塔
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森見 登美彦
新潮社

ずっと噂を聞いていた「京大マジック・リアリズム」。ようやく手にとってなるほどなっとく。といっても、わたしは修学旅行も含めて2回行っただけで京都の土地勘はほとんどない。だから具体的な場所の持つ住民ならではのイメージは薄い(四条河原町が繁華街ってことくらいは分かる)。それでも十分に笑えたし、(おおげさに言うと)魂のよりどころとか性根のあり方を考えさせられた。

京都大学に入学したのはいいものの、協調性を欠きうち解けない主人公をはじめ、歴史の表舞台にはなかなか登場しづらい男4人の大学生活暗黒物語。主人公はようようできた彼女にクリスマスプレゼントを突き返されてふられ、それ以降彼女の研究と称して尾行を繰り返し、「研究成果」をノートにびっちり書き込んでいる。ヘンタイだ。

主人公の元彼女水尾さんは主人公の追憶の中でしか姿を現さないところがすばらしい。そうだ、美しい愛は常に過去にしかありえないっ。今そこにある愛はどろどろでぐだぐだなんだから、もっと美化して妄想に浸るのだ、と応援したい。情けないと言われようが、それもひとつの愛。他人には受け入れがたいけれども、愛にはいろんな形があるんだから、それはそれでしょうがない。

惜しいなと思うのは「邪眼」の植村嬢が有機的に絡んでこないこと。物語上、同じ学年の女性と設定することはかなり広い意味を含んでしまうと思うのだけど、その眼で見つめられると萎縮してしまうという単純な役割にとどまっている。ありきたりなパターンなら、4人組の誰かを好きというシチュエーションとかその逆と考えられるけど、毎回単に疑惑のつっこみを入れるだけで消えていってしまう。

物語が後半にさしかかると、主人公の語りが現実を離れて人の夢に入ったり、非現実的な描写に直面する。それは彼の一部であり世界だから驚くこともなく引きこもることもなく、その世界を処していくのだ、とわたしは受け止めました。が、ここはいろいろな読み方ができて、大変好印象。個人的にはマジック・リアリズムで起こる非現実的な事象には象徴性が極力排除されている方が好みなのでやや描きすぎかなとも思いますが、それはわたしの単なる嗜好。そもそもなんだかよく分からない太陽の塔がある時点でこの物語の非現実性は確立されたようなもので、その元でうごめく人と夢の純粋さとあほらしさを、主観ながらも落ち着いた筆致で描き出しており、非常に好印象。10年後、20年後の作品はきっと京都の枠から飛び出して驚かせてくれるんじゃないか。今から楽しみなので長生きしなきゃ。

2006年04月25日

壇一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫)

小説 太宰治
小説 太宰治
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檀 一雄
岩波書店
売り上げランキング: 136,321

太宰治と作者との私小説。戦争を目前に控えた世相と、自然体の作者が常に出している高揚感があいまって若さの疾走を描き出している。もっと簡単に言うとかなりホモぽいです。

見どころは解説で沢木耕太郎が引用されていて、貸してくれた人も絶賛していた、壇一雄21歳のとき。太宰を「君は天才だ」と面と向かって認める場面。自らの才能を信じて自尊心の塊のような人物が、他人の才能を認めるのは相当の照れと心酔が必要だ。二人きりのシーンなので創作の可能性もあるが、流れている敬意や向上心、対抗心などが入り混じった末に昇華された結晶はたとえようもなく美しい。それでも気炎を上げるとはいえ、イタリア人的享楽さとは異なり、常に身内に己を刺し続ける刃を抱えて苛みながら文章を書こうとする。

しかしこいつらは友人のものを質草に入れたり、わずかなつてを頼って無心したりと、平成の世から見るとダメ人間甚だしい。それが許された時代、と言うよりもダメをダメとして受け入れられる寛容さが当然の風潮だったのか。志ん生の『なめくじ長屋』でも同じようなダメっぷりを発揮していたことを思い出した。高度成長期のあたりからその傾向はあったが、特にWEBが浸透するにつれて、ここで描かれるような天才でもダメな人間は徐々に認められない風潮が出てきて、現状は規格に沿った人間だけが認められるようになったように感じる。倫理の規格外であるからこそ人を感動させることができる」という考えることは、言い換えれば信念の強さに通じるかもしれない。世間に迎合しないからこそ彼らの芸術は人を感動さ
せるのかもしれない。

非常に得心のいった場所は、後半に壇一雄が太宰とは生と死の観点で方向性がちがうと認識する場面。生きる理由があるにもかかわらず死の方向を向いている太宰と、生きるために文章を書こうとする壇。もちろん実際には処世的なもろもろが人生を分けることになったのだろうが、究極的な方向性をすぱっと切り出す壇一雄の文章は分かりやすく、また別れてしまう二人にしんみりしてしまう。

それにしても、友達にはなりたくないけどね、この二人。性が別だったら人生を支えたいと思うかもしれないけど、波乱万丈でつらい生涯は覚悟しないと。

2006年06月18日

町田康『猫にかまけて』(講談社)

猫にかまけて
猫にかまけて
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町田 康
講談社
売り上げランキング: 4,937

わたしが猫が死ぬ話や映画は駄作だっと言い切る理由は、あんなふわふわでほよほよで体重なんて人間の1/10しかないような生き物が人間の1/4くらいの寿命であっさりぽっくり(またはぜぇはぁ苦しみながら)死んでしまうのは当然のことであり、そんなことぁ言われなくたって分かってるつもりだった。そういうルポはもういいよ、自分の時まで出会いたくない。

でもいざそうやって猫が死ぬことを頭から追い払って生きていても、ふと死んでしまった時にどうしたらいいのか自分で判断できるだろうか。どのくらいやばくなったら病院に連れて行けばいいのか、死んでしまった時には社会的に、感情的にどう猫の死と向き合えばいいのか。人間の子供でもそうだろうけど明確な基準はない。しかも相手は猫、言語体系が自分とは異なる相手だ。「病院連れてけ」なんていうわけないんだから、やはりそこには覚悟と観察がいる。

この本での町田康のあわてぶりといったら、猫がわるくなっても病院に連れて行かずになんだかよく分からないオゾンだのイオンだのを与えていて、猫は霞を食って生きているわけではありませんよとぴしり、たしなめたくなるような勢いなのです。

教訓:死にかけたら病院に行け

ただ、この猫かわいがりぶりは読む人すべてに笑いと涙を誘うだろう。それは「ポチたま」のナレーション、編集された感動物語とはちがって、「このあけらんそうがっ」などといきがりパンクで刹那的なイメージの著者が猫を前にするとでれでれべたべたになってしまうギャップにあるのかもしれない。猫を擬人化することは端から見ていると痛々しいこともあるけれど、このギャップとそれを客観視できる視点は希有のものだと思う。パンク嫌いなんで認めたくないんだけど、おもしろいです。猫好き、猫がいたらなでるくらいには好き程度の人なら絶対笑って泣くはず。

