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海外文学 アーカイブ

2006年01月14日

ダニロ・キシュ他『「夢のかけら」 世界文学のフロンティア3』(岩波書店)

世界文学のフロンティア〈3〉夢のかけら
今福 竜太
岩波書店
売り上げランキング: 787,714

200円でシリーズの他の本といっしょに投げ売りされてたのを保護したもの。これは1編200円くらいの価値はありますよ。こういうのは河出の文庫あたりで出すと、世界の文学はこんなに変なのか! と驚くために境界文学が好きな人は必読。

・ダニロ・キシュ「死者の百科事典(生涯のすべて)」

プチ・ボルヘス。夜、特別に入れてもらった図書館の百科事典には、亡くなった父親の生涯がつづられており、どうやら図書館全体が人類すべての生涯を記した百科事典を所蔵しているらしい、というもの。ボルヘスだったら半分の長さでスタイリッシュに書くところを、やや冗長さを出すことにより、有名でもない一人の人物の生きた記録を丁寧に描き、大切な人の記録を読むという特別な体験を描き出している。

・ガブリエル・ガルシア=マルケス「海岸のテクスト」

新聞記者時代のコラムだそうで、『青い犬の目』と同じ頃なのかな? 「俺の悪夢はすごいよ」「いや俺の方が」とか、のび太の自慢のような小編。つまらないわけではないけど、特にガルシア=マルケスだから、というおもしろさではない。こてこてのコントも、藤子不二雄のような分かりやすい幻想譚。

・ステーファノ・ベンニ「最後の涙」

バラードぽい歴史改編SF。学校ではテレビの歴史を学び、焚書がまかりとおる世界を描く。テーマは好きなんだけど、前半と後半でテーマが乖離しているように見えるのがやや不満。

・スタニスワフ・レム「一分間」

出ました噂の架空書評。書評にしては長すぎ、と思うのは日本人センスでしょうか。1分間の間に人類全体が活動している内容が統計で示された本の書評、という形をとっています。1分間の間にどんな死に方をするか、1分間にどれだけ精子を放出し、どれだけの血液が心臓から出入りするか、そういうトリビアについて熱く語るレム、を自ら作り出しているレムに萌える小説です。

・イスマイル・カダレ「災厄を運ぶ男」

イスラム教の国で女性がかぶっているチャドル。国が拡大してそれまでチャドルの習慣がなかったところにチャドルを運ぶ男の物語。ところが男はイラスム圏外に出ることで、生まれて初めて女性の自由な視線にさらされる。この驚き! これはSFを読むときに全く異なる文化、知性体に感動する時と同じ驚きです。読みやすいし超おすすめ。

・ヴィスワヴァ・シンボルスカ「ユートピア/奇蹟の市」

詩。しかし文系センスが試される普通の詩とはちがい、すごく理系ぽい詩と言ったらいいのか、明快でいて考えさせられる。こういう作品がノーベル文学賞(1996)ってのはすごい。

ここに生えるのは正しい推論の樹
その枝ははるかに大昔からもつれることがない
なるほど、そういうことと呼ばれる泉のほとりにたつのは
目がくらむほど真っ直ぐな理解の樹

・ヴォルフガング・ヒルビッヒ「ゆるぎない土地」

カフカのように不安定な日常描写からはじまり、ラストはカタストロフィを予感させる落ち着いた喫茶店の会話で終わる。作者が旧東ドイツ出身ということもあり、時期的にも東西ドイツ統合を思わせる内容だけれども、それはまた生きてきたことに疲れた生死のはざまの一瞬の空想とも読みとれました。

小説としては一番おもしろくなりそうなところを回避して、予感させるにとどまったところがいまひとつ好みではありませんでした。

・ボフミル・フラバル「魔法のフルート」

「意識の流れ」というやつでしょうか、作者自身の行動やチェコの町の喧噪、自殺、警官たちが発射する催涙ガスと逮捕される民衆などが、つらつらと流れる文章の中に息づいています。しかし、失敗したシュールレアリスムのように、一歩まちがうとただのだらだらした文章にうんざり、という危険性もはらんでいるように思われます。それぞれの文章の描く対象が、明確にまざりあっていないので、「物語」ではないところにわたしの違和感があるのかもしれません。

でも登場人物のフラバルさんは、にゃんこに鶏ももを4つも買ってあげるので、人間としては最高だと思います。同志よ!

ところで「グラム三百円の豚肉ゼリー寄せ」というのはいかがなものか。当時のドイツだからマルク? でもいいんじゃないでしょうかね。

・残雪「かつて描かれたことのない境地」

残雪はSFだ。それもジャック・ウォマックに似ている。泥と腐った有機物にまみれた残雪と、限りなく無駄が排除されたウォマックでは、一見水と油ほどにちがうように見えるけれども、凝縮された言葉で描かれる、意味と無意味の境界を進む姿が似ているのであります。

しかし、ここでの残雪は舞台が寒いせいか、何も腐ってないし、人物も小屋の中にいて地面よりも高いところにいる。普段のはいつくばって土を食う残雪じゃないところがちょっと意外です。

道ばたの掘っ建て小屋で、道行く人々の夢を聞き、描写しつづける記述者。彼が夢を記述し続けたノートを捨てる顛末が描かれる。残雪にしては非常に読みやすく、それゆえにやや物足りない。しかし、「それでも人は生きる」としか言いようのない、虚無を淡々と描き続ける残雪はやっぱりすごいのであります。

・アナトーリイ・キム「コサック・ダヴレート」

コルタサルやレイナルド・アレナス『めくるめく世界』を彷彿させる一人称がころころ変わる幻想小説に、作者自身の体験を織り込んだ散文としての面も持ち合わせたまったく予想外の小説。コルタサルほど一人称の視点が今ひとつ洗練されていないように感じるところもありますが、転がり続けるパワーと、シンプルな描写で、言葉の違いによるコミュニケーション・ブレイクダウンをセンチメンタルにさえ描ききる力はすごい。いや、これはとんでもない作家の予感ですよ。群像社から翻訳が出ているらしいので、読まねば。

沼野先生によるエッセイも発見。

・エステルハージ・ペーテル「ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし」

カルヴィーノ「見えない都市」のペテルブルク版。二番煎じ。

・アブラム・テルツ「金色のひも」

教科書ちっく。

「私の素晴らしい靴は、あなたのところですか?」「はい、私のところです。」

こういうのが全体の9割続く。皮肉な短編として驚きはあるけど、象徴するものが少なすぎて物語のおもしろさはないな。

2006年01月15日

ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』(国書刊行会)

「今日の若手作家連は本屋に雇われとるのです。」

あ、ちくま文庫なのか。わたしが読んだのは国書刊行会版です。訳にちがいはあるのかな?

ヴァージニア・ウルフといえば、フェミニストが好きな本を書きちょっと暗めな内容、という思いこみしかなかったわたしですが、やはり百聞は一見に如かず、自分の愚かで貧困な想像力を反省することになりました。

だって、マジック・リアリズムなんだもん! フェミニズムうんぬんはあまたある解説書にお任せして、どこがマジック・リアリズムなのかに着眼してみます。

『オーランドー』で使われているマジック・リアリズムの要素は、
・読みやすい
・おおげさ
・現在の科学で解明されていないことが、具体的な説明ぬきで起こる
・時間の流れ方が現実(普通の歴史)と異なる

・読みやすい
マジック・リアリズムは何よりも物語として読みやすくおもしろいものでなければならない、とは誰も明確に規定しているわけではありません。しかし、ラノベ=ラテンアメリカ文学最高の傑作にして代表的なマジック・リアリズム作品『百年の孤独』をはじめとして、マジック・リアリズムの作品は読みやすく単刀直入におもしろい作品が多いものです。『オーランドー』も英国のかわいいけれど時代錯誤な詩人から始まり、恋の遍歴を重ねてトルコへの都落ち、そこで性転換(こう書くとモロッコみたいですが)からback to UK、運命の出会いをするも愛するあの人は船乗りでほとんど家におりませぬ。そうこうしているうちに歯の奥にある加速スイッチを押して、気が付けば20世紀という大変すぐれた石ノ森章太郎なのです、ということでフェミニズムやゲイにびくついてるSF/文学好きにはぜひ手にとっていただきたい。

・おおげさ
繊細な筆致が続くオーランドーですが、冒頭にいきなり大寒波のおおげさな描写があって、マジック・リアリズム的つかみはばっちりです。

ノリッジでは若く頑健な田舎女が道を横切ろうとしたところ、曲り角で凍るばかりの突風に打たれて見る間に粉と砕け、ひと吹きの塵と化して屋根の上を吹っ飛んでいくのを目撃した者がいる。

じゃ、なんで見ていた奴は塵と化して吹っ飛んでいかないんだなんて言うのは野暮です。また、1章の最後では「英文学散文の粋」と言われているという、テムズ川の氷河大移動のシーンも圧巻。氷の上で平然と暮らしていた人々が、突然川が氷解したものだからただただ流されていき深い川の底に沈んでいくという、街に自然の力が押し寄せるダイナミズムがすてきです。

・現在の科学で解明されていないことが、具体的な説明ぬきで起こる
については、何はともあれこの小説のメインとなっているオーランドーの男性から女性へ転性です。彼はトルコに大使として赴任するのだけど、争乱の中7日間の眠りにつき、目覚めたら女性になっていたというシーンは、エドワード・バーン=ジョーンズか、羽海野チカ的おむかえかという勢い。

また、この転性がトルコという「ヨーロッパとアジアの境」で起こったことも象徴的です。文化的な世界と野蛮な世界を分ける場所で起こり、その後ロマ族に拾われるというのも劇的ですばらしい。

・時間の流れ方が現実(普通の歴史)と異なる
というのは、すでにボンスロップと出会った場面あたりから始まるのですが、物語当初では1600年代に生きていたオーランドーが、結婚後物語を書き始めます。書く作業に没頭するうち月日はたち、オーランドーは実際の歴史の時間からどんどん加速しながらはみだしていきます。すでに馬車ではなく自動車が走り、電話が開通しているイギリス。この時間の加速はカルペンティエール『バロック協奏曲』でも見られるように、時間の流れが一定でないがために過去と現実がないまぜになることで生まれる混乱の妙。

ガルシア=マルケスだと時間が過去と未来にスウィングしてしつこさになれ合う感じになるのですが、ここではさっぱりと加速し、解説によるとオーランドーのモデルとなった一族の時間の流れでもあったようです。

てな感じで、意外なところにマジック・リアリズムが潜んでいたものだと小説のおもしろさを改めて感じました。マジック・リアリズムじゃないけど、伝記作者が出てきてうまいつっこみを入れるというのは、『ドン・キホーテ』ぽいメタ小説としてもおもしろい。印象としてはティプトリーが一番近いかもしれません。

2006年02月12日

アゴタ・クリストフ『ふたりの証拠』(ハヤカワepi文庫)

ふたりの証拠
ふたりの証拠
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アゴタ クリストフ Agota Kristof 堀 茂樹
早川書房
売り上げランキング: 9,265

まだ学生で小説のおもしろさが分かっていなかった頃に、『悪童日記』を読んでイギリスあたりのおっさんが書いたのかと思っていたものです。当時のまったく小説から遠ざかっていて文章が読めない、深く読みとることができなかった頃ですら、『悪童日記』は読みやすくおもしろかったという記憶が残っています。それはあとがきで引用されている「少年の裸体に似て無駄のない簡潔さ」という評のとおり。もしかすると、ハンガリーの共産主義を経験した作者は、人生は政府という偶然に支配されるただの駒でしかないという思想が背景にあるのかもしれない。それゆえに個人に特徴などは不要であり、人々が翻弄されている情景を諦観の境地で眺め、水墨画のようなシンプルな筆致で書けるのでしょうか。

さて、『ふたりの証拠』は結論からいうと、ディストピアものやロシアSFに反応する人は必読。また、フォントが大きくて文章自体は短いので大変読みやすいので、いろんな人に勧めやすい。だてに日本でブームがあったわけではありませんね。

物語の背景自体が不条理なんで、カフカに近いと言ってもあまり意味ないかな。国もとなりですし。ハンガリーについてはwikipediaのハンガリーハンガリー動乱を読むと勉強になります。関係ないけど、共産主義を背景とした残雪とかロシアSFを読むとき、なんとなく空が曇っているような印象があります。「グッバイ、レーニン!」は無機質なビルの谷間からはきれいな青空が見えたし、共産主義の国がいつもいつも曇天なわけはないんですが。曇天の空に圧迫されている人々を比喩的に見てしまっているのかもしれません。

この小説ではハンガリーが舞台とは明記されていませんが、舞台はある戦争後に革命軍に支配されています。焚書などの思想統制があって、反革命的なふるまいは厳罰に処されるような緊迫感のある土地。そこに住むリュカという少年とその周囲の人々との物語。リュカは政府の命令で捨てられそうになっている本を読もうとしついでに司書さんと仲良くなったり、無理心中しようとする親子を助けて子供だけを自分のものにしたりする、明確な悪意はないけどしたたかで利己的な人物。だが、最後まで彼の目的や自分のノートにつづった内容は分からずに謎めいたままです。

リュカの行動が中心になるけれども、周囲の人々はいかにも凡庸。小ずるく立ち回る公務員、書けない小説家兼書店員、政府に殺された夫が忘れられない司書、不眠症の隣人。リュカは少年の頃は誰からも好かれて万能だが、マティアスを自分の子としてからはまるで才能を吸い取られていくかのように、普通の大人になっていく。一方でマティアスは明晰さを手に入れても、むしろそれゆえに奇形である自分だけを愛してくれる人を探してしまう。

この中で特に「書くこと」がクローズアップされている。主人公のリュカは自分のノートを持ち、自己検閲しながら生き別れの兄弟クラウスのために何かを書き残している。司書クララからは、すでに書かれているけれども政府の命令で処分されそうになっている本を読ませてもらう。また、リュカが買うこととなる書店のヴィクトールは自分の小説を書こうとしており、リュカの息子となるマティアスも書き、それを焼く。おそらく著者自身がハンガリーで経験した「書くこと」の不自由さ、書けたとしても読めない、発表できないことの苦痛が背景にあるのではないでしょうか。

ところで、「何も書かなければ、人は無為に生きたことになる。地上を通りすぎただけで痕跡を残さずに終わるのだから。」(P.166)ってどこかで聞いたことある言い回しなんだけど思い出せない。誰でも言いそうなことなんだけど、この文章をそのまま見た覚えがあるのです。国書の『世界 ×現在×文学 作家ファイル』で引用されていたんだっけ?

2006年02月26日

イスマイル・カダレ『夢宮殿』(東京創元社)

夢宮殿
夢宮殿
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イスマイル カダレ Isma¨il Kadar´e 村上 光彦
東京創元社
売り上げランキング: 924,606

イスマイル・カダレは1936年アルバニア生まれ。アルバニアは海を挟んでイタリアの東側、ギリシアの北西に位置しています。また、社会主義国家だったことや20世紀末のネズミ講などもあって、経済的にはそれほど裕福でもないもよう。アルバニアってアルメニアぽいし、リトアニアやラトビアとでバルト3国と言われているところだと思っていたのに、こんな南にあるなんてがっかりだ(言いがかり)。この作家を知ったのも『世界 ×現在×文学 作家ファイル』。トルコの支配が長かったらしいので、ラシュディのようなイスラム圏のマジック・リアリズムを期待していざいざ。

一人のぼんやりした成年マルク=アレムが「夢宮殿」の職員になる。「夢宮殿」では人々の夢を集めてよりわけ、国の役に立つ予知夢を探し出している。<選別>課、<解釈>課などの部署に分かれて膨大な人々が夢に取り組んでいるのだ。マルク=アレムは新人としては珍しく<受理>課に配属された。それは彼の一族が関係しており、やがて彼の加入が「夢宮殿」はもとより政治にも大きく関わることになる。

わたしは他の国の文学にはそこでしか生まれ得ない独特なものを期待している。莫言は中国生まれのマジック・リアリズムとしてグログロのゴテゴテだし、コルタサルはアルゼンチン生まれでフランスに住みジャズ大好きですごく粋な感じ。世界のあらゆる場所に住む作家が持つそれぞれの個性と環境との組み合わせから生まれる非現実感が読みたいのだ。そういう意味ではアルバニアを一応は舞台にしている『夢宮殿』からアルバニアらしさというのは感じられなかった。「夢を集める」というテーマが最後には主人公と彼の一族に災いと出世をもたらすのだけれども、アルバニアがほんとに夢集めてるわけじゃないだろうし、アルバニアらしさというのが伝わってこない。社会主義国だけどやっぱり裏ではコネが出世にはものを言うのだな、くらいか。何よりもわたし自身にアルバニアの知識がないことが問題。ボルヘス読む前からアルゼンチンはタンゴの国のような、国に対する漠然としたイメージすらアルバニアにはないので、とっかかりがない。だが、自分で「アルバニアらしさ」とは何か、まったく思いつかないので、現地の人やある程度アルバニアの知識がある人ならばリアリズム、風刺の感覚がつかめるのかもしれません。

とはいえ、物語自体は夢を集める国の機関が首長であるところのスルタンに重要な夢を提出し、それを国政に反映させるという1点だけでも十分ディストピアなファンタジーとして読めるわけですが、そこからもう一歩進んだおもしろさ、悲しさ、シュールさみたいなものが欲しかった。主人公はおどおどしてるうちに一族の謎に巻き込まれていつの間にか出世しちゃって、読み終えても感動レベルには至りませんでした。

2006年04月21日

E・M・フォースター『天使も踏むを恐れるところ』(白水社)

天使も踏むを恐れるところ
E.M. フォースター E.M. Forster 中野 康司
白水社
売り上げランキング: 113,621

まずタイトルがいい。解説によると西洋の慣用句とのことだけど、「天使も・踏むを・恐れるところ」と日本語のリズムもよく、イメージをかきたてられる。はてさてその舞台はどんなに恐ろしいところなのか。

舞台は19世紀のイギリスとイタリア。イギリスの貴族階級から一人の未亡人リリアがイタリア旅行に出かける場面からはじまる。イギリスの貴族一家のドンたるおばばが口では「身体に気をつけて」などと励ましの声をかけるも、裏では奔放な女がいなくなってせいせいしている描写が続き、その表裏の激しさは関東人がイメージする京都の老舗呉服問屋。

旅行先のイタリアは自由な気質、おおらかな土地柄で、リリアはすっかり土地の水が合い、地元民と結婚することになる。ところがイギリスではたとえ一族の邪魔者であっても田舎者との結婚には大反対。貴族の家とつりあわない家柄など許さないというわけで、説得部隊が派遣される。

日本でいえばさしづめ京都と東京の結婚みたいなものか。イギリス人の小説だけあって食べ物の描写はほとんどないが(イタリア料理について「悪臭漂う」と形容するくらいの味音痴だ)、生活習慣のちがいをいちいちあげつらって皮肉る話。おしゃべりの耐えないオペラハウスにイギリス人が耐えられなくなって出て行ってしまうところなどはくすくすと笑ってしまう。物語は死人も出て、あらすじだけなら異文化を受け入れられない偏狭さゆえの悲劇ともいえるだろう。イギリス人の偏狭さとイタリア人の野蛮さの対比にニヤニヤできます。

後半になると今度は男女間の認識のちがいをこっぴどく描き出し、「知的な」男の優柔不断ぶりを「教養のない」女が本人の意図していない方法で(天然なやり方で)がつんとへし折るあたりは見もの。それでいて男のほうは紳士的鈍感さをいかんなく発揮して友好的に分かれたがり、紳士のやせ我慢ぶりを発揮する。この辺も男の情けなさと虚勢ぷりにニヤニヤ。

全体に著者の意地悪さがほつほつと出てきて、そこを笑えたり悲しみの中でも底意地の悪さがにじみ出ており大変に好印象。特にドンたる婆様の悪だぬきぶりはたまらない。他人の愚痴をそ知らぬ顔して聞きながら心でニヤニヤできる人におすすめの一冊であります。

2006年05月07日

エイモス・チュツオーラ『甲羅男にカブト虫女』(筑摩書房)

甲羅男にカブト虫女
甲羅男にカブト虫女
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エイモス チュツオーラ Amos Tutuola 鴻巣 友季子
筑摩書房

チュツオーラはアフリカの作家で、晶文社から出ている『やし酒のみ』が有名ですが、筑摩書房や今は亡きトレヴィルからも数冊出していました。しかし今はどれも絶版。アフリカ文学日本語訳一覧さんによると1990年の作品で、タイトルが魅力的な『甲羅男にカブト虫女』を出かけるついでに読んでみましたが、見事に(悪い意味で)期待を裏切られました。

チェツオーラといえばわたしにとっては『文無し男と絶叫女と罵り男の物語』の熱狂的な無常観につきる。ほんとにタイトル通りの3人が「金ね〜」「ぎえーっ」「あほばかでぶしね」というアフリカならではの(?)からっとしたアホっぷりを堪能したものでした。日本やラテンアメリカだと妙にしめっぽくなったり現実的だったりするところをさらりとかわす軽妙さを期待していたのです。

しかし、このチュツオーラはどうしたことか。短編集という性格か、ちょっぴり不思議な土臭い民話に終始して、物語が持つはずの渦が見られない。あらすじは「王様への貢ぎ物を途中で投げ出したらカブト虫にされてしまった女と、元盗賊で悪逆三昧を働いた罰として亀にされた男が森で出会って結婚する」だけ。これが連作短編としてだらだら続く。ほんとにひねりのなさすぎるタイトルに唖然とし、こんな荒唐無稽な民話ならアフリカに限らずどこにでもあるだろうとがっくりきた。チュツオーラには常識で計りきれないアホな展開を望んでいるのだけど、あまりにも素朴すぎてまじめにアホをやるおもしろさが消えてしまっている。この後おもしろくなるのかもしれないけど、半分読んで投げることにしました。ぽいっ。

2006年06月03日

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(早川書房)

わたしを離さないで
わたしを離さないで
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カズオ イシグロ
早川書房

ここ100年の100冊に選ばれるなどとにかく前評判の高い一冊。次回読書部の課題図書として、2回くらいは読もうと思っての1回目。カズオ・イシグロって生まれは日本人だし「English is a mystical place」なんて言ってるから、「Lost in translation」英国版くらいに甘く見積もっていた。英国でとまどう日本人の視点を元にした、そこはかとなくリアルな小説みたいなもんか。そして今、己の甘い読みを深く反省している。

この本について語る言葉がまだ明確化していない。全体から受ける印象は穏やかな諦観。定められた運命に翻弄される人々。読者のわたしにとってはどこか風変わりなのだけど、一人称の語り手にとっては常識の世界。二つの視点から眺めることになる一つの世界には静かな穏やかさと、子犬がかけまわるような無邪気さ、そして明言されていないとても醜悪なものがある。

読んでいるとき脳裏には『アルジャーノン』がつきまとっていたけれど、Guardianでは比較としてマイケル・マーシャル・スミス『スペアーズ』があげられていたように、この本ならではの個性よりも、人間を使った実験についてのやや残酷さを含んだ過去の物語を思い出させるようです。これも物語の構成上語られない背後の世界を想像させるように書かれているので、そこに読者にとって近い物語がするりとおさまるようにできている。

読了後もずっと気になっているのが、「Never let me go」というタイトルは誰から誰への呼びかけなのだろうか。トミーからキャスへ? キャスから提供者の誰かへ? はたまた提供を受ける誰かの叫び? 「離さないで」とは言うけれども、この小説で生に執着する人物はいない。みな理由があって人生を閉じ、それを運命として受け入れているように見える。だとしたら残っている人物による「Never leave me alone」でないのはなぜか? そのへんは読書部で聞いてみたいと思います。

というわけで、第14回読書会カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』は7/1(土)に開催です。詳しくはmixiで。

2006年06月10日

カズオ・イシグロ『日の名残り』(中公文庫)

日の名残り
日の名残り
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カズオ イシグロ Kazuo Ishiguro 土屋 政雄
早川書房
売り上げランキング: 16,598

執事バカ一代記。恋も金にも目はくれぬ、あたしゃ主人の犬ざんす。自分の趣味とはちょっと離れた本だけれども、次回読書会の参考に読むには大変おもしろかった。

まず、語り口。一人称で(ボルヘス並みの)記憶を持った執事が、自分が仕えた主人とその当時の慌ただしさ、そして女中頭ミス・ケントンとの愛憎を回想する形式は、ほぼ『わたしを離さないで』に通じている。主観だからこそとらえきれない、それでも「あのときってもしかしてこうだったかも」という別のルートもぼんやり見える文章は、もうカズオ・イシグロの専売特許かもしれません。「志村、フラグ、フラグ!」とつっこみたくなるところを、執事のやんわりとした回想でやんわりとふさがれてしまうあたりはぼんやり突っ込みとして、若さと勢いでつっこむだけの芸人さんは見習うように。これが初老ならではのボケ・一人ツッコミですよ。

ミス・ケントンのツンデレぶりもなかなかのもの。メイドでツンデレというクラシックなスタイルを貫き通した彼女のソウル、しかと受け止めたっ。特にそれまでろくにとらなかった休みをとっているところを、執事で主人公のミスター・スティーヴンスに意見されたと思うあたりは胸キュン度高いです。

カズオ・イシグロの「言わずに世界の背景を読者に知らしめる」というスタイルは、「言わなくても通じる」と思っている日本人的な感性に近いような気がする。わたしの中の西洋人のイメージは「アイラブユー」「ジュテーム」「パルケエスパーニャ」と常に愛をささやき他人と密接なコミュニケーションをとっている。だけど、彼の世界ではみな接触が表面的で、結局のところ他人は分からないという諦観に結びつくような流れを感じるのです、まだ2冊しか読んでないけど。「言わずに通じる」「他人とは最終的に分かり合えない」という相反するようで強く他人を求める気持ちと甘えの同居した人々の動きは、端から見ているとなんとも歯がゆいものです。もっとがつがついこうぜ。ミスター・スティーヴンスは今の日本だったら非モテに分類されちゃいそうだから、もっと他人を興味を持つべきですよ、と自戒を込めて。

2006年07月02日

ジョルジュ・サンド 『愛の妖精』(岩波文庫)

愛の妖精
愛の妖精
posted with amazlet on 06.10.08
ジョルジュ サンド 宮崎 嶺雄 George Sand
岩波書店
売り上げランキング: 44,028

某nmnmさんから突きつけられた課題図書。表紙には扇情的な女性のイラスト。なまめかしいタイトルは、『愛の妖精』。

『愛の養成』だったらナベジュン的に愛をはぐくむのだな、と分かる。いけすに泳ぐ大量の愛にえさを放つような第一次産業ぽさが残るが、愛を育てる真摯さには変わらないだろう。類似語に「愛工場」があります。なぜかカブをひっこぬいて投げつけたり、する。

『愛の要請』だともうちょっと軍事系の香りが漂う。
「ランドリー軍がきたぞ〜」
ガラッ
「徴発だ。全員持ち合わせているだけの愛を出せ。これはランドリー国王による愛の要請であるっ。」
こうなったらもうありったけの愛を出すしかない。村によっては愛が足りないとかで看板娘が連れて行かれちゃったりする。これを略奪愛という。

だが、『愛の妖精』と言われたら、つかもうとしてもつかみきれない好きな人、といういかにもありきたりなところに落ち着いてしまう。もう「愛の妖精」という言葉はそれくらいありきたりな言葉だ。辞書のエロワードだけでハァハァできるのは学生まで、みたいなことが大きな文学の歴史でも起こっている感じ。

中身のほうは、メガネをかけた冴えない女の子が外すと美人になるドリーム+タッチ、タッチ、ここにタッチ。達也と和也の立場が逆ですが、ほんとにタッチしちゃうところが見どころです。BGMはサイモンとガーファンクルでライラライにおねがいします。

2006年07月08日

第14回読書部カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』

わたしを離さないで
わたしを離さないで
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カズオ イシグロ
早川書房

読書部のページはこちら。参加者はほとんどのみなさんがmixi内で感想を書いてらっしゃるようです。

まずは前哨戦として全員の感想を聞く時間。
・原文ではdonorだが、それを日本語として通用している「ドナー」ではなく、「提供者」と訳していること→日本語の「ドナー」が持つ具体性より漠然とした印象。名訳。
・他の作品から受けるイメージとはやや異なるが、最後がおとなしくてやや拍子抜け
・『日の名残り』と同じ語りの構造
・登場人物に迷いがない、心が動かないために先を読む楽しみが少ない
・非現実的な設定で全体像がつかめない
・1/5くらいから急におもしろくなった
・「生まれついての諦めぶり」へのいらだち
・誰に向かって語っているのか?
・SFとしては全然目新しいところがない
・だがうまい
・クローンという設定にしては自然な人物像
・何が起こっているか分からないというのはアニメや映画では無理で、小説でしかできない内容
T・H・クックに近いところがある
・抑制の利いた文章
・これだけ世界を作り込んでいるのに、書かれていることはガキの三角関係
・実はカズオ・イシグロの本は全て「提供者」ものの歴史であり、『日の名残り』の後にパラレルワールドとして『わたしを離さないで』が来る
・過去の美しさと残酷さが対比された美しい構成
・提供者を育てる保護官の視点で読んだ
・藤子・F・不二雄「ミノタウロスの皿」
・登場人物がロボットか宇宙人でもおかしくない
・実はキャシー・Hは他にキャシー・A、キャシー・B…と続く、かも
・登場人物のあきらめぶりは生来の能力がカットされた結果
・解釈の余地がたっぷり残されて読者ごとにちがった感想を持つことができる

という意見があがりました。19人もいると感想だけで1時間かかることが分かったのは運営側の発見です。やっぱりこれくらいの人数が限界です。

その後のフリーディスカッションは通常の読書会よりも活発に意見が交わされたのは、個人の読み方によって意見が分かれやすい内容ということもあり、参加者がSF方面だけに偏らずミステリや翻訳小説をほとんど読まない方までいて、意見もある方向に流れすぎなかったと思います。

とはいえ、SFの方からは上でもあげているように、「カズオ・イシグロ ヘールシャムサーガ」という画期的な意見が出されたりもしました。書記のわたし自身は『日の名残り』と本作しか読んでいないので、はたしてカズオ・イシグロの残りの3作がどのようにヘールシャムサーガにかかわるかはよく分かっていないのですが、興味がある人は他の作品にも同じようにクローンが出てくる、という視点で読んでみてはどうでしょうか。

主人公たちがクローンで感情的にはなるものの、大きなところで反抗しないのは生得的にしろ後天的な教育によるものにしろ、「去勢されている」ゆえの行動という読み方がありました。一人称なので明確な理由は書かれていませんが、森を病的に怖がることなどに理由があるかもしれません。また、トミーが幼い頃に癇癪持ちなのも、去勢が徹底されていない状況にあるため、という意見がありました。

読者はキャスの視点を通してしか作品世界を見ることができません。「信頼できない語り手」による一人称については、
-実は他の生徒たちが図工などを作り、トミーが入院しても魚の絵を描いていたように、キャスにとっての展示館を目指す作品だったのかもしれない
-ルースに対する悪意がそこはかとなく顔を出しており、読者はキャスの純愛として読む

ここで初めての試みとして、読書会の中でアンケートをとりました。「あらかじめSF要素があると知って読んだ」「SFぽさについては知らずに読んだ」人を比較したところ13:6という数字で、SFマガジンなどでの評で読んだSFの人たちは読み始めてすぐにどういう展開か見抜いていたようす。こういうアンケートは問題を単純化してしまうかもしれないけど、話題の提供としては議論の中に緩さを提供するという意味で有益だと思いました。

もう一つアンケートとして、キャスが2週間ほど待ってからルースにもの申す場面があります(P.74の販売台帳の話だっけ?)が、自分がキャスと同じ年頃(12〜14歳)で同じように一つのことを考え続けて時間をおいてから意見するようなことがあったか?というものでした。その頃の子供ならもっと直情的に自分の言いたいことをその場で言ってしまうのではないか、という疑問が発端です。結果は、待つ人6:待たない人13で男女比もほぼ同じ。

読書会で最も参加者に影響を与えたのは「イギリスは階層社会なので、執筆背景にも表れている」のではないか、という意見でした。『日の名残り』の執事と主人、イギリス人の主人とアメリカ人の主人という対比もあります。この作品ではヘールシャムをはじめとしたクローンたちが提供者と介護人の両方を担当するが、クローンでない人間がそれらを担当している描写や気配はありません。同じ階層同士で固まる傾向が見られるため、クローン以外の人間については保護官とポシブルくらいしか描写がなく、また、保護官たちがヘールシャムを作り結果的には頓挫してしまったことも、階層のちがいを明確にしたいという社会の意向がぼんやりと浮かび上がっている、と話が展開しました。

今回は2次会、3次会でも話題が続いていたそうで(わたしはいつものように泥酔しており、トロール船の話くらいしか覚えておりませぬ……)、参加者の方には満足していただけたと思います。『百年の孤独』のように無敵の名作を選ぶよりも、新しくてちょっと隙のある本の方が語り合うには向いているかもしれない、と一週間後に考えたりしています。ともあれ、参加者のみなさまおつかれさまでした。

2006年08月24日

サガン『ブラームスはお好き』(新潮文庫)

ブラームスはお好き
ブラームスはお好き
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フランソワーズ サガン 朝吹 登水子 Francoise Sagan
新潮社
売り上げランキング: 29,092

BGMはハイフェッツのバイオリン協奏曲でしたが、作中では「オーケストラが勢いよくはじまったとき」とあるので、二人が聞きにいったのはピアノ協奏曲だったのですね。わたしはセレナーデが好きですわ。

それにしてもフランス人は愚かだな。気持ちばかり若いわたしは、ツバメであるところのシモンに思い入れを持って読んでいましたが、まあ、なんと救いのない話でしょうか。

中年を迎える女が感じる不安や倦怠の一方で、若いイケメンに情熱を捧げられる歓びもあり、いつかその情熱が途切れるときの恐怖もないまぜで、そんなに忙しくては当の男は複雑すぎてついていけませんよ。楽しいだけじゃダメですか?