2006年08月05日

リリー・フランキー『美女と野球』(河出文庫)

美女と野球
美女と野球
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リリー・フランキー
河出書房新社

くそう。おもしろかったです。このおもしろさがくやしい。

いかにも脊髄から笑いの神経だけずぼっとひっこぬいて言語化したようなえりすぐりのアホテキストが並びます。どこ読んでも笑えるのよ。学生のとき中島らもを読んでげらげら笑ってましたが、やっぱり関西の笑いには感覚的に少し遠いものを感じていました。それよりも関東のあっけらかんとして裏のないバカさが肌には合っているのかもしれません。

"結局勝負はインポになってからだろう"

ここからおいらくポルノの世界へ展開する流れのおもしろさ、強引な自然さが実におもしろく、見習いたい。

立ち読みしたベストセラーの『東京タワー』や、最近の雑誌を見ると、この頃の爆発的なギャグセンスはなりをひそめて、「バカもやれる人がしんみりしちゃった」せつなさを売りにしているのでしょう、が、わたしはだまされないぞ。もっと走ってよ、かけぬけてよアホ街道。

2006年08月08日

三島由紀夫『潮騒』(新潮文庫)

潮騒
潮騒
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三島 由紀夫
新潮社
売り上げランキング: 13,415

三重近くの島を舞台としています。漁業を生業としており、男たちは日々船に乗り、女は海女として貝を採る。なんとか高校を出た主人公は、仕事上がりに海岸で見知らぬ女に出会い、初めて女を意識する、普通の青春純愛もの。

と思いきや、三島はひととおりの恋愛小説を書いてはいない。『仮面の告白』を読んだときには三島由紀夫にほとんど興味がなかったために挫折して以来、わたしは今まで「ゲイ」(彼の場合は「男色」と書いた方がいいかな)というカテゴリに収めていた(カテゴライズは敵だと散々言っていたにもかかわらず!)。それは自分の生い立ちを過剰に描く自意識過剰さに疎ましさを感じていたせいかもしれない。

ところがこの小説では冷徹に村の人間関係を見つめ、自然主義的な語り口を用いている。冒頭では舞台となる島を映像的、データ的に俯瞰しつつ、主人公にゆっくりとズームしていく視線は、空からふわりと降りてくる鳥になったかのような浮遊感を感じさせます。これが文章で味わえる映像か、と最初から興奮いたしました。

なんといっても見所は島の男尊女卑的な空気をみっちり描きつつ、女性が男性を評価する視点をも保っているところで、ゲイの文学と聞いて彷彿するマッチョイズムとそれにくみしかれる女性の両方が存在するところ。先日読んだエドマンド・ホワイトといい、三島由紀夫といい、女性が男を見定める視線の厳しさと力ではそれにあらがえない諦めが同居することによって生まれる女性の知恵の輝き、判断の鋭さが現れている。たとえば、

二階から一階へ降りがけに、新治の背後でその下駄の音が止った。新治はふりむいた。少女は笑っていた。 「何や」 「私も黒いけど、あんたも随分黒いねえ」 「何や」 「よう日に焼けとるがな」

ふつう、人が日に焼けていることを指摘する時は、正面から顔の黒さを見て判別します。それを階段の後ろから頭を中心に、漁で引き締まった身体を見て指摘する構図がおもしろく、エロいのであります。もちろん下駄の音を止めて相手がどれほど自分を気にしているのか見定めるテクニックも秀逸。今なら拍子木のようなカシーン、カシーンと音のするサンダルで同じ効果が出せますので、女子のみなさんは奮って応用してください。

漁の危険、義父の反対、恋のライバルが仕掛けるいやらしい罠、婚前の焦燥と、いかにも昨今尊ばれる純愛の要素を全て込めて、たどりつくラストの一文! この一文のために小説がある。男の人はこの一文に戦慄し、心に刻んで恋愛してください。わたしは鳥肌立ちました。やや蛇足も見られる(千代子がらみはほとんど不要でした)ものの、この傑作を知らずして、君、恋に落ちるなかれ。

2006年10月15日

野溝七生子『女獣心理』(講談社文芸文庫)

女獣心理
女獣心理
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野溝 七生子
講談社
売り上げランキング: 244,370

昭和5年の少女漫画ちっくな作品。大島弓子の比較的初期の作品「ほうせんか・ぱん」や「キララ星人応答せよ」のような、現実感の薄いおままごとのような人間関係。だが、そこにある心の濃度は昨今の小説にはない、清らかな奔放に満ちている。

司法試験に合格した新名塁(しんなとりで、通称ルイ)は、従妹であり許婚の沙子(すなこ、通称シャコ)の元に戻る。沙子は美術を通して九曜征矢(くようそや)と仲良くしていた。征矢は美術学校時代に描いた名作から「レダ」と呼ばれており、過去に謎めいた秘密を持っており、今はシャコの隣家で貧しい生活を送っている。ルイは結婚を間近にしながらレダに魅かれていく自分に気づくが、結婚はつつがなく執り行われるが、自分の気持ちをくつがえすことができない。やがてレダの過去が徐々にあきらかになるにつれ、幸せな3人の友情が崩れていくのでした。

もう、この命名自体が大島弓子ぽい(時間的には逆ですが)。「ミモザ館でつかまえて」の亜麗、「バナナプレッドのプティング」の衣良など、大島弓子に限りませんが、当時の少女漫画では西洋の名前を美しい感じに直したものが多かった。単純な西洋への憧憬が命名されることで、日常のドラマからひとつ抜け出した高尚さを演出していたように思われます。この小説でも冒頭はルイが許婚に偶然銀座で出会うシーンから始まり、

 白昼の銀座は何か悲しい。ジャンダークがオルレアンで呟いた例の名句「この雑踏の中のこの寂寥」が、隅々にまで一ぱい漂っている。
 眼の前に、ぱっと花が降ったように現れた、多い色彩を備えた時世粧(アラモード)だ。危うくぶつかりそうになって踏み直ったところを摑まったのである。
 「あら、あら。」
 従妹は叫んだ。今そこを勢いよくお出ましになった、資生堂の旧館の、暗くさえ見える扉口が、彼女の背後にあった。私は帽子をとった。
 「どうしたの、沙子(シャコ)。」