目の前の歓び/寂しさと将来の不安/安心をてんびんにかけて、将来を選んでしまうのが大人の悪いところだと思いました。そのへん、一人でうまく需要と供給ができれば世はなべて泰平ならむ。

2006年08月27日

トルーマン・カポーティ『冷血』(新潮文庫)

冷血
冷血
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トルーマン カポーティ Truman Capote 佐々田 雅子
新潮社

1年たたずに文庫化する新潮社さんは冷血だなあ。

ルポルタージュは事実を告知する。それはニュースよりも「現実にあったこと」の描写を目的として、全体に文章も長いものになるだろう。それは単にあった事実を概念的に報告するだけでなく、実際の行動、言動を絵画的に描写することが目的であるからだ。つまり事件の模倣、繰りかえし再生できるカセットやビデオテープのような再現性を文章で目指したものだ。この『冷血』は単に事件の描写というわけではない。殺された被害者たちは死ぬまでの時間は当然生きており、話もすれば次の日以降の予定も組み、恋人とちょっとした仲違いもしていた。それまでの事件自体に着目したルポルタージュとは異なり、より人に近づこうとした文章になっている。

それは加害者の側でより顕著になる。おそらく、それまでの事件記事で、被害者がどんな人物かを描写した視点はあっても、加害者がどのような人生を歩んできたかをクローズアップしたものはそれほどなかったのではないか。あったとしてもそれは歴史的な事件を背景に持つ、歴史書という形をとっていた。この『冷血』のおもしろいところは、事件の発生から一介のならず者である加害者にアプローチして彼らの処刑=死までを描くことに密着していること。それが唯一の事件の真相を描く手がかりだから。

ところで、この秋に日本で公開される映画では『冷血』を執筆しているときのカポーティ自身が描かれている。160cmに満たない低い身長、同性愛、甲高い声、どれをとってもいわゆる「男らしさ」と無縁の姿がクローズアップされている(特にフィリップ・シーモア・ホフマンのアカデミー賞候補について取りざたされている)が、実は『冷血』の取材にあたって、カポーティは自分の名声を利用して、かなり仁義にもとるふるまいをとっていたらしい。当初は世間へのなじめなさをスミスに託して、教育を受けていないけれどもアウトローとしてとてもクレバーな人物として描いている。しかし、取材の後半になるとペリーがカポーティに会おうとしても決して「コーナー」に足を向けることはなく、カポーティ自身も精神の均衡を崩してドラッグ、アルコールにおぼれていく、話らしい。

それはなぜか。実は、『冷血』の登場人物のうち、事件の段階で被害者は少なくとも全員死んでいるし、加害者の二人も1965年に処刑されている。つまり、1966年に『冷血』が出版された段階で、被害者と加害者の会話についてはすでに検証ができない状況だ。ありていにいうと、クラッター家とペリー、ヒコックの発した言葉についてはカポーティの創作である可能性もあるということ。この本の驚きの一つとして、現場の情報を正確に伝えるというルポルタージュに、「なかったかもしれないこと」を織り込むこともあったにちがいない。

しかし、世界はそれを受け入れた。一家殺人というゴシップの内情をこれでもかと暴きだしている本作は、新しいルポルタージュの始まりであると同時に、人間のどこまでも不謹慎な好奇心を満たし、ひいては作者本人にはねかえってくるゴシップ記事となった。その後、「新ジャーナリズム」という形式にひきつがれ、おそらくはガルシア=マルケスのジャーナリズム的作品『幸福な無名時代』『戒厳令下チリ潜入記』「大佐に手紙は来ない(『ママ・グランデの葬儀』所収)」(わたしは読んでいない『悪い時』なども)や、やはり実際の事件を元にした『予告された殺人の記録』に影響を与えたのでしょう。カポーティに興味はありませんでしたが、意外なところで自分の興味とつながっていたということで、非常に収穫のある読書でした。昨今毒にも薬にもならない器の小さいフィクションが多い中、内容も、その位置づけも「フィクションでした」の一言で片付けられない作品だと思います。

2006年09月22日

ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』(白水社)

フロベールの鸚鵡
フロベールの鸚鵡
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ジュリアン バーンズ Julian Barnes 斎藤 昌三
白水社
売り上げランキング: 106,501

読んでから感想を書くまでしばらくかかった。自分の期待と物語が大きくちがっていたことのショックが大きく、読了までそれをひきずったのが評価の低さにつながっている。

一番の問題はわたしにフロベールという対象への興味がないどころか、小説家、文学者全般にあまり興味をもてないところだ。小説家、文学者には人としての親近感が持てず、どこか自分とはかかわりのない人という認識がこびりついて落ちない。だから書店などで行われるサイン会なども積極的な興味はない。講演会などは別で、聞くのは楽しいしおもしろいのだけど。

文学者への嫉妬から来る無視、嫌悪ということも考えてみたが、たとえば無条件に尊敬するNBAやNFLのスポーツ選手、またはミュージシャン(特にプログレ系)であったとしても人物を掘り下げる研究までには興味が至らない。性別が男女どちらでもいっしょ。このあたり、わたしにはミーハー成分が欠如していると言えるだろうし、それはわたしの愛の薄さに基づくものかもしれない、とここではとどめておく。

本書ではフロベール研究家の語り手によって、フロベールが手元に置いていた鸚鵡の真贋を調べるところから始まり、やがてフロベール研究書の形をとりながら、語り手の身辺が明かされていく。ちょっと度の過ぎた本オタクの過剰な語り、研究結果を楽しめるかが肝。わたしはちょっとチャンネルが合わなかったので、再読する機会があったらそれまでにフロベールを読んでおきたい。

ちなみにバルガス・リョサにもフロベール論があるという(『果てしなき饗宴』(筑摩書房)from池澤夏樹による書評)

なんとも覇気がない小説だと憤慨していたところ、まったく異なる方面から解読のヒントを得たような気がします。

辻邦生、水村美苗『手紙、栞を添えて』という美しいタイトルの文庫本で、雑誌での交換書簡をまとめたもの。ここでもフロベールが取り上げられており、辻氏は

生命的であることを否定するこの作家

と言い、水村氏は上品ながらも否定的な見解で、

小説として圧倒されることはされるのです。(中略)本を閉じる時、涙すら浮かびます。ただ、その悲しさはやがて活力となって心を癒してくれる悲しさではない。

と、二人ともどこか人間を描く純粋な文学と異なっているという見方を持っているようです。

フロベールマニアの語り手は医者という生命を司る仕事につきながら、もう定年を超えて自らの寿命を数える年になっており、その妻はゆえあって行方不明となっている。「明日はこれをしよう」というささやかな予定や小さな希望すらない。単に生命維持装置としての自分が動き続ける理由として、長年にわたって社会的な地位を築いてきた医者という職務ではなく、フロベールマニアであることを選んだのです。その語り手の気持ちは、まだまだ死に向かいきれていないわたしにはついていけなくても当然なのかもしれません。

いずれにしても、本書はフロベールを読んでからでなければ本当のおもしろさは分からないのではないか、と自分に言い聞かせて本棚にしまうことにいたしましょう。

2006年10月11日

パノス・カルネジス『石の葬式』(白水社)

石の葬式
石の葬式
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パノス カルネジス Panos Karnezis 岩本 正恵
白水社

読書部第16回の課題図書をさっそく読んでしまいました。あまり早く読むと読書会までに興味をなくしてしまうことがあるのですが、この本については杞憂だと思いたい。

ギリシアのマジック・リアリズムという売り文句では、世界中のマジック・リアリズムに興味のあるわたしが見逃すわけにはいきません。ここでマジック・リアリズムの条件についてわたしなりの認識を書いておくと、

・あくまでもリアリズムを基調とした小説
・その中に世界観を壊さない、または世界観を作り出す幻想的な事象が起こる、または幻想的な事象が前提となっていること
・神話、民話をベースとした物語が「多い」
・読みやすい

正直に言って、日本に住んで飛行機に乗ったことのないわたしにとって、他国のリアリズムは想像の範囲を出ない。また、日本国内でさえも、江戸以前の歌舞伎や能の物語が現実感を保ったまま消化できるかというと、とてもできていないと思う。落研にいたからといって、吉原ときいてきちんと研究、勉強している人はもとより、時代小説を読む人ほどにも実態を想像することはできていない。それでも、吉原には遊女がいて、今の風俗産業とはちがい粋な遊びをしにいくところというくらいの認識はある。リアルさを実感するためには人それぞれ手がかりはちがうので、マジック・リアリズムについては今でも明確な概念ができあがっていない。むしろ消去法として、「ファンタジーとしては現実ぽい」「一般の小説/文学としてはファンタジー要素がある」というように、「なんとなく、マジック・リアリズム」という全体の印象を指す言葉でいいのではないでしょうか。

マジック・リアリズムもさることながら、本作で見るべきなのは登場人物の生々しい感情の表れです。ギリシアの文学というとまっさきに古代の神話が思い出されますが、最近のギリシアの小説についてはほとんど情報がないように思います。ギリシア自体もオリンピックがあったくらいで、実はあまりなじみがないことに気づきました。ギリシアというと、わたしのいろんなネタ元である成田美名子に『ALEXANDRITE』という傑作漫画があります。空手と柔道を学びながらNYの大学に通い、ギリシア人の血が流れる青年(アレックス)が主人公で、作中でアメリカからギリシアに自分のルーツを探しに出る。アレックスが生まれた頃、ギリシアでは革命が起きて実の父親は政治活動のためアメリカを離れてしまったため、アレックスの父親は消息不明という設定だ。そこで描かれるギリシア人は、陽気だが自身の正しさのためには血を見る戦いも辞さない。切羽詰まった状況でも笑いを忘れずに前進するそうです(「カリパリ」「ケフィ」)。アホなところもあるけれど、強くて前向きというイメージをギリシア人には抱いていたのです。

ところが、本書のに出てくるギリシア人はとにかくダメ。小心者でペシミストの駅長、頑固でクレイジーな神父(「汝、癒えんことを願うか」では真っ赤になって大活躍)、抜け目なく金儲けだけが生き甲斐の地主などなど、キャラクターが豊富で直情的。それぞれは生きる気力がまったくないか、ものすごく間違った方向に使われている。皮肉と黒いユーモアが貧しい村にどんよりと覆いかかっている。それでも笑う余地があるところがメヒコの『燃える平原』とはちがうところか。それとも歴史のちがいかもしれない。

それぞれの短編はゆるくつながっており、ところどころにギリシア神話のモチーフが髀肉を交えて使われている。現代版イカロスを描いた「応用航空学」、常人にはつかまえられない「ペガサス号の一日」、直にケンタウロスが出てきてしまう「サーカスの呼びもの」などなど。なかでも表題作は他の作品より若干長く、重さと笑いのロードムービーという感じでぜひ映画化してもらいたい。

作者のパノス・カルネジスはギリシアに生まれ、成人してからイギリスで工学を学んだそうです。BBCではラジオドラマを作ったようで、動画でインタビューが公開されています。どこまで聞き取れるか分かりませんが、わたしもこれから聞いてみます。海外ではチェホフ、アンジェラ・カーター、カルヴィーノ、ヘレン・シンプソンらと比べられるほど好評のようで、なにくわぬ顔で意外な物語を紡ぎだす力量は、さすがWhitbread賞の選考に残っただけはあります。トルコとアナトリアの戦争を描いた長編『The Maze』もぜひ訳されてほしい。

2006年11月11日

テネシー・ウィリアムズ『ガラスの動物園』(新潮文庫)

ガラスの動物園
ガラスの動物園
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テネシー ウィリアムズ 小田島 雄志
新潮社
売り上げランキング: 101961

元演劇部のくせに戯曲が苦手で、これが演出家にあこがれてもなれなかった理由なのだが、脚本から絵を描く訓練ができていないのだ。そこまで徹底して読み込む必要はないのだけれど、書かれていることが要求することは全部満たしたいくせに、面倒になってやめてしまう中途半端な完全主義者(矛盾)にとっては、これだけ薄い戯曲でもなかなかの難敵です。

本書の名前を初めて耳にしたのは毎度のごとく橋本治『青春つーのはなに?』(名著!)でありまして、「男の子はシリトー『長距離走者の孤独』を、女の子は『ガラスの動物園』を読むべし」と書かれており、高校生のわたしは早速『長距離走者の孤独』を読んで、「マラソンて大変だなー」とアホの子らしい感想を抱いたものでした。でも、そのときに『ガラスの動物園』は読まなかった。本を探索する能力が貧しかったせいもあるけれど、本当の理由は「女の子じゃないから別にいいや」という無関心だったと思う。それから十数年たって読むことになったわけです。はたして「女の子必読の書」とはどのようなものなのか。

父親不在で母、姉、弟で暮らす一家。母はおばさん、姉はひきこもり、弟は反抗期。姉の大切にしていたガラスの動物はユニコーンだった。

おばさんはいわばじゃんけんの「グー」です。かたくなに自分の主張を曲げず、他人の意見や立場を鑑みない。

ひきこもりの姉は、自分を切り裂く「チョキ」。内向的で自信をもてない彼女はあらゆる希望を実現する前に切り刻んでしまう。

反抗期の弟は名実ともに「パー」。しがない工場で働きながらも都会に出て一旗上げる夢を持ち続けるも、現在の自分を認めたくないあまりあれこれ八つ当たりする。

女の子としては当然姉の立場にある程度の思い入れを抱いて読むのかもしれませんが、この年になると母の立場だって実はそう遠くない。それでもフィクションという性格上、母は「障害」であり「なれのはて」として描かれているものを素直に読み取ってしまう。なるほど、ガラスの動物園にひきこもっている姉も、近い将来「グー」になってしまう恐ろしさ、また今いる動物園がこわれやすいものということを意識しておくことは確かに大切なのかも。

この本でもっともおそろしいのは、3人のそれぞれが他人の言うことを聞こうとせず、自分の主張だけを通していること。おばさんもひきこもりも反抗期も、みなそれぞれ自分のやりたいことだけを主張し、それがほかの家族に受け入れられないを嘆き、怒ります。ディスコミュニケーションの極みここにあり。

ま、そんなこんなもみんな金がないのが悪いんや、と。

2006年11月23日

ジム・ダッジ『ゴーストと旅すれば』(福武書店)

ゴーストと旅すれば
ゴーストと旅すれば
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ジム ダッジ 日暮 雅通
福武書店
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「ロードノベル」ともいうべき、トラック(レッカー車乗りでほとんどキャデラックを乗り回していますが)野郎の一代妄想記。ケルアック『路上』ライクにどちらかというと西海岸を中心に暴走します。

うまいなと思ったのが、物語の導入部で、事故った主人公のところに頼んでもいないレッカー車がやってきて、そのレッカー車を運転している「ゴースト」がこれまでの人生を語るという二重の物語性を持っているところ。しかし、このおかげでラストは微妙に構成がゆるくなってしまい、尻すぼみ感は否めません。

ボルヘスも真っ青な記憶力を誇るゴーストの語りは、自虐的でありながらドラッグでハイになった楽観も持ち合わせている。麻雀漬けだった西原理恵子がレッカー車乗りだったらこんな感じかもしれません。ゴーストはとある阿呆な目的のためにキャデラックを乗り回しているのですが、DV被害者の母親、マッドフィロソファー、黒人牧師などをヒッチハイクする。旅は道連れ世は情。一人でラリりながらかっとばしていても物語にはならないが、ドラッグの副産物のように見えるユニークな同乗者の数々はページをめくる手を止めません。特に黒人牧師のダブルゴーン・ジョンソンはスパイク・リーの映画で叫んでいそうな逸材。彼のナイス説教をちょっと引用します。

すると、突然そこへ―—ドーン!――神の大声が嵐とともにやってきて、神自身が姿を現した。神がヨブとそのダチたちに向かって言ったのは、こんなことだ。
『おれが神だ!(略)』

『路上』の自棄は脱出しようがない現実との鬩ぎあいに終始しますが、本書はもっと現実とタフに向かい合い、人の対話を通して変化していくところに魅力がある。それは作中のBGMもそうで、街でくすぶっている頃に聴いたジャズのスポンテニアスさから、路上に出てロックのコマーシャリズムにゴーストの趣味が変わっていくところにも出ています。音だけではなく、言葉を歌い上げるロックを轟音でかけながらキャデラックを飛ばしていく。その先にあるくだらなくもロマンチックな目標目指して。

走り続けることの虚無感と高揚感をドラッグと共にかけぬけますが、『裸のランチ』をはじめとした読者置いてきぼりのシュールレアリズムに堕することなく、ロマンを抱えたままで現実のおかしな、だけども愛すべき点を描き出す希有な名作。かなり笑えます。

2006年11月24日

ウィリアム・バロウズ『内なるネコ』(河出書房新社)

内なるネコ
内なるネコ
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ウィリアム バロウズ William Burroughs 山形 浩生
河出書房新社
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ネコ大好きなバロウズ爺ちゃんの屈折自伝らしいですが、わたしには猫大好き爺ちゃんの猫大好き日記にしか読めませんでしたネコ大好き。

ネコ嫌いは、醜く、愚かで粗野な偏屈な精神のあらわれだ。そんな醜い霊とは妥協することはない。

そうだそうだ、もっと言ってやれよ爺ちゃん。

ネコとはわたしにとって、滅びゆく種への最後の生きた結びつきなのだ。

大島先生も猫は進化の成れの果てとも、猫はあいさつに便利とも言っておりました。

うなる風と雪。老人が、自分の家の残骸でつくった即席の掘っ立て小屋で、破れた羽根ぶとん、穴だらけの毛布、汚れた絨毯の中でうずくまる。ネコたちといっしょに。

ここにわたしの未来がある。決していいものじゃないけれど、猫だけは裏切らないし、裏切ってはいけない。人間社会にいまいちなじめないわたしの最後の砦は、実はバロウズと共有しているのかもしれないと思うとちょっといい気分になります。

バロウズの書物を読み解こうとするならすばらしい解説書がたくさん出ていますが、バロウズのようなカットアップや詩のような文章は、正しい読解を目指すよりも、自分にとってどうその文章が作用するのかを突き詰めた方が有益に感じます。正しさなんて学問の徒にまかせるべきで、多くの読書愛好家はすべからくおのれの未知なる道を進むべし。誤読など気にせずに猫大好きと叫びたい一冊でした。

2006年11月26日

第16回読書会パノス・カルネジス『石の葬式』

石の葬式
石の葬式
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パノス カルネジス Panos Karnezis 岩本 正恵
白水社
売り上げランキング: 203987

前回開催の9月から比べるとめっきり冷え込んだ都内某所にて「ギリシアのマジック・リアリズム」とうたわれた本書の読書会を開催しました(帯とはちがって「マジック・リアリズムではない」という意見が多かったですが)。参加人数は久しぶりに10人を下回りましたが、それでも会話は盛り上がりました。読書会に人数の多寡はあまり関係ないようです。

短編集ではありますが、作品によって他の短編と登場人物が同じものもあり、異なるものもあるということで、連作短編集とも言い切れないが全体として似通ったトーンがあるという指摘がありました。また、登場人物をメモしながら読むと、短編の時系列的な流れなどが見えるのではないかという意見もありましたが、村の戸数と人口の関係などから考えると数値などの正確さに作者はあまり気を使っていないようです。また、ギリシアの内戦も少なからず作品に影響があるだろうとも。

投票所の結果どおり、会場でも表題作が一番人気。双子というモチーフがアゴタ・クリストフ『悪童日記』にもあるように、特有の神秘さを生んでいるという印象がありました。

個別の短篇についてはいろいろありましたが、全体を通して「あったことを書かない」テクニックによって陰惨さが緩和され、幻想的な面が強調されるようです(「サーカスの呼びもの」でのケンタウロス、「冬の猟師」)。また、「冬の猟師」や「永遠の生命」は神父たちが出てくる話とは時代性が異なることから、村の過去の話なり連作短篇とは異なる位置づけという見解になりました。

また、男色の話がかなり隠されているところも読書会で共有された大きなポイントでした。場所は忘れてしまったので各自アンテナをはりめぐらせて読みあかしてみてください。

次回はちょっと保留として、その次3月10日のお題は『巨匠とマルガリータ』。集英社版でもなく、今一番入手しやすい群像社版でもなく、新たに郁朋社から発売される完訳版でご参加ください。悪漢と密偵さんによると、12月上旬発売予定だそうです。

2006年12月27日

ジャンニ・ロダーリ『猫とともに去りぬ』(光文社古典新訳文庫)

猫とともに去りぬ
猫とともに去りぬ
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ロダーリ 関口 英子
光文社
売り上げランキング: 45726

近所の図書館がシステム入れ替えなどでしばらく休館しており、わたしとしても散歩の口実が一つ減って大変難儀いたしました。図書館や古本屋というのは散歩の際にチェックポイントとなり、そこから更に先に進むか戻るかの再判断するための場所でもあるのです。短編集も1つのエピソードごとにここで本を置くかそれとも次も読んでしまうかを気にすることが多く、その結果読み進まずに投げ出した本も数知れず。一方でチェックポイントを気にしない本というのもあって、どんどん先が読みたくなるいい本というのがそれにあたり、この本もその中の一つ。

作者のロダーニは猫大好きで、さらにそのお父様にしては雨の日に子猫をかばったゆえに肺炎でなくなるというエピソードの持ち主(あとがきによる)。表題作はふつりと家を出た人がいつの間にか猫たんまりの公園で猫化してしまうというもの。小説にも猫大好き感があふれています。

絵本や児童文学でたまに出会ってびっくりするような思いつきのコミカルさ、ナンセンスが特徴。さすらいのピアニストはピアノと共に旅に出てどういうわけだかピアノも馬に乗っていたり、魚を釣るおまじないを成就するために時間を遡って改名したり、日本製のバイクと結婚したりしようとする。後半の「カルちゃん、カルロ〜」や「ピサの斜塔〜」になると素朴なSFテイストが入ってきます。カルヴィーノにも似た軽妙さがあり、オペラの国イタリアのほがらかな特徴と言ってしまっていいのかもしれません。

ところで今年新しく刊行されている光文社古典新訳文庫という企画については、正直なところ懐疑的な目で見ていました。本書はともかく、『リア王』やツルゲーネフ(この文庫ではトゥルゲーネフ)『初恋』などは従来たくさん訳されてきているので、新訳の必要性が実感できません。しかし、新訳という形で新刊が出ることは多くの読者にとって手に取る動機となりうることが最近ぼんやりと分かってきました。数多くの本が出版されてはいますが、一部の大書店を除くと手に取る機会があるのはほんの一握りで、まちまちと並べられている「その他の本」に入るまでの「新刊時間」というのは、食べ物に例えると旬の時期と考えればなるほどと納得できます。冬にもトマトは売っていますが、旬は夏であるように、本も出たそのときに読むのが最適なのかもしれません。

最後に一つだけ気になったのが、著者名表記で、本書の場合は「ロダーリ」となっています。これは日本でいったら「夏目」「芥川」で終わりなわけで、会話で略されるならともかく、書名の表記としては大変に違和感を覚えるものでした。

2006年12月31日

ガルシア=マルケス『コレラ時代の愛』(新潮社)

コレラの時代の愛
コレラの時代の愛
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ガブリエル・ガルシア=マルケス 木村 榮一
新潮社
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岩波書店から出ている『物語の作り方―ガルシア=マルケスのシナリオ教室』では、ガルシア=マルケスの発言にマジック・リアリズムという言葉はなかったように思う。マジック・リアリズムは元来ドイツの美術に対してつけられた総称を、アレッホ・カルペンティエールがラテンアメリカで生まれた現実と幻想の垣根を取り払ったようなラテンアメリカの小説につけたことが由来とされている。よって、ガルシア=マルケス自身からマジック・リアリズムという言葉が聞かれないのは決して不自然なことではないのだが、『シナリオ教室』ではテレビドラマのシナリオ教室ということで、いかに視聴者をひきつける脚本を書くか、ということにこだわり、小説的な仕掛けは不要と言い切っていたのが印象に残っている。ガルシア=マルケスが1960〜70年代に作り上げた小説の技巧をきれいにそぎ落として、一読して伝わる物語の重要性を解いており、その根源はルポルタージュらしい小説として社会的現象にまでなった『予告された殺人の記録』、そして髄まで恋愛小説でなりたっている本作を書いたところから導かれた言葉のような気がする。

本作『コレラ時代の愛』の構成はきわめてシンプル。美人で気の強い女性フェルミーナ・ダーサは、熱烈な手紙を出してきたが痩せて年寄りじみたフロレンティーノ・アリーサを選ばずに、性格外見社会的地位の3つを兼ね備えた医者フベナル・ウルビーノ博士を選んだ。しかし、ストーカー気質のあるフロレンティーノ・アリーサは帯にもあるように51年9ヵ月4日もの間待ち続けて再び告白する。

『百年の孤独』では登場する人物すべてに愚直なまでにスポットが当てられて生活感まるだしだったが、等しくスポットが当たったために一人一人の人生は駆け足で過ぎていった。逆に『族長の秋』では独裁者だけにスポットが当てられて他の人物は書き割りに過ぎなかったため、独裁者のやることなすこと(それがまたどれもひどい)を濃密に描き出した。本作ではスポットは上記3人のみに当てられ、結婚生活という集団生活と心の動きの両方ともにくっきり描かれて、それまでのガルシア=マルケスの小説よりバランスがとれていると言えそう。

従来とのちがいはマジック・リアリズム要素をすっぱり削ぎ落とされていることにも見える。最後に手品めいた大量のヒヨコが出てくるシーンがちらっとあるが、それくらい。しかし、語られる時間は恋に落ちた者の不安定さを象徴するかのように、過去に未来にスイングし続ける。それが安定するのは51年9ヵ月と4日たってからのこと。ここを時間の起点としているけれども、それぞれのエピソードがあたかも今起こっているように語られるために読者としては現実の時間がゆらいでいるように思われます。また、それぞれの時間を引き継ぐときのうまさは達人の技。なめらかな時間の流れこそが本作いちばんの見せ場と言えるでしょう。最後に出てくる船の旅のように、『コレラ時代の愛』という時間の波に揺れる船に乗り込み年末のひとときを過ごせたことは大変にしあわせでした。

★★★★☆

2007年01月08日

バタイユ『マダム・エドワルダ/目玉の話』(光文社古典新訳文庫)

マダム・エドワルダ/目玉の話
バタイユ 中条 省平
光文社
売り上げランキング: 36535

通らずに年を重ねてきたけれど、気になるジャンルというのは誰にでもあると思うのだけど、わたしにとってフランス文学というのはその最たるもので、高校時代に『赤と黒』、大学時代に『シュルリアリスム宣言』、カミュ『異邦人』を読んだきりぱったりと途絶えてしまっている。その3冊と書誌などからのイメージでは「エロ、自由への希求、哲学」の3点がセットになっているように思うが、なんとなくフランスというカテゴリができずらい。これは各人がおのおののエロ、自由、哲学を求めているせいなのかしら。

「マダム・エドワルダ」では不安に襲われた青年が娼婦館でマダム・エドワルダと知り合い、快楽に溺れる。マダム・エドワルダの独り舞台でよがったりなぐったり行きずりの運転手とことに及んだりする。ひとしきりの狂宴が終わると、語り手は興味をなくし無意味であることに不安を抱き、

私自身とこの何百万人もの人間、私たちの目覚めに意味があるのか? 隠された意味が? むろん隠された意味だ! しかし、なにごとにも意味がないというのなら、私がすることはむだだ。ごまかしごまかし後退するほかない。あきらめて無意味に身を売るほかない。私にとって、それは希望の名残ではなく、私を責め殺す死刑執行人なのだ。

いわゆる「生きる意味はあるのか?」という問いであり、それは単に脳内でもてあそぶものではなく、体感を通して生きる意味を実感している状態の永続を求めるものとしているようです。職業の成功や縁側でひなたぼっこする幸福ではなく、もっと純然たる「至高感」だけに限りすべての不安から解放された状況の永続こそが生きる意味であるという、かなりハードコアな思想に見受けられます。

一方「目玉の話」は暗黒青春小説として思春期に読んでおくべき傑作です。これぞフランス映画という無意味でありながら象徴的なシーンが心を打ちますが、それは彼らの変態行為で彩られた中のシーツの白(おもらしの染み付)、ピンクの肉から除く青い眼という嫌悪感と美しさを同時にもっています。ルイス・ブニュエルとの関係も知りたいところ。ともかく官能。電車で読んでいる自分もそれなりに変態かもしれないと、帰ってきて読了したときに気づきましたが、抑圧を解き放ち官能へ素直に身を任せることこそが「至高感」への第一歩と思い精進することにします。

★★★☆

2007年01月15日

ザシダワ/色波(ソーポー)『風馬(ルンタ)の耀き』(JICC出版局)

風馬(ルンタ)の耀き―新しいチベット文学
ザシダワ 色波 牧田 英二
JICC出版局
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チベットの文学と聞いただけでロマンチックだ。高い峰々に点々と暮らし、中国からの迫害を受けながら独自の文学を築いてきたのだろうかと思うと胸が高鳴る。虐げられた人々の小説は意外にも主観に堕さず、現実と幻想の狭間をかいくぐりながら荒れた大地を歩み続ける。本書はザシダワ(7編)と色波(ソーポー)(4編)二人の短編集で、あとがきによるとどちらもラテンアメリカ文学、それもボルヘスの影響を受けているという。ラテンアメリカはスペイン人によって原住民たちは一度自分たちの歴史を消去されて、西洋文明による新しい歴史を築くことになった。チベットも中国からの迫害で、同じように新しい歴史を作る羽目になっている。あとがきによると1959年のザシダワが生まれた年から始まった文革とその後の共産党政権による改革で、仏教寺院は2700→8、僧侶は114000人→800人にまで減少したといいます。現在ではチベットは自治区という扱いになってしまい、なんとGoogleマップでは表示されていないのです。中国によるチベットへの政策の是非についてはここではおきますが、深い歴史を持った文化が失われつつある状況であることにはまちがいがないようです。

本書の作者ザシダワも多くのチベット人同様にチベット語の読み書きができないようです。使っている言語は中国語だそうで、チベット内部でも「チベット語を使っていない文学をチベット文学とは認めん」などと頑迷な意見もあるようですが、これほどの傑作をチベット語が読める人だけに限定するのはもったいない。中国人を含めより多くの読者に読んでもらいたいというよりも、読まなければいけない切迫感と諦観、チベットの荒涼とした自然を描いた名作ぞろいの短編集です。