このハイカラぶり。そしてステレオタイプな偶然。これでこそ少女漫画のロマンであります。韜晦な言葉遣いでも森茉莉のように完全に浮世離れした高邁さはない。これは贅沢なままごとなのです。女性同士の心遣いや優しさを存分に見せながら、そこに男も巻き込んでいくおままごと。冒頭の聞き違えが象徴するように、男は騎士(ナイト)、女は姫君で、そこに身体関係のような生々しさは入る余地がない。ままごとは陽の当たるところで保護者に見守られた安全な場所で行われる遊びだから。女が困ったときには男が助け、悲しいときには抱き合って、手を重ねてわんわんと声をあげて泣く。

この頃から、すでに謎めいた美少女レダは少年の面影をたたえた中性的な造形で描かれているところが興味深い。女性であるために男をその美貌と絵画の才能で惹きつけ、女からは保護する対象(おままごとでいうところの人形)であり、堕落をそそのかす蛇でもある。沙子からは人形に見えても、現実を正しく生きる沙子の母から見ると危険な存在に写るのです。

そしてラストの衝撃。ままごとという大きな壷が床に叩き付けられて壊されるにも関わらず、夢の中のように音がしない。悪夢で幕を閉じることで全体の幻想性を保ったところが、おもしろくも上手さを感じました。

2006年11月19日

いとうせいこう/奥泉光/渡部直巳『文芸漫談 笑うブンガク入門』

文芸漫談―笑うブンガク入門
いとう せいこう 渡部 直己 奥泉 光
集英社
売り上げランキング: 144022

なんだよもう。こんないい話してたのかちきしょー。これはねー、文学っていうより、小説をどう読むか、どう書くかというスタイルの話なわけで、万人が自らに問いなおすべき問題ですよ。それをこんなぴーひゃらしたフルートで解決するなんて、やるなあ。

酔っぱらって読んだせいで、やや必要以上に天啓を受けた印象もありますが、それでも(失礼ながら冴えない)表紙から受ける「なんだかいろいろ大丈夫?」と心配しそうな微妙な雰囲気からはまったくかけ離れた叡智がみなぎる一冊です。

特に5章「涙の共同体」ではとおりいっぺんのドラマに涙する奥泉さんの話から、でもただ涙するなんてのは記号を叩き込めば実は誰にでもできることであり、そこから笑いを導くくらいになって初めて名作となると言います。その例として島尾敏雄『死の棘』で叫ぶ男に向かって子供が呼びかけるシーンを拾います。戦争のようにどう転がっても泣くしかないような場面でも笑いや別の感情が入る隙間がある。

この本で改めて確信したのは、書いている表層から引き起こされるおもしろさというのはちょっとかけ離れているくらいの方がいい、ということ。先日の読書会のお題になった『石の葬式』とその元ネタと言っても差し支えない『百年の孤独』などでは貧しい村で起こるドタバタを描いて、本人としては貧しかったり人生がうまくいかなくていらついたりするところを、読者としては笑えたりあまりに意外な行動に展開されたりして驚くところが名作たる理由となっています。Aという事象にたいていつきまとう感情A'を描くことが普通の小説としたら、AとはまったくちがうBの小説で引き起こされる感情B'がAに付随しちゃうことが名作の条件になるかもしれません。

まだ年に数回開催されているらしいので、機会さえあればぜひLiveに立ち会いたいものです。

福田和也『悪の読書術』(講談社新書)

悪の読書術
悪の読書術
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福田 和也
講談社
売り上げランキング: 44350

この本のさかしげなふるまいにうんざりしていたところ、プロレスのようなものだと耳にし心の活火山がようやく矛を収めた。文壇とか「きょーよー」としての読書が必要な人の参考書であり、本が読みたい人ならば歩いてぶつかったものを手に取るべきで、「何を読んだら利口に見えるか」なんてことを気にするのは愚の骨頂。「あらすじで分かる文学」みたいな本を読んだ方が早い。

2006年11月27日

藤沢周平『用心棒日月抄』(新潮文庫)

用心棒日月抄
用心棒日月抄
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藤沢 周平
新潮社
売り上げランキング: 11344

高校の頃には吉川英治にはまって、『三国志(今でも大好き!)』『水滸伝(吉川バージョンは作者が亡くなったため未完)』、『宮本武蔵』の基本をおさえていたし、大学時代には『鬼平犯科帳』全巻読破も達成したりして歴史小説はかなり好きな部類。でもSFや変な海外文学ばかり読んでいると歴史小説はかなり遠いものに感じてしまう。勧善懲悪の予定調和が前提にあるから、どうしても先が読めて鼻白んでしまうのでした。

ところが、本書は事情によって本国を追われ、江戸で浪人の身となり仕事を斡旋してもらうことになる武士が主人公。さながら派遣社員に登録しながら食い扶持を探す現代の若者(わたしを含む)のようではありませんか。また、中世ヨーロッパの傭兵ギルドを舞台にしたTRPGのような単純さと腕っ節のロマンがあります。さらに地元に事情ある許嫁を残しているところも遠距離恋愛マニアにはたまりません。いちいち健康的な屈折があって読んでいて飽きない。続きもあるそうだけど、それだったらもっと江戸の鬱屈した日々を続ければよかったのに、と思いつつ、絶対読みたくなる物語とキャラクターの勢いがあります。小難しい文学やら哲学に疲れたときの清涼剤にどうぞ。

2007年01月21日

凛『もしもキミが。』(ゴマブックス)

もしもキミが。
もしもキミが。
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ゴマブックス
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書店をぼんやり歩いていたら本書がベストセラーランキング1位になっていたので、どれほどのものか立ち読んでみた。その間、5分。

ネタバレあります!

幼なじみの女子がふとした拍子でHIVに感染していることが発覚。そのうちなぜか腫瘍が全身に回ってしまい悲しみの別れを経験する。

以上。リアリズム的批判はナンセンスである。

昔から難病による恋人同士の別離は題材にされているわけですが、こういう安っぽい話に終始するのであれば、なぜ過去の名作をリサイクルできないのか、ということがわたしにとっての問題です。白血病や結核で亡くなる話はいくらでもあるだろう。結核がHIVに変わればいいいのか、という時点で本作は止まっています。だからHIVにまつわる複雑さはまったく描写されない。

もう一つ、シェイクスピアの悲劇など古い文学では難病による恋人の別離を題材にしたものはないようです。病気が悲劇の題材として成立したのは結構最近のことのようです。それはいつごろなのか? 文学者自身が夭折したというのは太宰、梶井基次郎、中島敦のようにぱぱっと思いつきます。しかし内容自体で病気による夭折を扱っているのはいつごろからなのか、Google先生に相談してもいまいち要領を得た答えは返ってきませんでした。

まったく自分にとって不要な書物と考えていても、読んでしまうと意外に新しい疑問/発見があったりするものです。また、読んだからにはそれをトリガーとして思考を展開させるべきです。先入観でくだらないと判断してしまうのはよくありません。きちんと読んだうえで批判すべきでしょう。

くだらなかった! 読む価値なし!

夏目漱石『草枕』(新潮文庫)

草枕
草枕
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夏目 漱石
新潮社
売り上げランキング: 86994
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角がたつ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

この名文で始まる夏目漱石39歳、明治39年に発表された本書は、意外にも小説らしくない小説でした。あらすじといえば、一人の絵描きが微妙な田舎の人間関係にまじわりそうで心からの邂逅があるわけでもない、ちぎれ雲が風に流されるのをぼんやり眺めるような話。

冒頭に引用した文句はあまりにも有名ですが、それ以外にも漢語がたくさん使われているため、漢字を見た時の意味の解凍がどっと押し寄せて、ぼんやりとした田舎の風景が漢字による絵巻物のように見えてきます。

踏むは地と思えばこそ、裂けはせぬかとの気遣も起る。戴くは天と知る故に、稲妻の米噛に震う怖も出来る。人と争わねば一分が立たぬと浮世が催促するから、火宅の苦は免かれぬ。東西のある乾坤に住んで、利害の綱を渡らねばならぬ身には、事実の恋は讎である。目に見る富は土である。

海は足の下に光る。遮ぎる雲の一片さえ持たぬ春の日影は、普ねく水の上を照らして、何時の間にかほとばりは波の底まで浸み渡ったと思わるる程暖かに見える。色は一刷毛の紺青を平らに流したる所々に、しろかねの細鱗を畳んで濃やかに動いている。春の日は限り無き天が下を照らして、天が下は限りなき水をたたえたる間には、白き帆が小指の爪程に見えるのみである。然もその帆は全く動かない。住昔入貢(そのかみにゅうこう)の高麗船が遠くから渡ってくるときには、あんなに見えたであろう。その外は大千世界を極めて、照らす日の世、照らさるる海の世のみである。

何坪何合のうちで自由をほしいままにしたものが、この鉄柵外にも自由をほしいままにしたくなるのは自然の勢である。憐れむべき文明の国民は日夜にこの鉄柵に噛み付いて咆哮している。文明は個人に自由を与えて虎の如く猛からしめたる後、これを檻穽の内に投げ込んで、天下の平和を維持しつつある。この平和は真の平和ではない。動物園の虎が見物人を睨めて、寝転んでいると同様な平和である。

どちらもぱらりとめくったページで漢語の多いところを抜き出したものですが、明確な意味は分からなくとも、漢字が持つ意味と文章のリズムによって人物の考えや風景の明媚なことが、文字でも絵でも伝わってくる。途中途中にミステリアスな美女や、喰えぬ狸のような住職との対話はあるものの、全体に田舎にさすらう絵描きのうつろう姿と思想が流れていきます。従って形として小説としての始まりと終わりはありますが、全体にどこから読んでも、どこで読み終えても良いように書かれており、作中でも読了することは意味がないと断じています。それは次の対話でも堂々と宣言しています。

「全くです。画工だから、小説なんか初から仕舞まで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ逗留しているうちは毎日話をしたい位です。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなると猶面白い。然しいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初から仕舞まで読む必要があるんです」
「すると不人情な惚れ方をするのが画工なんですね」
「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」

実作2作目にしてすでに小説の筋を否定してしまう漱石に驚いた。イギリス留学でオスカー・ワイルドやピアズリー、ラファエル前派の文化に触れてそれらの自然主義を否定したと江藤淳のあとがきにありますが、その実、ただあることの美しさを再発見するという点ではラファエル前派の活動とも共通するところがあります。たぶん漱石は、その技術さえあれば本作を映画未満、環境映像以上の形に仕立てたのではないでしょうか。

ところで柄谷行人によるもう一つのあとがきには、漱石の豊富な語彙力について触れられています。本書も地の平易な文章、漢語の多用、そして英語まで使われ、それらすべてに共通するリズムのなめらかさがあり、それらは豊富な言葉が支えているものに感じます。本書が書かれてから100年たった現在、わたしはどれほど漱石に立ち向かうほどの言葉を持っているのかを考えると、人と鼠の脳みそのちがいくらいに遠く隔たってしょんぼりしてしまいます。今すぐ漢字の書き取り100ページに取りかかります。

2007年01月27日

古川日出男『アビシニアン』(幻冬社)

アビシニアン
アビシニアン
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古川 日出男
幻冬舎
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沈黙/アビシニアン
沈黙/アビシニアン
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古川 日出男
角川書店
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現在は文庫で「沈黙」とセットになっているらしいのですが、わたしが読んだのはねこ面表紙の素敵なハードカバー版。ねこだったのでまっしぐらに読みましたが、常に『アラビアの夜の種族』を読んだときにも感じた言葉選びの違和感がつきまとう。芯となる物語はきちっとあるのだろうけど、それを説明する言葉に勢いがありすぎて物語の枠に正確にはまっていない。絵柄も形も似ているパズルのピースがしっくりかみ合っていない違和感に近い。ぶっきLibrary...さんを読んで自分と近い感触を得てらっしゃるのかも、と思いました。著者はおそらく、とても言葉があふれ出す著者なのだと思う。物語の奔流をくだるために言葉をどんどん繰り出して足場を作るのだけど、あまりにも流れが激しくて足場が崩れてしまっている。そういうときは編集者がたずなをとって言葉の水門を閉じたり開けたりすべきなのですが、うまくいっていない。特に1章の東急線から乗り換えて中野に着き、猫と共に野宿するところは、猫と共に暮らす者としてはあまりにも嘘っぽくて萎えてしまった。人間がついていけるほど猫の通り道は甘くない。そういうディティールの甘さにわたしは寛容ではないのだ(猫については特に)。

最後まで隠れ家的理想のレストランで身内だけのユートピアが語られる。しらけた遺産相続の挿話が入ったり落ちてる財布を拾ったりと人物を甘やかしすぎです。なんというか「3億円あったら何しようか」と考える白昼夢のレベルで、好意的な読者ならその空想に入り込んで役になりきることができるのかもしれません。

全体に小劇場演劇のような「宣言」的な語りが多いのだけど、言葉がとても棒立ちになっていて、結局のところ本人の身体の外に出て行かないだけなのではないか、相手に届ける言葉になりきっていないように見える。そもそも、言葉を失ったにも関わらず、「滅える(きえる)」「捕捉(キャッチ)する」「感情(おもい)」と言葉に頼る表現が随所に見られるのはいかがなものか。

全体に中途半端なリアルさを取り入れてしまい、小説未満、妄想以上という印象。噂では文庫版でかなり書き直されているという話です。

2007年02月18日

倉橋由美子『あたりまえのこと』(朝日文庫)