「コンチョルのあばた男ソナムリンチェン」に復讐するために町まで乗り込んできた青年が最後には同じあだなの男を殺してしまう表題作「風馬の耀き」では、一対一での復讐や、チベットにはあり得ない酒場の風景を幻視するなど、ボルヘスとの共通点が多く見られます。チベットにはひとつもないネオンサインの文字を明確に記憶し、裁判ではそれがきっかけで有罪となるシーンは、二つの現実の支配から抜けきれない男の悲しさがあり、ボルヘス「円鐶の廃墟」コルタサル「すべての火は火」にも通じる迷路の構造があります。それでいてなぜか世紀末覇者的に笑い去るキャラクターもいて、小説内の謎はまったく解決されません。このあたりが不安定でありながら確固とした世界観をもつ小説好きにはたまりません。

「世紀の招き」では友人の結婚式に出席するはずがなぜかウラシマ効果にまきこまれて老人になってしまい、結婚を挙げるはずの友人は逮捕されて投獄されようやく村に戻ってくるシーンで二人が再会するという話。政治的な視点から読むと、共産党に逮捕されなかったら平和に結婚して幸せに暮らしたはずの村人たちに襲った理不尽な弾圧を避難しているようにも読めますが、ここはウラシマ効果が小説の中で自然に発生するシュールさと友人の変化に素直に驚くべき。

一方の色波も同じチベットの作家ですが、こちらはボルヘスというよりもブルトンの『溶ける魚』クラスのシュールリアリズムで、ザシダワは物語として歩んでいくのに対して、色波は迷路の中でぐるぐると堂々巡りを続けているような感覚です。もしかすると『ガリヴァー旅行記』のようにチベット人にしか分からない現地のネタが盛り込まれているのかもしれませんが、そこまで読解するのは難しい。

ザシダワは『チベットの女』という映画の原作も手がけているようで、日本でもDVD化されているようです。これほどの幻想性と荒々しさを冷静な視点で描ける「チベットのボルヘス」をこのまま埋もれさせてしまうには惜しい。ぜひ他の作品の邦訳化を望むものです(短編は本書の訳者牧田英二さんが雑誌などに訳しているようです)。

チベットの女
チベットの女
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コロムビアミュージックエンタテインメント (2003/07/23)
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2007年01月21日

第17回読書会『ガリヴァー旅行記』レポ

ガリヴァー旅行記
ガリヴァー旅行記
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スウィフト Jonathan Swift 平井 正穂
岩波書店
売り上げランキング: 51260

第17回の読書会は計11名の方に参加していただき、無事に終了しました。年末に急遽課題図書を変更したにも関わらず、これほどの方に参加していただけるとは幸いです。また、それと共に、
・課題図書は長くても上下巻程度。3巻以上は壁が高すぎる。
という目安も見つかりました。当初は大西巨人『神聖喜劇』が課題図書になっていましたが、やはり5巻という長さは冬の雪山のように高くそびえて越えるのは難しかった。傑作のほまれは高くいつかは読むべき本だと思うのですが、現時点での読書部でそれだけの本を扱うことができるかという分量への課題が生まれたと思います。

さて、課題図書の『ガリヴァー旅行記』は1700年代にイギリスに生まれ後にはアイルランドの神父になるスウィフトによる当時の諷刺をモチーフにした作品で、多くの人は幼少時に小人の国ではりつけになるシーンは読むなり情報として知っているようではありました。しかし、本作は1編と2編は小人の国、巨人の国と対比させてありますが、3編の数学と音楽の国ラピュタ、4編の馬ユートピアなどはSF的であり哲学的な要素をふんだんに含み、表層的なファンタジーの世界から大きくはばたいています。しかしそれはイギリス固有のブラックユーモアも含み、「ギャグがきつい」という意見もみられました。下ねたはふんだんに使われ(特に2編の巨人の国)、赤ん坊を殺したりさえするのです。ちなみに子供用の本ではたいてい小人の国と巨人の国だけで終わっているのがほとんどだそうで、本書の神髄である3、4章もしっかり教えるべきだと思います。

最初は1編、2編が対比されて書かれているので、その両方について語ることになりました。脚注を見れば分かるように、諷刺が具体的すぎて21世紀の未来人としてはついていけません。そして書かれていることがたいてい元ネタとして以降の小説やまんが、映画などに使われているので新鮮味がないとも。そして、イギリス的な暗さと観察眼のはしりでもありそうです。

途中で本書に掲載されている地図の話題になりました。日本の場所がおかしいとか、日本海が「Sea of Corea」(!)になっているとか、アメリカにくっついた巨人の国の小ささなど。小人の国も巨人の国も、現実の世界から突然縮尺が変わってしまうのでそこだけ『逆転世界』のような別解釈が必要のようです。また、スウィフトはニュートンを毛嫌いし、引力を真理とは考えずに当時の流行と把握していたようなので、それゆえに物理法則を無視した描写が登場しているのかもしれません。また、トマス・モア『ユートピア』にも大きな影響と対抗心を持っていたそうで、4章の現実に戻ってユートピアを夢みるラストなどに影響が見られるとか。

2章と3章の作風のちがいは書かれた時代によるものだそうで、3章のアホ発明大会は参加者におおむね好評だったようです。ドラえもん「あんきパン」や宮崎アニメ「天空の城ラピュタ」の元ネタなどが満載でした(ラピュタの方は空飛ぶ城の1点だけで、ガリヴァーのラピュータにはあの美しさは皆無ですが)。4章では知能のある馬の国で自己啓発を受け、現実のイギリスに帰ってきても馬丁に混じってひひひん語り合う展開ですが、ここにガリヴァー×馬丁を見抜いた方がいて、さすが腐女子脳と感嘆の声が上がりました。

スウィフトの時代には当然なのかもしれませんが、全般にスウィフトの自己中心的で独善的な思想によって語られています。また、小人の国から持ち帰った小さい羊で大もうけなどの伏線を全く生かしていないのも、小説の作法がまだできあがっていない時代性という話があり、荒削りながらも発想のおもしろさを楽しむ小説だったように思います。もちろん、当時のイングランドについての諷刺をきちんと調べていった場合は相応の発見があるのでしょうが、読書部は英文学学科ではないので、興味がある人は各自文献にあたっていただくということで。

今年も無事に始まった読書部、次回の開催は3/10(土)を予定しております。課題図書はまたも古典的な名作カフカ『審判』(白水社Uブックス)となりました。個人的にはこれまで2回挫折しているので、3度目の正直として張り切って参加したいと思います。

2007年02月11日

カフカ『審判』(岩波文庫)

審判
審判
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カフカ Franz Kafka 辻 ヒカル
岩波書店
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審判―カフカ・コレクション
フランツ カフカ Franz Kafka 池内 紀
白水社
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来月の課題図書は白水社版ですが、とりあえず家にある岩波文庫版を読んでみました。『変身』と並び冒頭にいきなりおうちが簡易留置所になって裁判にかけられるという不条理背負い投げをきめられる銀行員K氏の日常が、夢のような不条理さと分裂病的な被害妄想となぜか超モテが重なって幸福なんだか不幸なんだか分かりません。

とにかくこの異常なモテぶりはどうだ。普段は呑み屋兼娼婦のエルザと関係を持ちつつ、突然の拘束を機に隣室のビュルストナー嬢にキスし、普通のアパートで開かれた裁判ではそこに住む奥さんから惚れられて、遠くにいるはずの叔父の娘エルナはいつもKのことを気にかけているし、弁護士の看護婦兼愛人レーニとは物語の終わりまで着かず離れず共にすることになる。女性は悪意の有無はともかく、みんなKになにかしらの好意を持って接しているのに対して、男性は銀行の支店長を除きほとんどがKの憎悪の対象となり蔑まれた描写をされている。男性はKの敵で害をなすものなんですな。呑みにいくような友達もなく、男社会の中を道しるべなく迷い続けるKにとって、女性はみな休息点なのかもしれません。

本書はカフカ死後に友人のマックス・ブロートによって編纂されたせいか、各省のつながりがどことなくぎこちない。そういう意味ではあまり「生きた」物語とは言えず、ありていに言うと小説の構成は稚拙。エピソードの多くが唐突で、『審判』という題にも関わらずまともな審判はほとんどなく、審判にかけられることになった者の不安が全体に流れています。沼地にかかる霧のようなぼんやりとした不安はとてもリアルで、無実なのに後ろ指さされる身分に落ちてしまった罪悪感はとても共感できました。これは審判という形をとらずとも、なんとなく働かないといけない、なんとなく結婚して幸せな家庭を築かなければならないという無言の義務感による抑圧は、現代日本人にも共通しています。

諸手を上げて名作と叫ぶことはできないけれど、身にいわれのない罪悪感にいつの間にかとらわれていることを思い出す良いきっかけにはなりました。若い頃はもっとこういう他人からの悪気のない抑圧に敏感だったはずなのに、すっかり体制側になっちまったな、と感傷的にもなれます。意外に若い頃の方がおもしろく読めるかもしれません。

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2007年02月25日

J.M.クッツェー『マイケル・K』(ちくま文庫)

マイケル・K
マイケル・K
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J.M. クッツェー J.M. Coetzee くぼた のぞみ
筑摩書房 (2006/08)
売り上げランキング: 153161

まずは全然売れないノーベル文学賞受賞作を文庫化したちくま文庫をほめたい。ぱちぱちぱちぱち。ここ20年の受賞作で文庫化されているのなんて、大江健三郎とグラスくらいではなかろうか。それくらいノーベル文学賞は日本では評価が低い。そういうわたしだってラテンアメリカの人くらいしか読んませんすいません。

本作の舞台は著者の故郷南アフリカ共和国ではあるが、やや近未来を想定しているらしい。そもそも南アフリカ共和国がどんな地形でどういう気候なのかも知らない。アフリカだからなにはなくとも暑さ、それにアパルトヘイト、犯罪多発の後進国というイメージが正直なところ。もっと気になる方はWikipediaへ。エイズ感染率20%ってすごすぎです。

みつくちのマイケル・Kは病の母を背負って三千里、とうとう死に別れてしまい、戦争のただ中でひとりぼっちになってしまう。とはいえもう30歳を過ぎて定職を持つべき歳ではあるが、貧しさの中できることといったら植物を栽培する庭師くらい。たどり着いたところで野菜の栽培を通し、南アメリカの痩せた土地に緑を根付かせる力があることを実感する。しかし、戦争に覆われた世界は彼を放っておくことはせずにゲリラとみなされキャンプに収容されてしまう。抵抗する意思も見せないマイケル・Kはやがて食物の摂取も望まなくなっていく。

本作を一言で自由への希求という単純な言葉で割り切るには、やせさらばえてさすらうマイケル・Kの生きてしまう力をあなどってしまうように思えた。まず人という生命が自らの意思とは無関係の生命機械であることが大前提にある。酸素を呼吸し、栄養によって生きる人間という種が、栄養を断ってもある程度は生き延びてしまい、生まれながらに生命を続けていこうとする身体の意思があることを痛感させられる。先日人間のある性について「機械」と呼んで批判をかった大臣がいたが、ロマンチックなところを抜けば人間は酸素と栄養を補給して動く機械なのは決してまちがいではない。

1章では世間に取り残されたマイケル・Kと母親を描写する。2章ではそれなりに文化的な生活を送っている医者が語り手となり、収容されたマイケル・Kに不思議な魅力を感じて虜になる。なぜマイケル・Kは食べようとしないのか、マイケル・Kが従順でありながら決して折れないものを持っているように見えるのはなぜか。やがて戦争によって彼もまた翻弄される運命にあるが、人と同じようにしない、できないマイケル・Kには読んでいるわたしも同じような魅力を感じました。例えるならまったくなつかない猫のような魅力。当初はニートのようなマイケル・Kがいつの間にか食べないランナーのような、走れる道があるから走るようにひたすら食べずに生きていく。それはカフカの「断食芸人」のようにどこまで食べずにいられるかを意識したものではない。マイケル・Kにとっては食べないことが生きることにつながっている。食べないからこそ出てくる最後の底力のようなものを感じ、生命の続こうとする力が体験できます。コンビニ弁当が消費期限切れだからといってごっそり捨てられて平然としている日本だからこそ読まれるべき一冊です。

2007年03月04日

カフカ『審判』読書会にむけて

来週の土曜日(2007/3/10)は読書部第18回の開催で、課題図書はカフカ『審判』なのです。先月この本を読んだ時のつかみどころのなさは、最近ちょっと経験のないもので、なぜこれが世界的に受け入れられているのか全く理解できなかった。主人公のKは銀行の偉い人(岩波文庫版だと「業務主任」で、白水社版だと「支配人」となっている。Kの年齢が30歳であることを考えると、「支配人」はやや地位が高すぎるように思う)なのだが、なぜか逮捕されて最後は刑を受けることになる。刑の執行の唐突さ、途中に出てくる人物のつかみどころのなさはちょっとしたものだ。

読了後のもどかしさをささっときれいにしてくれたのが、白水社版の訳者でありカフカといえばこの人池内紀の新書『となりのカフカ』。これが実に分かりやすくカフカの生涯と共に作品解説にもなっている。生涯結婚しなかったが、何度も婚約だけはしていたカフカ。きちんとした勤め人である反面、妙なシスコンでもあるカフカ。小説に夢中で毎日睡眠時間を削って書き続けたカフカ。何よりも『審判』にも挿入されている「門番」の話をはじめとして、カフカの小説は他の作品とも密接に関連しているところがある。文学史的な表層のイベントではなく、タイプライターを嫌い、深夜こつこつと書き続け、ノートが少なくなると急に誤字脱字が増えるカフカのとなりにひっそりとたたずむようにして、著者はカフカを観察しているかのように親密感が湧くすばらしい入門書であり研究書です。

となりのカフカ
となりのカフカ
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池内 紀
光文社 (2004/08/18)
売り上げランキング: 54340

これと合わせて読んでいるのが同じ著者による『カフカのかなたへ』。こちらもイラストや写真が豊富ですが、『となりのカフカ』とちがうのは、画家がカフカの作品から描いた絵が使われていること。元は青土社ですが、今は講談社文庫から出ているようす。

カフカのかなたへ
カフカのかなたへ
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池内 紀
講談社 (1998/01)
売り上げランキング: 133381


図書館で他にも研究書を何冊か借りてみたのですが、それぞれカフカの異常性にばかり目を付けたがり、やたらと不条理の三文字を持ち出してカフカ自身と距離をとりたがるものばかりでした。分からないことは分かったから分かるように読ませてほしい。その願いをかなえてくれたのは、まだインターネットに触りたてのころ出会った残雪という中国の小説家がていねいにカフカを読み解いた『魂の城 カフカ解読』です。

魂の城 カフカ解読
魂の城 カフカ解読
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残雪 近藤 直子
平凡社 (2005/12/06)
売り上げランキング: 271997

池内氏はカフカという作家本人に近づいていくことで作品にも同じように歩み寄る姿勢を見せてくれますが、残雪の場合は徹頭徹尾一読者としての解読です。この本でもっとも有名な第一章で監視人が突然Kの家に押し掛ける場面では、監視人の態度についていくつか疑問を投げかけます。

監視人も口でいうほどには原則を堅持しない。彼らはKをにらみつけて放さないのではなく、比較的緩やかな優待方式を採っている。もしかしたら、Kにある種の余地を残すためだろうか? 彼の道をふさいでしまわないために? それともKにおもしろい演し物を見せてやろうというのだろうか? 法がそんなに恐ろしいものだとしたら、なぜ彼らはKを監視するのにこれほどいい加減なのか?