あたりまえのこと
あたりまえのこと
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倉橋 由美子
朝日新聞社
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いやはや、これほど身もふたもない評論は珍しい。いろいろ辛口の批評は読み聞きしているけれども、これほどのものはそうそうない。かなり打ちのめされたので、印象深いところをたくさん引用します。

文壇という奇妙な小社会を前提とした、私小説というこれまた奇妙に日本的な小説が出てくると、女は貧苦と並んで、作家の苦行僧的生活を成立させるための不可欠の要件となった。つまり文学的求道者である「私」は、「悪魔」であったり災厄であったりする女と敢えて関係を結び、その上でいかに非情に、というより身勝手に女を傷つけることができるかを文学修行の試金石としたのである。

『死の棘』! 『死の棘』!(読んでない)

島崎藤村の代表作であり問題作の『告白』(藤村が姪とやっちゃった話)については一刀両断です。

天下の朝日新聞という「公器」を自分の懺悔に利用して憚らない無邪気さと図太さとは田舎者の強みであって、誰にでも真似のできることではない。またこの懺悔という方式はまともな人間が倣うべきものではない。かつての文壇のような特殊な世界ならいざ知らず、世間を相手に小説を書いている人間が自分の生活の存立にかかわるような重大問題に直面したら小説を書くどころではないはずである。

まっぷたつになった藤村が左右にぱたりと分かれて倒れる姿が見えます。

自己表現などと言えば大層結構に聞こえるが、本当のところは自分に興味のもてる唯一のこと、つまりは自分のことしか書かず、他人を異種の動物のように眺めているだけのことなので、これは子供と素人に共通に見られる性質である。この他人を顧慮しないということから出てくる特徴はいくつかあって、例えば人を楽しませる芸も感心させる芸もないこと、妙な理論(いってみればUFOは存在するはずである式の)への信仰がある反面、その理論ですべてを料理してみせるほどの度胸も力量もないこと、「怪力乱神」を好むこと、文章が下手なこと、全体が子供のひとりごとじみていること等々がそれであるが、いずれも他人すなわち公衆に向かって語るという覚悟が欠けているところから派生するものであると言ってよい。そして右のような特徴をことごとくそなえた結果、今日の純文学はひどく型にはまったものになっていて、この点も一昔前のフォークソングと同じである。もっともフォークシンガーの方は若い聴衆に向かって歌いかつ語り、時には冗談を言うことも忘れない。純文学の作家はひたすら自閉的につぶやく。

最近の純文学の型は介護&ひきこもりでしょうか?

本書についてはつべこべ言うよりも、正論の力強さに圧倒されるべき一冊です。ちまちまこまごまとした正論ではない、正論を言うならば徹頭徹尾貫き通す覚悟が必要で、それを「あたりまえのこと」としらっとしてみせるだけの冷静さを兼ね備えていなければならない。どのページにも分かっていたはずなのに大人になって見落としていた正しい筋がきちっと通っており、頭を垂れて教えを請うしかありません。おもしろい小説がない時のカンフル剤としておすすめしますが、かなりの劇物なので取り扱いにはご注意。

2007年07月06日

野溝七生子『眉輪』(展望社)

眉輪
眉輪
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野溝 七生子
展望社 (2000/02)
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久しぶりに心から物語に耽溺した。好きな傾向の本はどうしても頭で理解しつつ「感心する」という楽しみ方が多いのだが、これは頭からラストまでどっぷり古代日本に浸かりつつ、現代人の視点も生きていて、なおかつ情に溢れた物語。旧字が多用されていることで普段読んでいる小説とはちがう、それでいて古典の勉強の堅苦しさはない、優れた古代小説です。荻原規子のファンタジーが好きな人にも読んでいただきたい。絵面は昔の少女まんがで。

「眉輪」とは記紀の時代に短い生涯を閉じた眉輪王のこと。彼の利発な性格は父の死、母との別れを経た後に、真実を知ることで「眉輪王の変」と言われた天皇の殺害にまでおよび悲しい最期を迎える。人物の関係図や詳細は有里さんのページが詳しい。そもそも本書の存在を知ったのも有里さんのところで、それから何年たったことか。先日タイトルがおどろおどろしいが中身は少女まんがな『女獣心理』を読んではずみがついたか。

ソローキンの『ロマン』ほどとは言わないが、静と動の対比が実にみごとで、穏やかな時期の会話のなめらかさ・ほっこりした感触と、激した時の壮絶な勢い、そして戦いの空虚さと残酷さを描くときの筆致がどれも図抜けている。特にぐっときたのは、前半ではあまり人に対して呼びかけを使わないのですね、なぜかというと、平穏な日々では用のある相手はすぐそばにいるものだから、大きな声を出さずともふりかえって言いたい言葉を発すれば相手に届くのです。ところが、後半になって混沌が訪れると言葉をかけたい相手が近くにいない。そのため、まず相手を捜す、呼ぶところから言葉が始まるのです。そこで作者は相手への呼びかけに「繰り返し」を使うのです。

「若草香媛、若草香媛、御身は今どこに居るのか。」

王子は追つた、追つた。
「助けよ、助けよ。」
あとに聞く王妃は戦慄を禁じ得ない。どんなに絶望を語つた声の響きだつたか、彼女は続いて去つた。 「媛、それは無理、たいへん無理です。非常にむつかしいことですわ。」
「不幸な孤児の願ひを、決して拒け遊ばすことはなさらないと、そのやうに王子様がお妃様のことを私にお噂さ遊ばしました。」
「媛、私の心が新たに贈り物を考へつくまで御身は何も何も私から欲しがつてはいけません。可愛い人。」
「優しい優しいお妃様、何ていい方でせう。」

なぜ同じ言葉を繰り返すか、それは強調だ。1度では足りないから、2度、3度と繰り返すのだ。当時は今よりもずっとずっと語彙が少ない時代、そこにアクセントをつけるのは声の大きさではなく、繰り返しだった。例えば今、誰かに何かを言い聞かせるときに、「だーかーらー」などと接頭辞だけで自分のスタンスを表してはいないだろうか。本当に言葉を届かせたいのならば、同じ言葉を何度も尽くすことだ。今の手持ちの言葉を相手に届けるように力一杯送り届けることなのだ、とこの本を読んで物語のおもしろさと共に語り方の極意をも教わったように思います。野溝七生子の言葉のやわらかさと、それを届けるために尽くす力は本当にすごい。これが大正十四(1925)年に書かれた作品とはにわかには信じられません。大傑作です。

2007年07月08日

引間徹『地下鉄の軍曹』(集英社)

地下鉄の軍曹
地下鉄の軍曹
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引間 徹
集英社 (1995/04)
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タイトル通り、地下鉄の跡地に住む軍曹に主人公の会社員が戦友とまちがわれることで行動を共にすることになる話。リゾート開発会社に勤める主人公は、東南アジアから来たライバルの優等生サマサマや日本文学を学ぶ留学生の少女と共に、軍曹のドタバタにつきあわされる。軍曹は昭和天皇を御護りするために地下鉄に暮らしているのだ。第112回芥川賞候補作品。

作者の名前は『十九分二十五秒』で足が不自由ながら競歩選手として歩き続ける姿でくっきり印象に残っていた。ラストもスティーブン・キングの『死のロングウォーク』(大傑作!)のように読者に委ねるところも良かった。

なんといっても描写がしっかりしているところがいい。無駄なところがなく、主人公の独り語りもうっとうしさを感じさせない。フランスパンを銃剣に見立てて持ち歩く、「つぶれた銀杏」の臭いの老人になつかれた青年の困りぶりから次第に親近感を抱く過程が自然に描かれる。

とはいえ、わたしは天皇制については故意に関心を抱かないようにしているため、本書で語られる敗残兵の心意気は伝わってきたものの、思想にまでは共感できない。作中ではチェーン店の牛丼の味に感動して軍曹が危篤の陛下に牛丼を差し入れるシーンがあるが、このあたりの強烈な皮肉は他人事としてしか読み取れなかった。「皮肉だな〜」という他人事として消化してしまったし、全編のモチベーションにも心動かされることはなかった。このあたりに共感するにはまだまだわたしの勉強が足りないし、時間も足りない。

しかし、社会的に重視されていない思想を死ぬまで追求することは他人(特に現代の日本人)から見ると滑稽でしかないが、いざその思想に触れて共感を覚えたときには他人の蔑みなど気にならないだけの自分の基盤になるのだろう。それが幸せだとか不幸だとか他人が口を出す問題ではないにも関わらず、その人から悪臭がするとか休みの日に勧誘に来るとかでゴキブリのように蔑む権利は本当はないということを改めて心にとめることになった。

作者は最近新刊を発表していないようだけど、かったるいニートの内面なんて時流に合わせてぽろぽろ出されるよりは、本書のような志のある小説こそを読みたいものです。

2007年08月02日

俵万智『短歌をよむ』(岩波新書)

短歌をよむ (岩波新書)
俵 万智
岩波書店 (1993/10)
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最近短歌や俳句に関する本を読もうと思っている。主な理由は言葉のセンスを研くため。17文字乃至は31文字という限定された言葉を使ってどれだけ鮮やかな表現ができるのか、言葉に意味を含める最前線の人たちの話を聞こうと思い、本書や『万葉秀歌』などをひもといている。自分では母音のすずやかな感じ(あ、お、う)/べたりとした感じ(え、い)には敏感なつもりでいたけれども、子音の効果については今ひとつ鈍感だったりして、Kの固い音、Sの軽やかさなどもっと日本語の音と意味を敏感に嗅ぎ取れるようになりたいと思っているのです。

本書はあの『サラダ記念日』の著者による短歌鑑賞についてのあれこれ。1章ではタイトル通り「短歌をよむ」と題していわゆる教科書に載るような名歌から現代の秀逸な短歌を味わう。枕詞や序詞なんてのは試験に出すためのうっとうしいルールだと国文学科を4年以上かけて卒業したわたしですら思い込んでいたようなことをいともあっさり乗り越えてしまう著者の軽やかな解釈がすてき。たとえば枕詞があるからこそ、それを受ける言葉が「来る」という心構えができるというのだ。「たらちねの」→「母」にかかる枕詞について次のように解説している。

主役はあくまで意味を持っている「母」という語——これは、言葉の意味を重視する時代の発想だろう。枕詞の生まれた背景を考えるなら「この枕詞は××という語を引き出します」という言いかたが、よいのではないかと思う。

つまり、「母」が最初にあり、そこに至るまでの序曲として「たらちねの」があるわけだ。これは「くるぞくるぞ」と身構えて予想通りの笑いを引き起こす昔のドリフや漫才などの常套パターンに似ている。ある条件で笑うと意識的にでも無意識にでも分かっているところに予想通りの笑いを引き起こすアクションが来ることの喜びはまちがいなく存在する。それは保守的で進歩がないとはいえ、心にうったえかけるものに実は保守も革新もなくて、心の動きが引き起こされるのならそれがどんなものであれ「感動」なのだ。本書はそういいたいのだと捉えました。

わたしが特に勉強になったのは第二章の「短歌を詠む」。わたし自身は短歌を詠む習慣はないしこれからもあまり身につけようとは思わないけれど、限定された字数で自分の感情を表したり世界を詠み込んだりするには過敏ともいえるほどの言葉選びが必要になる。その際に用いるテクニックについて語られており、それは短歌や俳句にとどまらず言葉をものす者おしなべて読んでおくべきお手本であります。心を揺らした結果短歌を詠み、それを選評会などで披露し批評を受ける。自分ひとりでぬくぬくとあたためている言葉は雑菌が入って腐敗してしまうかもしれませんが、他人の選を受けるという外気に触れることでいつまでも新鮮さを保つことができるのです。だからどんなに楽でもmixiばかりに閉じこもってないで、誰でも見られるwebで自分なりの言葉を発信すべきであるとも捉えました。

俵万智をぼんやりしたようなぬるい歌人と勝手にはきちがえていたわたしは実に恥ずかしい。彼女のぬるさは万人が入れる疲れを癒すための温度なのです。塚本邦彦のような鋭い短歌は誰しもが常に楽しめるものではなく、日常の言葉から思いもかけない効果を引き出すための手段なのだと気づいたとき、自分の狭さにも気づけたような気がします。blogでも小説でも言葉を書く人ならば一度は手に取るべきで、言葉の制限にとらわれている人にはぱかりと枷を外してもらえる一冊になるのではないでしょうか。

2007年08月16日

松村栄子『至高聖所 アバトーン』(福武書店)

至高聖所(アバトーン)
至高聖所(アバトーン)
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松村 栄子
福武書店 (1992/02)
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1991年の第106回芥川賞受賞作品。選評はこちらで読める。

地方のマンモス大学の理系学部に入学した主人公は、数少ない女性の友人たちと学園生活を楽しもうと思っていたが、寮には別学部の一風変わった女性真穂が同室となっていた。鉱物が好きで安定を望む主人公と、文系でアジったり演劇に心魂傾ける破天荒な女性との間で微妙な空気が生まれる。

まんがにしたら今は亡き「ヤングユー」系列に属するだろう、少女以上、女性未満な大学生の日常を、ちょっと変わったキャラクターで描き出す。わたしには宝石も含めて鉱物が好きという感情がいまひとつ理解できない。触っても冷たいし何の反応もない。無反応だからこそ自分の近くにいても安心できる、ということなのだろうか。主人公の安定ぶりはそれこそ鉱物のようにしっかりしているものの、衝撃を与えると簡単に割れてしまいそうなもろさも持ち合わせている。長野まゆみや大島弓子に通じる潔癖さが印象的です。