そのいい加減さが「法」と説きます。厳しいようでどこか抜けているような曖昧さ。残雪はそれを不条理の言葉で片付けることはしません。Kによる語りによって書かれた物語を裏返してみせ、「法」の迷路に巻き込まれた社会的には認められながらも法には認められなかった青年の悲劇であるとつぶさに検証していきます。文化大革命という世界的にも稀な悲劇に巻き込まれて育った著者の読みは、ちょっとやそっとでは諦めない凝視によってカフカの世界を解剖していきます。

池内紀、残雪ともに着目しているのが本編以外の未完成部分。友人のマックス・ブロートによって編集されたものの、この物語はまだ完全ではなく、それを解き明かすためには未完成部分をないがしろにしてはいけないとしています。読めば読むほどに不条理という霧が晴れていく、これこそが小説をしっかり読み解く楽しさなのだと実感しています。

2007年03月16日

スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(白水社)

グレート・ギャツビー
スコット フィッツジェラルド Francis Scott Fitzgerald 村上 春樹 村上春樹
中央公論新社 (2006/11)
売り上げランキング: 214

知識とセンスの欠如を公表するようで恥ずかしいのだが、それでもわたしは『グレート・ギャツビー』が苦手だ。むしろ、嫌いと言った方がいい。登場人物全員、特に語り手のニックが引きずるそこはかとなくただよう自意識が、ぬるぬるとした粘液となって頭に残る。植民地を持ち、WASP以外は人にあらず的な誇大妄想が見られるのは、P.12というそうとうな序盤において語り手自身のキャラウェイ家をさりげなく自慢するところだ。まるでギャツビーと親友になった自分はまったく汚れておらず、世界がみな自分たち、特にギャツビーの敵だとして排除しようとするうぶさは、小説の終わりで30歳を迎えようとする人物には思えない。

当初は恋愛小説特有の陳腐さ、なよなよしたところにへきえきしていたのだが、これはどうも表層的に語られるギャツビーとデイジーの長年に秘めた恋愛を見守るニックという構図だけが原因ではないようだ。ギャツビーに必要以上にいれこむニックとギャツビーの間に友情以上の関係性を読み取るのは、何もやおい脳を持っていないわたしですら簡単なことだ。

僕がじっと見ていると、ギャツビーは外見にはいくらか自分を取り戻した。

ギャツビーに対する好奇心が最高潮に達したまさにそのころ

これほどに親密な男性同士の視点を、わたしは素直にシンプルな友情とは受け止められない。まちがいなくそこにはニックの抑圧された恋心がある。友情ととらえずにあえて恋心としたのは、デイジーのことを語るギャツビーに対してニックが辟易したり、デイジーから片時も目を離さないギャツビーからニックもまた目を離すことができないことが理由。第五章の最後ではギャツビーとデイジーがいい感じになると、ニックはひとり雨の中に出て行きますが、これは彼の涙雨なのであります。

本作に登場する女性がみなけばけばしく信用できない風情として語られるのは、ニックの視点、ありていに言えばデイジーへの嫉妬に因するものだと言える。取り澄ました顔ですべてを見通す役割をあてられているニックは、その実、女性たちにとても冷たい目を向けていることも見逃してはいけない。P.194では、

デイジーとギャツビーは踊った。彼が優雅に昔風のフォックストロットを踊るのを目にしてちょっとびっくりしたことを覚えている。彼が踊るのをそれまで見たことがなかったのだ。

と、デイジーのことはまったく見ていない。ここに限らずニックは女性たちをあまり見ていない。ニックに恋愛感情を抱いていたと思しきジョーダンも電話ひとつで袖にしている。それにくらべてギャツビーについては名前を小耳に挟んだだけで過敏に反応し、好奇心は旺盛、デイジーの思い出を語るギャツビーを目にしたニックは次のように記している。

ギャツビーのそんな話に耳を傾けているあいだ、そのあまりの感傷性に辟易しながらも、僕はずっと何かを思い出しかけていた。捉えがたい旋律、失われた言葉の断片。遥か昔、僕はどこかでそれを耳にしたことがあった。ひとつの台詞が口の中でかたちをとろうとして、僕の唇は聾唖者の唇のようにしばし半開きになっていた。驚きの空気を外に吐き出すという以上の何かをそれは希求し、あえいでいた。

驚きの空気を吐き出す以外のこと、それがギャツビーへの恋でなくして何であるか。まだ、アイデンティティとしての同性愛がなかった時代、それを口にする機会は永遠に失われた。本来ならニックはもっと叫ぶべきだった。それを抑え込んだ時代の空気と抑え込むことを選んだニックの常識が、読了後のもやもや感の正体であったのです。

2007年03月21日

セルバンテス『ドン・キホーテ 後編(2)』(岩波文庫)

ドン・キホーテ〈後篇2〉
セルバンテス Miguel De Cervantes 牛島 信明
岩波書店 (2001/03)
売り上げランキング: 96231

ちまちまと読み進めてとうとうサンチョが島を統治するところにたどりついた。とはいえ、島とは周囲の者が言うばかりで、後に故郷の友人に会うと(後編3)「こんな陸地に島があるもんか」と論駁されるも、サンチョは島というのが町や国の一種と考えているようでとんちんかんな返事をする。ここも笑いどころ。

前編ではドン・キホーテとサンチョの冒険譚が中心だったが、後編に入り彼らの噂を聞きつけた物好きな公爵が仕掛けるいたずらに二人がどうおもしろく対処するかという展開になる。訳者によるドン・キホーテの解説書『反=ドン・キホーテ論』では、

『後編』の冒険のかなりの部分が、ドン・キホーテの文学的名声を基盤にして、すなわち、ドン・キホーテ主従が小説に描かれることによって獲得した知名度を土台にして創り出されているからである。

と、前編でひとつ完結した物語をさらに批評的に見ることで後編のメタ的なおもしろさがつくり出されているとしています。いわば『トゥルーマン・ショウ』的な、主人公が常に観察されており、人為的に作られた物語を生きる設定になっています。これを1600年代にやっているとは相当なもの。いつしか公爵に作者のいたずら心が透けて見えるようになり、いたずらしている子に向かって「もうやめときな」とたしなめたくなるような、公爵の仕掛けがうっとうしく感じるほどに作り込まれています。

中でも白眉は空中木馬に乗って悪い魔法使いをやっつけに行くシーン。木馬に乗ったドン・キホーテとサンチョが繰り広げる会話はドリフ並のおもしろさ。バカ兄弟のネタを思い出しました。

いよいよ次は最終巻。サンチョの諺マシンガンに立腹し、ネコに顔をばりばりにされた騎士殿がいかなる最期を迎えるのか、頁をめくる手が止まりません。

2007年03月26日

蒲松齢『聊斎志異』(国書刊行会・バベルの図書館)

聊斎志異~バベルの図書館 10

国書刊行会 (1994/03)
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本棚に入らないことで有名なボルヘス監修による「バベルの図書館」シリーズ10の『聊斎志異』は、意外にも手軽にささっと幻想譚が味わえる良い本です。

『聊斎志異』自体は古典の図鑑さんでも当時の挿絵付きで読めますが、ラテンアメリカ文学好きのわたしにとっては「バベルの図書館」シリーズで読むことが大切なのです。ボルヘスが聊斎志異について語るのはほんの4頁足らずですが、本作の特異な位置を明確にしています。

最初のうち、テクストは単純素朴に見える嫌いなしとはしないが、そのうちやがて明白な諧謔と、諷刺と、したたかな想像力が感じられてくる。

したたかな想像力。あっさり首ちょんぱされても首をつなげば生き返ったり、幽霊になっても元の家で酒を呑んだり、生活の中に現れた幻想譚がいきいきと描かれる本作にふさわしい賛辞です。本編も150頁ほどで、サイズは大きいもののリーダビリティに富んだ内容になっています。同じアジアとして情景が想像しやすいのもよい。

短編集(と言っていいのかな?)全体は善行を積み重ねることで救いが訪れるという昔ながらの倫理観が支配しています。特におもしろいと思ったのは、仇を返せずにじっと辛抱していると天が変わって裁きを下すというものが多いこと。キリスト教のように明確な天の裁きというのは儒教も仏教もないと思うのですが、たとえ悪人でも他人を傷つけないことによって別の力が働くという構造は万国共通(イスラム圏は知らない)だったのかもしれません。天による裁きという概念は、我慢することによって殺し合いを防いできた人間の知恵なのかも。

『聊斎志異』自体はWEBでも読めるし、岩波文庫他多数出ています。しかし、ボルヘスが解説を書き、訳者が月報でボルヘスと本書の関わりについて説いた文章が読めるのは国書刊行会版だけ。そのためだけに本棚の雑誌コーナーを使うだけの価値がある。夢とうつつの境を漂う人はこの「バベルの図書館」シリーズは必読、ボルヘスも必読であります。

2007年04月15日

イシュメール・リード『マンボ・ジャンボ』(国書刊行会)

マンボ・ジャンボ
マンボ・ジャンボ
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イシュメール・リード 上岡 伸雄 Ishmael Reed
国書刊行会 (1997/10)
売り上げランキング: 361480

先日読んだルーシャス・シェパード『緑の瞳』はブードゥー教のゾンビにプロットが大きな影響を受けていて、死んだ肉体にバクテリアを植え付けて蘇生させるという基本構造は、テトロドトキシンを使って仮死状態にするブードゥー教のゾンビ制作になぞらえたものらしい。また読んだばかりの『砂糖の世界史』は、黒人が南北アメリカ大陸に連れてこられたことが世界経済の発展の大きな部分を担っていることを学びました。

本書では20世紀初頭にジャズなどの黒人文化がアメリカ合衆国でも注目され始めた頃を舞台としており、ブードゥー教の思想がアメリカを覆い、「ジェス・グルー」という楽天的になり辺り構わず踊り出すという伝染病がニューヨークに迫るという話で、黒人の芸術を元の場所に戻そうとする奴隷制度からの解放もテーマの一つになっています。簡単に言ってしまうと、黒人秘密結社によって作られた「ジェス・グルー」を広めようとする動きと、それに対抗しようとする探偵パパ・ラパスによるミステリ、になるのかも。

ポストモダンなんて用語は関係なく享楽的で熱狂的なグルーヴを感じられる希有な小説なのですが、それをもう一つ飛び越した黒人の歴史やブードゥーの教えを頭に入れておくとより笑いと興奮に近づけるはず。初読でも十分楽しめますが、さらに再読したくなるおもしろさです。

ラノベ(=ラテンアメリカ文学)読みとしては、フェンテスという男が

どっちにせよ、おまえには話さんよ、白人(グリンゴ

というところで、『老いぼれグリンゴ』を思い出してキュンとなりました。

2007年05月06日

セルバンテス『ドン・キホーテ』(岩波文庫)

ドン・キホーテ〈前篇1〉
セルバンテス Cervantes 牛島 信明
岩波書店 (2001/01)
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ドン・キホーテ〈前篇2〉
セルバンテス Cervantes 牛島 信明
岩波書店 (2001/01)
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ドン・キホーテ〈前篇3〉
セルバンテス Miguel De Cervantes 牛島 信明
岩波書店 (2001/02)
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ドン・キホーテ〈後篇1〉
セルバンテス Miguel De Cervantes 牛島 信明
岩波書店 (2001/02)
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ドン・キホーテ〈後篇2〉
セルバンテス Miguel De Cervantes 牛島 信明
岩波書店 (2001/03)
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ドン・キホーテ〈後篇3〉
セルバンテス Miguel De Cervantes 牛島 信明
岩波書店 (2001/03)
売り上げランキング: 79922

読了記念。あいまあいまに読んでいたので読了まで1年くらいかかっているが、その価値はある。続けて読めば1ヶ月もかからないくらいに読みやすく、それでいて先が気になる史上最高の大傑作。昨今の小説を読むうえで古典の素養が必要になるからとシェイクスピアをはじめ岩波文庫に入っている数々の名作の中でも、今読んで素直に誰でも楽しめるんじゃなかろうか。

登場人物は当然主人のドン・キホーテ・ラ・マンチャと従者のサンチョ・パンサ。騎士道小説が大好きで紳士かつ敬虔なクリスチャンであるところのドン・キホーテは、騎士道ぽいシチュエーションがあると自分を投影して周囲の迷惑など顧みずに自らの騎士道を歩もうとする。一方学はないがことわざマシンガンと欲望に忠実な行動力で周囲を笑いに巻き込むサンチョ・パンサ。男二人旅というのは日本の股旅ものや「あぶない刑事」、わたしの好きなランズデールのハッブ&レナードシリーズのように、ボケとツッコミの役割があり、べたべたしすぎない適度な距離感がある。運命次第では敵同士だったかもしれないような、相手を認め合う緊張感。わたしの場合はそこから801的な発想はしませんが、そういう視点が成り立つ友情があるのは認めざるを得ない。

ドン・キホーテはアホなおっさんが風車に突撃するところばかりがクローズアップされますが、実のところは一般庶民と読書家の齟齬を楽しむ物語なわけで、ドン・キホーテの行動よりも会話の妙こそがおもしろい。決して手に汗握るスペクタクルがあるわけではないが、「夕食の会話にふさわしい内容」と呼ばれるにふさわしい倫理的・哲学的な会話がお互いの立場をかけて長々と語られます。最近のライトノベルや映画のスピード感に慣れた人にはちょっとかったるく感じられるかもしれないが、するめはじっくり噛んで味わうように会話もじっくりと楽しむが吉。

後半になると前半の物語が出版されていることが前提となっており、偽物の『ドン・キホーテ』ではセルビアに行って槍試合に出るらしいということを聞いた本物のドン・キホーテは行き先を変えてバルセロナに向かうシーンがあり、すでに語られた自分の運命を知って先回りするあたりはSFの始祖とすら言えるのではないか。そしてドン・キホーテの最期になって至上最上級のメタ仕掛けが炸裂する。ここは6巻きちんと読み通したからこそ味わえる至福の読書。5月の大型連休は終わってしまいますが、これはぜひ教養のためという押し付けがましさなく万人に読んでいただきたい最初の小説にして最高の小説です。

2007年06月10日

ジュディ・バドニッツ『空中スキップ』(マガジンハウス)

空中スキップ
空中スキップ
posted with amazlet on 07.06.10
ジュディ・バドニッツ 岸本 佐知子
マガジンハウス (2007/02/22)
売り上げランキング: 84035

パステルカラーのふんわりした表紙で、読書系の趣味があう人ことごとくほめていたので、久方ぶりに新刊を買ってみた。「妄想力にも、ほどがある」というコピーも秀逸。

トップに据えられた「犬の日」はダウンタウンのトカゲのおっさんのコントがまず頭に浮かんだ。ボケ倒すとかげのおっさんと犬はとってもマッチング。とはいえ、こちらはとってもジャック・ケッチャムなので注意。「イェルヴィル」なんかもその系統。

特異なシチュエーションを庶民的な視点でリアルに描く力は実にすばらしく、市井の女性の立場による異常なシチュエーションを描いた小説をわたしは一人で「マジックキッチン・リアリズム」と呼んでいるのですが、まさにそれにぴったりあてはまる。他にその系統の小説として人造蛙人間と恋に落ちる『ミセス・キャリバン』とか、中国の残雪などがあります。会社などで他人と交わって働くことにより多かれ少なかれ一般常識に触れる機会の多い男性と異なり、家族との交流が第一にあり最小単位のコミューンとして変わったコンセンサスが生まれやすい家庭に縛られる女性ならではの視点がここでは存分に生かされています。

「道案内」「公園のベンチ」の袋小路ぶりはボルヘスの迷宮感覚に近く、「チア魂」のやりすぎ感はスティーブン・キングの短編集にありがちな「そこまでしなくても」とのけぞりつつも最後まで見てしまう痛々しい笑い、「アベレージ・ジョー」はオールドタイプのSFぽさがあり、「ハーシェル」はラファティのよう。バラエティに富んだ器用さもこの作家の特徴といえそう。

ただ、奇想にあふれているとはいえ、「産まれない世界」などは着想一発で、SFとしてはさほど珍しい話ではないにも関わらず、SF的観点の解決策が提示されていない点で、やや物足りなさを覚えた。全体にもやや若書きでやや落ち着きが足りないという印象が残り、同時期に国書刊行会から出た『すべての終わりの始まり』に一日の長がある。これだけ観察力が鋭く自然な筆致で書けるのだから、やはり長編が楽しみ。すでに出ている『イースターエッグに降る雪』や今後の長編は要チェックですな。

イースターエッグに降る雪
ジュディ バドニッツ Judy Budnitz 木村 ふみえ
DHC (2002/09)
売り上げランキング: 617418

2007年06月17日

エリック・マコーマック『パラダイス・モーテル』(東京創元社)