ただ30代のおっさんが読むには少女漫画が好きだったとはいえ、ちょっとつらいところ。今は小説のウェイトが減っているせいもあるが、やはり自分と重ね合わせるところがほとんどないのは読んでいてつらい。学生という未来を夢みる存在がうっとうしくもうらやましい。出口のないような閉塞感にまた身を置きたくないうっとうしさ反面、いまならば出口の方向くらい分かりそうなのでやり直したい、といううらやましさもある。とはいえ過ぎ去ってしまったことを悔やんでも仕方ないので、本書の潔癖さはわたしにはやや眩しいのでした。

2007年08月18日

小林恭二『俳句という愉しみ——句会の醍醐味ーー

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俳句という愉しみ―句会の醍醐味 (岩波新書)
小林 恭二
岩波書店 (1995/02)
売り上げランキング: 260194

俳句や短歌には枯淡の境地がつきまとう。わたしは長いこと俳句や短歌は長い文章が書けなくなった年寄りが暇にあかせて日記のように詠むものだと、半ば蔑むような感情を抱いていた。その理由のひとつには、わたしたちが4ビートで育ったことにあると考えている。五七五の俳句、五七五七七の短歌のリズムは、西洋のロック、特にハードロックやメタルで思春期を送ったわたしにはあまりにも腰が重く感じられ、DNAレベルで記述されたリズムだからこそ、それを抜け出したい気持ちが強かった。伝統的なものへの反抗心は田舎に生まれた日本人なら一度は理由もなく感じたことがあるはず。

そんな抵抗感を見事に打ち払ってくれる本書のおもしろさよ。そもそも現代になって俳句がどのような人によってどのような言葉を紡いでこられたのか知らないままで食わず嫌いしていた自分が恥ずかしくなります。それと共に国文行ってもろくに勉強しなかったわたしでさえおもしろさを感じられるように現代俳句がたどってきた歴史を織り交ぜながら、副題通り「句会という愉しみ」を実況解説付きで楽しめます。このおもしろさはTRPGのリプレイを読むおもしろさに近い。

正直なところ本書を読むまで誰一人として現代の俳人について名前を知らなかったのだが、読後はブックオフの安い詩集コーナーに落ちていないかと鵜の目鷹の目。それぞれの俳人を紹介する時に自薦の句を紹介できるのは、小説を書く作家ではできないこと。これが作者のプロフィール以上に俳人たちへの親近感を抱かせるようになっている。

海わたる春雷塔を記憶せよ(大木あまり)
一陣の落花が壁に当る音(岸本尚毅)
当日集合全国戦没者之生霊(三橋敏雄)
死を想へ極彩色の浜草履(小澤實)
南国に死して御恩のみなみかぜ(摂津幸彦)
しりぞきてゆく幻の軍団は、 ラムラム、ララム だむだむ、ララム(岡井隆)
月下の猫ひらりと明日は寒からむ(藤田湘子)
露を置く野のキリストの足の釘(有馬朗人

以上、句会の参加者の自薦句からさらにわたしの印象に残った句を選んでみた。どれもこれも国語の教科書にはない瑞々しさと切迫感がある。中でも「ラムラム、ララム」とか「キリストの足の釘」なんて表現は己の閉じこもっている言葉の狭さを思い知らされると共に、長編小説の一場面を凝縮したような壮絶さすら漂う。

実際の句会となると肩書きは関係なくびしばしと的確な批評を加えていくのが句会。当初は言葉選びの基準が厳しすぎるのではと思っていても、いつの間にか俳句の無駄を省く基準が身に付いてくる。単にきれいに詠むだけではなく、時と場所にふさわしい言葉選びが要求されるのが実に難しそうであり、これ以上ない明確な基準となっている。不思議と句会の選評を見ていると、正選が入った句はぴたりとおさまるところにおさまっているフィット感があるのです。また1時間ちょっとで10もの句を詠んでしまう参加者の脳みその引き出しも圧巻。最初から最後まで驚きっぱなしで一気に読み通してしまいました。

俳句については現代俳句協会による現代俳句データベースがあり、現代の俳人の作品を鑑賞することができて便利。短いからこそじっと言葉と向かい合って、最適な言葉を配置するという鍛錬は、俳句や短歌をものさずとも文章を書く者ならば必要なことではないでしょうか。その入り口にして最高峰を覗くことができるのが本書であります。前作も読まなければ。

2007年08月25日

松井今朝子『似せ者』(講談社)

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似せ者 (講談社文庫)
似せ者 (講談社文庫)
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松井 今朝子
講談社 (2005/08/12)
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次回読書会(mixi)に向けて小説の方はしばらく松井今朝子固め打ちの予定。まずは本書から。表紙の化粧している役者の艶かしいイラストがきれい。

「似せ者」「狛犬」「鶴亀」「心残して」と芝居もの4短編をおさめる。江戸の風俗を知識がない人にも分かりやすく読ませ、そこにはかなり現代の視点もからんでいる。江戸の常識を前提にしていないところが受け入れられそう。ファンタジーでもそうですが、あまりにも異世界の常識を前面に押し出しても読者はおいてきぼりを喰らってしまいます。とはいえ、この傾向は直木賞受賞作『吉原手引草』をちらっと読んだかぎりでは、ちょっとうっとうしいレベルに至っているようなのが心配。

おもしろいし、非常に小説が巧みという印象を受ける。きちっとまとまっていて破綻もない。しかし、だからこそ退屈が生まれる。もっとも江戸時代というのは250年も戦がなく泰平のうちに時間が流れていったのだから、本書もその空気を見事に反映しているとも言える。決して凡庸ではないが、物語自体にも目新しさがなく落ちるところに落ちてすんなり納得できるタイプの話なのだ。贅沢ながらそこが不満。

今まで時代物の小説は幻想文学に浸るだけの勢いがない時にぼんやり手に取って活字摂取力を回復するためのもの、という位置づけでした。文字を読む気力がないときでも時代物はある程度話の展開が読めることと、ことばのリズムが切れ味いいので、活字を読む元気を回復させてくれるのです。本書もそういう意味では活力になるけれど、普段のわたしの趣味とは全く異なり、やっぱりいい意味でも悪い意味でも退屈なんだな。加えてますます興味のない芝居の世界が中心なのもわたしにはマイナス。こればっかりは趣味の問題なのでしかたない、あまり縁のない作家だとあきらめます。半端に芝居をかじったばかりに、今じゃすっかり興味をなくしてしまったのは、やはり自分がなしとげられなかった理想型を見ることが眩しいからなのかしら。

2007年09月02日

松井今朝子『吉原手引草』(講談社)

吉原手引草
吉原手引草
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松井 今朝子
幻冬舎 (2007/03)
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吉原でも稀に見る才色兼備のお職葛城がとある大事件を起こした。その詳細を関係者に聞き取っていきながら全貌をあらわにする、二人称で書かれた吉原案内書。

落語と杉浦日向子で一通り吉原がどんなところか齧っているわたしでも、あまりにも丁寧な説明を登場人物が語りに語るところは、少々辟易した。吉原を知らない聞き手という設定にしたって、まるで歴史の授業のように一から十まで丁寧に説明してくれる登場人物たちには、不自然さを感じるしかない。まして江戸のようにツーカーの息(粋)を重視する社会において、ここまで人々が詳細に語りつぐというのは野暮ではないか。

もちろん平成の世に暮らすわたしたちにとって、江戸はすでにノスタルジアを通り越した大過去になる。当時のベストセラーである戯作ですら、読み解くには単に語学だけでなく、当時の風俗までも意識的に勉強しなければ理解には及ばない。岩波文庫で出ている江戸時代の読み物には多大な注釈が付き、おいそれと手を伸ばせるものではない。

そう考えると人物たちの会話の半分が江戸知識のおさらいなのは仕方ないのかもしれない。今のわたしたちが本書を手軽に楽しむにはそれだけの情報を注釈以外の形で自然に盛り込まねばならないのだ。

さて、話の方は葛城という神秘的な花魁にまつわる人々の駆け引きを描いているわけだが、花魁というただの売春婦ではない存在について考える機会となり、そのやり取りを楽しんでいた江戸の人々の粋をおもしろいと思った。客は女郎屋に金を払えば「やれる」わけではない。初日は面通しだけで帰り、直後に裏を返し、イベントには大枚を払って盛大に花魁を飾り立ててやる。そこまでしても人気のある花魁だと平気で袖にされてしまうが、それでも「ふられて帰る果報者」なんて笑って許してしまう、江戸の恋の軽やかなやりとりは、おおらかさと細やかさが混在している。実際の恋と同じように時間をかけて馴染んでいく過程を楽しむものなのです。儀式的な要素をふんだんに持った遊びとして、ままごとの延長みたいな趣があったのかも。時間的にも精神的にも余裕のあった江戸の心持ちというのは、忙しさばかりが先に立つ平成のわたしたちにこそ必要であることだなあ、と最後には気持ちよく本を閉じることができました。

でも読書会は江戸講習会で終わりそうな予感がします。はたしていかがなることか、開催は9/15です。詳細はmixiにて。

2008年05月30日

森見登美彦『四畳半神話大系』(角川文庫)

四畳半神話大系 (角川文庫 も 19-1)
森見 登美彦
角川書店
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正直に言って、『太陽の塔』はみんな褒めすぎだと思ってた。もてない鬱屈した男子の妄想がぴちぴちの鮮度を保ちつつ、あまのじゃくだけど不器用で憎めない人物として描かれていたのは、好感を持ちこそしたが、決して手放しで評価できるものではなかったと今でも思う。佐藤友哉などの「もてない自分が嫌いなように見せかけてでも大好き」なパターンかと思ったものです。しかし、本書の四畳半を中心に繰り広げられるミリマリズムは、単に非モテの生ぬるい心地よさだけから大きく進化している。2004年に出た単行本の文庫化に合わせて購入。佐藤哲也氏のあとがきもすばらしい。

本書のなんといってもすばらしいところは、4つの中編が組み合わさってまさしく神話のような奥行きを見せるところ。詳しくは書かないが、本書の仕掛けに気づいてじわじわと感じるおもしろさはSFチックであり、学生ならではの閉塞感をうまく利用している。最後の章ではボルヘスの円環構造すら彷彿させる。すごいと素直に感心した。

もっとも、本書の舞台となる京都大学に通う、もしくは通ったことのある人を知っているかどうか、京都の学生の雰囲気を知っているかどうかは、本書の楽しみ方に多少の影響を与えることはまちがいない。わたしが社会人になって知り合った京都で学生時代を過ごした人(東京で生まれた人も含め)は、東京で学生時代を過ごした人とは印象が異なる。東京の人よりもやわらかいというか、まろやかな感じがする。なんとなくですが。そういうのがうまく出ている小説です。単に学生時代のあまずっぱさを追想するだけではない、人の抱える閉塞感と周囲の人々によってそれが緩和されていく様がうまく描かれています。

2009年01月02日

森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』(角川文庫)

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)
森見 登美彦
角川グループパブリッシング
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人んちで麻雀の抜け番に読んだものの、アルコールと眠さで印象が残っていないため、文庫化を機に読み直してみました。一読して感じたのが、デビュー作『太陽の塔』からずいぶん遠くなったな、ということ。あの頃は相手の女性の顔すらろくに見えなかったのに、本作では後頭部を見つめるだけの関係がとうとう一緒に空を飛ぶなんて。

春夏秋冬別に4つの短編が収められており、どの短編にもきちんとカタルシスがあり、徐々に主人公の先輩と彼女が近づいていくのが甘酸っぱい。春は若者に解禁された酒、夏は京都の古本市、秋は誰もが何かしらの思い出を持っている文化祭、そして冬は風邪をめぐって個性の固まりのような人たちを巻き添えに、二人の物語がかわいく甘酸っぱく進んでいくのです。もうこの甘酸っぱい物語を胸の内でふくらませてにやにやするには年を取りすぎたわたしは、と反省することしきりであります。手を握るまでに文庫本一冊をはるかに超えるような紆余曲折を経るなんてまどろっこしいこと、大人にはやってるファンタジーも時間もないんだよ。でも作者にはいつまでもこの甘酸っぱさをキープし続けていただきたいと切に願うばかりであります。

Wikipediaを見てちょっと違和感を覚えたのが本作を含め森見登美彦氏がマジック・リアリズムの作家としてカテゴライズされていること。個人的にマジック・リアリズムというのは文明化された社会から隔絶された組織で発生する未知なる現象ととらえているため、本作での浮遊などはファンタジーとしてとらえたい(もっとも芥川の『河童』もマジック・リアリズムとして紹介されるくらいだから、天狗が出てくる時点でマジック・リアリズム認定していいのかもしれませんが)。『百年の孤独』が世に出たとき西欧ではあまりにも破天荒な物語に驚いたけれども、地元コロンビアや南米では「あるある!」と親しみ深い物語として読まれたということから、実はマジック・リアリズムというのは外部から認定されるべきものなのかもしれません。というわけでわたしは日本人作家の作品にマジック・リアリズムというカテゴライズは合わないんではないか、と思っております。

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