パラダイス・モーテル
エリック マコーマック Eric McCormack 増田 まもる
東京創元社 (1994/09)
売り上げランキング: 880611

先日『隠し部屋を査察して』が文庫本化されてにわかに注目を浴びているはずのエリック・マコーマックの第一長編。短編集を読んだときは技巧的なうまさと共に、(某氏曰く)カナダ系の粘着質さがとても印象に残り、中でもサディスティックさを前面に押し出した悪趣味ぶりは活字であるにも関わらず嫌悪感を抱くに充分すぎるものでした。

本作でもその悪趣味ぶりはあますところなく発揮されており、それは描写にとどまらず小説の構成まで至っており、心ある人ならば眉をしかめるかもしれません。このオチはかなりギャフン。ですが、わたしとしては登場人物が苦痛に耐え続ける姿をいかにも楽しそうに描く作者のサドぶりがとても記憶に残りました。たとえば、原住民につかまってシャーマンの処刑を受けようとする話では、奇怪なシャーマンの身体的特徴が細かく描写される。

たとえば彼らのシャーマンは、後頭部に目がついていた。羽毛の外套と彩色した顔といういでたちのシャーマンが、わたしに背中を向けて、痛々しく充血したその目をこらしてみつめるたびに、それを何度も見ることができた。見張番の話では、シャーマンの妻たちは四歳か五歳のこどもを選んでシャーマンの後継者にするという。およそ十年の歳月をかけて、彼らはこどもの左目を眼窩から徐々にひっぱりだし、じわじわと視神経をのばしていって、ついには眼球が左耳のうしろに来るようにするという。それは油を切らしたことのないバナナの皮にくるまれて、紐で頭にくくりつけられていた。

おもわずぞっとする描写、よく考えると言葉も通じない未開の人々に囚われたはずなのに、なぜか見張り番と話をして細かいところまで聞き出しているなど、物語内でもややリアリズムを欠くところですが、そんなものはグロテスクな描写で一蹴してしまうほど、読みやすく、気持ち悪い描写がそこここにあります。

物語は浜辺のテラスで過去を回想する老人から始まり、幼い頃に医師の父親にとあるものを隠された四兄弟のその後を追う形式をとっています。そのため、各人を中心とした連作短編集の趣がやや強くなっています。もちろんラストのギャフン落ちですべてが台無しですけどね! ソローキン『ロマン』を愛するロマニストにこそおすすめしたい。あとがきで触れられている未訳の長編もおもしろそう。短編以上の破壊力、アホっぷりに大満足の一冊でした。

2007年08月05日

ペドロ・アルモドバル『パティ・ディプーサ』(水声社)

パティ・ディプーサ
パティ・ディプーサ
posted with amazlet on 07.08.05
Pedro Almodovar ペドロ アルモドバル 杉山 晃
水声社 (1992/12)
売り上げランキング: 31940

本棚に並ぶラテンアメリカ文学の中でもどぎつい黄色の表紙が目立っている。発音しづらい名前。いつもアドモルバルと読んでしまう。スペイン語がわからないせいかもしれない。どこかで聞いたことがある名前だが……、あ、「ボルベール」の監督じゃないか、と気づいたのはこの週末なのでした。「オール・アバウト・マイ・マザー』であれだけ泣いたというのに、このぼんくらめ。

本書では奔放でグラマラスなポルノアイドルのパティ・ディプーサが雑誌に連載した身辺記という形く。文中の「わたし」「娼婦」「まっぴらごめん」「いちばんくどきやすい女」などの単語がゴシックになっており、パティの欲望を際立たせている。アルモドバルの特徴は豊かな色彩と女性のおおらかな強さ。なんて2作しか見ていないけれど、おおむねまちがいないだろう。

自分たちがどれほど魅力的なのかを見せたくてうずうずしてる連中がいるけど、そばで見るだけでうんざりね。

パティは自らの欲望を全開に突き進んでいく。無口なタクシードライバーから思いがけないものをプレゼントされて一瞬で恋に落ちたり、鼻持ちならない坊ちゃんを平手打ちしたりする。躁病並に猪突猛進勇猛果敢。でも一方ではふとしたことでメランコリックになったり、ポリシーに反したことは決してしない。個性という言葉で片付けられない。粋という言葉には選択することへの大きな背景を感じることができる。粋でちょっとおバカなすてきな雑誌連載。確かに雑誌もバカ売れするだろう。

ところで、男性でありながら女性を中心に据えた世界を描くという点でまっさきに思い出すのは、アルモドバルと対照的に映画監督になれなかったマヌエル・プイグだ。両者ともゲイであることはゴシップ的な要素抜きにしても、作品に大きく影響しているだろう。推定でしかないが、二人とも単純に男が好きというよりも、女になりたいという願望が強くなった結果として男が好きなのではないか。女性の美しさに憧れるあまり自らを投影してしまう。特にアルモドバルの映画「ボルベール」「オール・アバウト・マイ・マザー」では魅力的な男をほとんど見たことがない(以前は若いアントニオ・バンデラスも出演していたようだが)。単にそれだけなら生まれてきた自分という枠に反抗したがるわがままさにしか映りませんが、客観視して飽きさせないストーリーに仕立てあげる技術は両者とも見事。

大きい書店ならきっとまだ在庫がある水声社の本。1200円とお買い求めやすい値段なので、映画「ボルベール」とともにお楽しみいただけるんではないでしょうか。

2007年09月17日

ヘミングウェイ『老人と海』(新潮文庫)

老人と海
老人と海
posted with amazlet on 07.09.17
ヘミングウェイ 福田 恒存
新潮社 (1966/06)
売り上げランキング: 5501

恥ずかしながら初のヘミングウェイ体験。今は微妙に幻想文学の倦怠感よりもアクティブな作品を求めていたので。まさに今もとめている気分にぴったりを通り越して、作品の切れ味と芯の強さに存分に圧倒されました。

あらすじを書くのもおこがましいほどですが、すでに引退寸前となった老人とその知識に純粋に尊敬を払う少年との対話から物語は始まり、やがて老人が沖の方まで出て行ったときに、それまで80日以上当たりがなかった釣り針にこれまでにない重みがかかり、老人の最後になるかもしれない格闘を読者は追うことになる。

全体に老人の主観を逐一追っていくスタイルで、単に大自然を雄大に描くというのではなく、そこには老人が持つ海の知恵、漁師としての経験があるからこそ浮かび上がる感覚が描かれる。読者という安全な位置にありながらも、老人が漕ぎ出す大海原に不思議な愛着すら感じられ、まるで自分がいつも漁に出ているかのような自信すら覚えてしまう。その共感は主人公が老人、それも85日間も釣れていないロートルの無力感があるからこそ。これが同じ海への経験がない子供の漁師だったら、同じ挫折した展開でも未来を感じ経験の一こまとして終わってしまうだろう。読者が海への知識がなければないほどに、老人の知識の頼もしさに感銘を受けつつも、自らと同じ無力感を分かち合ってしまうのではないか。

そして『白鯨』でも感じた海の男が持つ魚への奇妙な愛情がここにも見られる。獲物として捕獲することを望みつつも、獲物が大きければ大きいほど殺すことに躊躇いを感じ、友情とも言える感情を通じ合わせようとする。魚は食うこと以外にあまり興味がないがヤマネコたちに大いなるシンパシーを感じるわたしにとって、彼らが魚に友情を抱くことはまったく不自然でなくささやかな部分だが理解できるように思われます。良いボクシングを見た後のような爽快感と、人生の冬を迎えようとする一人の漁師への共感と、まるで自分が船に乗って漕ぎい出しているようなきめ細かい描写があいまって、世評の高さを実感することができました。しばらくは幻想文学やSFから離れて、いわゆる海外の古典に手を伸ばそうと改めて思いました。

2007年10月08日

リチャード・パワーズ『囚人のジレンマ』(みすず書房)

囚人のジレンマ
囚人のジレンマ
posted with amazlet on 07.10.08
リチャード パワーズ 柴田 元幸/前山 佳朱彦
みすず書房 (2007/05/24)
売り上げランキング: 117297

家族との関係をうまく築けなかったから家族ものは苦手。親と仲がいいという関係がそもそも理解できない。嗜好や趣味が合えばまたちがってくるのだろうが、17で演劇を始めてからは家にはほとんど近寄らず、大学に入ってから家の敷居をまたいだのは数える程度という案配ではうまくいくはずがない。そんなわたしには本書の家族関係の奇妙な密接具合は理解できないを通り越してちょっとおぞましさすら感じる。直接的な反抗ではなく、徐々に父親の色に染まっていきそれを是とする無抵抗さは、他者からの洗脳を無批判に受け入れてしまうようなおそろしさに近い。家族は他人のはじまりなのだ。

本書の構成は、
・父ビッグ・エディと母アイリーンの間に生まれた4人の子供アーティ、リリー、レイチェル、リトル・エディが集う物語……(A)
・ディズニーが在米抑留日本人を使って映画を撮る物語……(B)
・子供たちがビッグ・エディの若かりし頃を追体験する物語……(C)
がフォントが変わって交互に描かれる。目次は以下の通り。

P.5  なぞなぞ(C)
P.11  1(A)
P.25  2(A)
P.40  ホブズタウン 一九三九年(B)
P.49  3(A)
P.63  4(A)
P.83  主要時制(C)
P.96  5(A)
P.109 一九四〇—一九四一年(B)
P.118 6(A)
P.133 7(A)
P.146 一九四二年 春(B)
P.159 8(A)
P.161 9(A)
P.177 目には目を(C)
P.190 10(A)
P.207 一九四二年 秋(B)
P.221 11(A)
P.241 12(A) (ミセス・スワロー)
P.251 一九四三年(B)
P.269 13(A)
P.288 もしも苛酷な一分間を(C)
P.304 14(A)
P.317 一九四四年(B)
P.332 15(A)
P.343 16(A)
P.352 17(A)
P.369 一九四五年(B)
P.377 18(A)
P.384 網目を破る(C)
P.389 19(A)
P.396 V-J(C)
P.402 20(A)
P.410 21(A)
P.413 カラマイン(C)
P.414 一九七九年(B)
P.416 訳者あとがき

とはいえ、こう書き出してみてもあらすじ、それぞれの関連性ははっきりとは読み取れなかった。なんとなく変な親父が子供たちにニヒルな影響を与えていたが、実のところ青年期の戦争のある一こまが原因だった、とまとめてみても本書のおもしろさは全く伝わらない。本書を読み取るにはこの家族の奇妙な輪に入れるだけの慣れ親しむ能力が必要になるんじゃないか。それぞれの家族には一言では言い切れない癖があるものだが、本書の家族は文学の知識だったりまとわりつく灰色(黒になりきれない)のユーモアで社会への適応性すら怪しくなっている。

読み終えた今、本書をどう位置づけていいか分からない。もう一度読んでも分かる気がしない。こんなに密着した人間関係には疎いのです。

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2007年10月14日

ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)
ミラン クンデラ Milan Kundera 千野 栄一
集英社 (1998/11)
売り上げランキング: 27696

己の人生を考えさせられる小説でした。ただ、クンデラは作者自身であろう「私」の意見をちょこちょこ書くので、言いたいことを読者に読み取らせるのでなく、全部書いてしまう作家、という印象を受けました。

トマーシュは有能な医者かつメチャモテながら投稿した新聞記事によって誤解を受け、自ら医者を辞して窓ふきに転身。知識人が窓ふきという下層の仕事に身をやつしたことが話題を呼び、上流階級に呼び出されてはワインをごちそうになったり談笑に明け暮れる。

テレザは恵まれた境遇ではなかったが、偶然トマーシュに会った時から思い切ってトマーシュの押しかけ女房となる。それまでのウェイトレス生活から一転して上流階級にも触れ、プラハの春で撮影した写真を雑誌で認められるが、トマーシュの愛人たちに嫉妬しながらも妻として生きることを選ぶ。

二人の関係は普通の夫婦からはほど遠く、トマーシュが命令したことをテレザは実行しようとするが、トマーシュはやや人間的な情愛から外れた性格をしているため、結果としてテレザは自分の選んだ道とはいえ嫉妬で消耗していく。このトマーシュのクールでありながら人間としては決してほめられない性格は、わたしにとって決して他人事ではなかった。途中の夢のようだが現実であることを示す「銃殺の丘」のシーンは異様です。二人の関係に疲れたトマーシュがテレザに向かってある丘に登ってみろと命令する。テレザは普段はにぎわっている丘に人気がないことを気にしながら登ってみると、自分の意志で死を選ぶ人たちを銃殺する不思議なサービスが行われている。テレザはトマーシュの命令なので銃殺されることを受け入れようとするが、いざ男が銃を構えると勇気が萎えていくことに気づく。

テレザは自分の勇気が尽きようとしているのを感じた。自分の弱さに絶望し、その弱さを抑えることができなかった。そして、いった。「だけどこれは私の希望ではなかったの」
ただちに銃身が下がり、とても穏やかにその男がいった。「あなたの希望ではないのでしたら、できません。そんな権利は私たちにはありません」

望む者を銃殺するという不思議な関係もさることながら、ここに送り込むトマーシュの非道ぶりがすごい。つまるところ「俺が死ねといったら死ね」ということを実行させたわけで、それを言うことと実際に死なせることとは天地の差がある。昔のアジアでは「死を賜る」なんて言葉があるほど死は授与できるものだったが、男女関係ではちょっとそういう関係は思いつかない。トマーシュはそういうことを言えてしまうたがの緩さがある。だが、それはトマーシュに限ったことではない。残酷さというのはつまるところ人間の存在の軽さに起因するものだ、と言いたいのかなと思った次第であります。愛という結びつきはヘリウム入り風船のようにふわふわしてちょっとのことで破裂してしまう。破裂させるための針をやろうと思えば人は簡単に突き刺してしまうことができる。

あと、ちょっとおもしろかったのが、たくさんの女を追いかける男には二通りあり、一つは「どの女にも自分に固有の、女についての常に同じ夢を探し求める人」という表現。詳しく引用すると、

(略)男たちの夢中ぶりは叙情的である。彼らは女たちの中に自分自身、自分の理想を探し求め、たえず繰り返し、繰り返し裏切られている。なぜならば、理想というものは、ご承知のとおり、けっして見つけることができないものである。女から女へとその男たちを追いたてる失望は、その男たちの移り気にロマンティックな言い訳のようなものを与えるので、多くのセンチメンタルな女たちはその男が何人も恋人を持つことに感嘆させられるのである。

わー、すごい男の理屈。二次元の女性に依存する人たちは叙情的なのかもしれないと思いました。

2007年10月21日

ジョン・バース『旅路の果て』(白水社)

旅路の果て
旅路の果て
posted with amazlet on 07.10.21
ジョン・バース 志村 正雄
白水社 (1984/01)
売り上げランキング: 70273

ジョン・バースにはどうしても難解なイメージがある。ポストモダン。そんなものしらねーと思いつつ、読み始めたら意外にさくさく読みやすいので驚いた。難しいどころか、前半部分はおおむねコント風。主人公のジェイクは

ある意味で、ぼく、ジェイコブ・ホーナーだ

なんて頼りない言葉から物語をはじめる。そこからはジェットコースターつっこまれノベルとなり、ジェイクのボケ倒しに周囲がげんなりしおれるぷち吉本劇場が始まるのだ。

ジェイクは変わった精神科医の治療を経て、田舎町とはいえ大学の作文の授業を受け持つことができるまでに回復した。就任直後、ぼんくらそうな教授たちがそろう中で目立った知性を発揮していたのが同僚のジョー。嫁のレニーを含めた交流が始まるが、ジェイクのトリックスターぶりとジョー・レニーの堅実さがぶつかり合い、困った三角関係に陥る。

ジョー・レニー組にとって、ジェイクの一貫性のない思想は「あなたは存在しない」とまで言わしめるほど恐ろしいもの、未知なるもののようだ。妻のレニーはジョーを神とまで崇拝し、絶対の存在としてジョーに近づけるように努力した経緯を持ち、半分宗教レベルに達している。わたしのような宗教に興味はあっても、誰か知らない人が作った教えを無批判に信じてそれに基づいて生活に反映するようなことに抵抗を感じる者としてはジョー・レニー組の方に異常性を感じる。これをもっと客観的にするとヴォネガットになるのかも。思想性をコントの中にちりばめておりわかりやすいけど、一筋縄ではいかない。聞くところによるとバースの『レターズ』は本作を含め、著者の小説それぞれの登場人物が勢揃いするとか。学生のころだったら全部読み比べて最後に『レターズ』に挑戦しただろうな。今は残念ながらそれほどの時間が簡単にとれるわけでもないので、おおがねもちになったら南の島にバカンスに飛んで(猫付)バース三昧を送れる日を夢見て労働することにします。

2007年12月09日

ウラジーミル・ナボコフ『ディフェンス』(河出書房新社)

ディフェンス
ディフェンス
posted with amazlet on 07.12.09
ウラジーミル ナボコフ Vladimir Nabokov 若島 正
河出書房新社 (1999/12)
売り上げランキング: 360989

ナボコフには『ナボコフの一ダース』(サンリオ文庫)でひどい苦手意識を植え付けられていた。サンリオと言われればなんとなくサンリオSF文庫に通じるものを感じ、きっと異質な現象を扱った小説にちがいない、と期待して読むと、なんだか何にも起こらない。電車に乗って迷子になったとか、そんなめそめそ短編ばかり。なんだこれ。

でもみんなほめてるからきっといい小説家にちがいない。現に学生時代、まだSFをろくに知らない頃に読んだ『ロシア文学講義』はとてもおもしろくて、文学部にいたくせに小説を読み解くおもしろさはこの本で気づいたくらい、大きな影響を受けた。ある程度長くて、ナボコフのおもしろさを感じられる本をまずは図書館で、と選んだのが本書。ディフェンスとはチェスの「対抗策」という意味で、表紙のカバーもチェスの盤をイメージしている。が、今日見てきた上野の「フィラデルフィア美術館展」ではマルセル・デュシャンの「チェス・プレイヤーの肖像」という絵がかけられていて、いわゆる抽象的な切り取られた多面的な描写が本書にぴったり。今からでも表紙をさしかえて文庫化しませんか河出書房さま。

本書を読み終えてナボコフのおもしろさがかなり分かったような気がする。少なくともわたし自身は他の本を読んでも楽しめそうな気がしている。別に表立って奇妙奇天烈なことが起こるわけではないのだ。サンリオSF文庫のイメージで読んではいけないのだ。毎度のことながら山形さんの書評をひきあいにだしてしまうけど、誰もが持っている記憶にうったえかける小説らしい。ロシアの小説家の出自なんてわたし自身からはまったく共通するところがないけれども、子供の頃にいじめられた記憶や細かい発音へのこだわり、家庭のにおいのような、本当にささやかで今となっては思い出すこともないようなことを連ねていって、いつの間にか登場人物の記憶に自分が入り込んでしまい、「共感」とは異なる、もっと自分に近い物語に"なって"しまうところにおもしろさがあるんだと思う。それはシュワルツェネガーの映画を見て自分もマッチョだと錯覚するような感じに近い。でも、もっと起き抜けの布団で妄想するようなほんわかと強い質のものだ。その幸福感、一体感は誰しも味わったことがあると思う。それを読書で味わうことができるというのはまさしく至福なのです。

この本を読むときに必要なのはただ一つ、徹底的な外部の遮断。喫茶店もダメ、図書館もダメ。自分の部屋にこもってひたすら文字と戯れることが要求される。喫茶店や図書館で寝起きの幸福感が得られないように、心から安らかに眠れる場所で読む必要がある。来るお正月の退屈な時間にナボコフと戯れるのはとても幸せそうなので、おもわず今日は2冊もナボコフを買ってしまいました。正月から『ロリータ』というのもなかなか乙、なはず。

2008年01月03日

C・ブロンテ『ジェイン・エア』(光文社新訳文庫)

ジェイン・エア(上) (光文社古典新訳文庫)
C・ブロンテ 小尾 芙佐
光文社 (2006/11/09)
売り上げランキング: 21207
ジェイン・エア(下) (光文社古典新訳文庫)
C・ブロンテ 小尾 芙佐
光文社 (2006/11/09)
売り上げランキング: 20962

喪中により謹んで新年のご挨拶と代えさせていただきます。

さて、去年は新しい生活が始まって小説を読む時間が少なくなったので、これからはその分を取り返そうと思っている。折しもナボコフの『ヨーロッパ文学講義』を入手し、改めて小説(文学)をちまちまと細かいところまで浸って読むことのおもしろさを再発見し、それと共に古典文学に秘められている構築の美をわたしも掘り出してみたいという気持ちが強くなっているのです。

そこで年末年始と読みふけったのがC・ブロンテ『ジェイン・エア』。光文社新訳文庫から小尾芙佐さんの訳で出直したものです。小尾さんと言えばわたしにとっては最初の海外小説である『アルジャーノンに花束を』の訳者として頂点に君臨する方で、読みにくさなんてものは全くないというのは、読む前から読了後まで変わりませんでした。

こんな古典的名作のあらすじを述べるのはおこがましいのですが、ジェイン・エアという天涯孤独の少女がいじわるな伯母に引き取られるものの、寄宿舎に放り込まれ、やがてそこで磨いた知識で家庭教師として独立。お屋敷の専任となりその主人エドワード・ロチェスターと紆余曲折というかツンデレを経て恋仲に落ちるが、主人にはある秘密がありそれが二人を離ればなれにしてしまう。ジェインは無一文で屋敷を出て、とある村にたどり着きさらに運命的な出会いを果たすが、心はいつもロチェスター卿を忘れてはいなかった……。

いわゆるビルドゥングスロマンであり、女性の自立を描いた小説としては当時きわめて珍しかったそうですが、それは書かれて200年(!)を経た現在でもなお健在です。なんだかんだで幼少期や学生時代の出来事や身につけた技術がきちんと後半になって伏線としてきれいに使われるのは、上手。見ようによっては世界の狭さであり、作者の都合の良さにもつながるのですが、やはり丁寧に物語が編み込まれている様は古典たるゆえんを十分に感じられました。そこここで読者であるわたし自身の葛藤と重ねられるような大きな決断を幾度となく強いられるジェインに共感しつつも、文学史上ここまで偉大なツンデレがあったであろうかと思わしめる頑固さに辟易もします。そこが強い個性として矛盾なく描かれているのが本書を読み進める大きな原動力なのです。ツンデレの葛藤を一人称で細かく描く本書はぜひ男子にこそ読んでいただきたい。

またブロンテ一家は牧師の家に生まれたこともあり、やや私小説的な本書にも聖書の文句がたびたび引用されます。いくつかはwebで調べたりもしたのですが、やはり息をするように聖書の言葉が出てくる人ではないわたしには、字面的には理解できても、聖書で書かれる背景までしっかり読み込めているとは思えずちょっと悔しい。

後半に入るとやや冗長とも言える場面が出てきます。映画化されたときもだいぶ省略されていたようですが、しかしその冗長さゆえにラストの感動が生きてくるのだとも思います。ベタな話ですがそれゆえにめそめそ泣きながらページを繰っておりました。「ブロンテ三姉妹の一番上で、もっとも長生きした人」なんて文学的知識は放り投げて、単純に物語と向き合って素直に感動するのが吉。本作で古典のおもしろさにちょっと目覚めたような気がするので、次はナボコフ先生ご推奨のトルストイに挑戦してみます。

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フリオ・リャマサーレス『狼たちの月』(ヴィレッジブックス)

狼たちの月
狼たちの月
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フリオ・リャマサーレス 木村 榮一
ヴィレッジブックス (2007/12)
売り上げランキング: 122519

2005年秋にリャマサーレスの日本デビュー作『黄色い雨』が出た時には、全体を貫く美しい憂鬱感、どうしようもない寂しさにやられちまったものです。貧しい寒村の話なのに、なぜか幻想性さえ漂う、まさに「霊妙」と呼ぶべき傑作でした。そんな彼の新しい作品が出るという、わたしが生きている作家では珍しく待望と言わねばなりません。

まずページを繰るととびらにはスペインの地名が登場します。

一九三七年秋、アストゥリアス地方で共和派の前線が潰走し、海によって退路を断たれた敗残兵は人の住まないカンタブリア山脈の木々がうっそうと生い茂る険阻な山の中に逃げ込んだ。

アストゥリアス地方はスペイン北部。地図では次のあたりになります。


拡大地図を表示

この地図で「Vegamián」で検索すると、おそらくあとがきで触れられている作者の故郷「スペイン北部のレオン地方のベガミアンという町」の写真が表示されるはず。湖があって荒涼とした山並みが続いているところのようです。本書の舞台となるカンタブリア山脈はアストゥリアス州の州都オビエドとレオンの間に東西に延びる地域です。ここに語り手のアンヘル、仲間のラミーロ、フアン、ヒルドたちはタイトルのごとく狼のように隠れ住み、フランコの反乱軍が撤退するのを待っているのです。

とびらから1ページ前に戻ると目次があり、「一九三七年」「一九三九年」「一九四三年」「一九四六年」とタイトルがついています。Wikipediaの「スペイン内戦」や、「スペインの歴史」によると、1937年はアストゥリアスの西にあるバスク人の町ゲルニカに大規模な爆撃があり、1939年はフランコによる内戦終結宣言、ひとつ飛んで1946年はスペインがファシズム認定されて国連から排斥になった年です(ちなみに1943年はイタリアが降伏した年であるようです)。作品内部ではさほど政治的な内容は扱われませんが、スペイン内戦の区切りとなる年を見出しに使っていることはこの内戦を前提として書かれていることの証明であり、上記程度の内容は本書を読む前に知っておくにこしたことはないはずです。

さていよいよ本文に目を通すと、翻訳文学としては意外ともいえる読みやすさです。もちろん詩人でもある著者の言葉選びは比喩もふんだんに取り入れられていますが、おおむね情景の描写に沿ったものであり、詩的な言葉を取りいれて主人公たちの行動をむやみに美化したりするようなことはしていません。それでいて主人公たちを狼となぞらえて、人間たち(治安警備隊や村人たち)に追い込まれていくようすを描いていく。淡々と、というにはあまりに美しく、戦いの場面が凄惨かというとそうでもない、無声映画を見ているように静かに時が過ぎ傷ついていく彼らの姿を読者であるわたしも懸命に追っていく。この読書体験はリャマサーレスならではと言えるでしょう。

客観的に見ると主人公たちの行動は他人に大きな迷惑をかけ、彼らが生き延びれば生き延びるほど地元の人に迷惑がかかる。地元の偉大な闘士がいつのまにか厄介者扱いされるようになるのです。すでに戦うこと・生き延びることだけが目的となり、フランコが倒れるまでひたすらに略奪を繰り返す。戦い続けることの哀しみは山に降る月明かりに照らされて追い詰められていく姿は、『黄色い雨』でも感じた救いのない絶望に近いところにあります。死してようやく救いを得るような八方ふさがりぶりを全体にまとわせながら、それでも懸命に生きる主人公たちの姿を克明に書き表す著者の筆に今回もまた圧倒されました。

読書にカタルシスを得たい人には全く不向き。しかし、戦争もので爆弾どかーん銃弾どばだだだと単に乱暴でショッキングなだけではなく、人間が追い詰められても耐えて生きる姿の描写には、魂を揺さぶる真実の世界が体現されています。悲惨さが前面に出てしまうあまたの戦争ものとは決定的にちがう非常な才能を感じます。あまりに一気に読んでしまったので細かい感想は書くなら後日。まごうことなき傑作。全員読むべし。

2008年02月24日

フェリペ・アルファウ『ロコス亭の奇妙な人々』(東京創元社)

ロコス亭の奇妙な人々
フェリペ アルファウ Felipe Alfau 青木 純子
東京創元社 (1995/11)
売り上げランキング: 1004085

1902年、スペイン人の著者については全く知らないまま本書を購入。一番の理由は安かったからだけれども、これが望外のおもしろさ。英語版のタイトルに「Comedy」とあるように喜劇的でありながら、荒涼とした人のさびしさも描き出している。ボルヘス、カルヴィーノ、ナボコフに比較されている著者ですが、ボルヘスよりも腕白だし、カルヴィーノより素直。ゲルニカ生まれということで、マドリッドから来た人物との対立などにバスクとの対立が読み取れます。スペイン内戦が激化した年に出版された本書は、物語も決して一筋縄ではいきませんが、成立した背景にも複雑さを感じ読み取れていないところがたくさんありそうだという読後感です。

連作短編集の形をとっており、タイトルにもなっているロコス亭で登場人物たちを紹介する場面から物語ははじまる。太っているが威厳のない警官、伊達男、べっぴんな尼僧、礼儀正しく世俗に馴染んだ神父、がらくた売りなどがにぎやかす酒場。この後の短編で彼らは入れ替わり立ち替わり現れ、時には性格や役割さえ変えて登場する。それぞれが独立した物語になっているように見えて、その実同じ名前の人々について語られる巧みさは実に小粋。特におもしろいのがマドリッド全体が長期にわたって停電になってしまい、泥棒のメッカとなってしまうところで警視総監が頭を悩ます話。手探りで歩いているところを誰かにぶつかって掏った財布が、また別の誰かに脅し取られたりするところなどは、金は天下の回りものという格言を皮肉めいた形で思い出してしまう。

コミカルな一方で、「春」にとらわれて錯乱してしまった友人を看取る話などは、からりと晴れ渡った青空の下の絶望を共感してしまいます。最近のCGアニメーションで輪郭線が描かれる端から色彩が施されて美しい風景画になったりするものがありますが、美しくもあり、まるで何かに絡め取られるような無力感も同時にわき起こることがありますが、それを突き詰めると春の美しさと恐ろしさに変化するのかもしれません。

今回の読書では同じ名前で登場する人物たちが、別の短編でどのように役割を変えるのかしっかり把握しないままだったので、ぜひ再読して関係性をつかみたい。1冊で2回は楽しめるステキな本です。すでに品切れのようなので見つけたらぜひ。

2008年03月16日

N・ホーソーン/E・ベルティ『ウェイクフィールド/ウェイクフィールドの妻』(新潮社)

ウェイクフィールド / ウェイクフィールドの妻
N・ホーソーン 柴田 元幸 青木 健史
新潮社 (2004/10/28)
売り上げランキング: 278757

換骨奪胎。「先人の詩や文章などの着想・形式などを借用し、新味を加えて独自の作品にすること(Yahoo!辞書より)」。

ナサニエル・ホーソーンという作者名を出さずとも、ウェイクフィールドという作品名を知らずとも、「ある日夫がでかけたまま戻らなくなった。夫人は哀しみをたたえたまま暮らすが、20年以上たったある日、出て行ったときと同じように夫が戻ってくる」という話はどこかで聞いたことがあるにちがいない。たぶんわたしは子供の頃、『ムー』のような雑誌でそういう記事を目にしていたはずだ。何よりも、本作でとったウェイクフィールドの無鉄砲さにあこがれる気持ちはどうしても否定できない。

たしかにこの上なく異例な出来事であり、他に類を見ず、おそらくは二度とくり返されぬであろうとはいえ、人間誰しも持つ同情心に訴えるところがあると筆者は信じるものである。

それまでの生活をすべて捨ててまったく違う自分になりたいという願望。それまでの生活が立派でパーソナリティが強ければ強いほど、それを放り投げたときの爽快感もまたひとしおだろう。

しかし『ウェイクフィールド』(この名前も「目覚める」「野原」という言葉が連なっており、なんとなく思わせぶりだ)のあらすじを読んでもあまり新鮮味を感じることはなかった。ジェイコブ「猿の手」のように不思議であり謎は解明されていないが、既存の知識として埃をかぶって貯えられてしまっており、それは本書に収録されている「ウェイクフィールド」を読んでもあまり印象は変わらない。

「ウェイクフィールドの妻」はそんな「ウェイクフィールド」を置き去りにされた妻の視点から描き出した意欲作。ある作品を別視点から他人が描くことは、世界観を壊してしまいそうで、読むわたしがこわい。しかし「ウェイクフィールド」には読者それぞれの世界観を許すだけの懐の深さがある。すでに「ウェイクフィールド」自体が伝聞で知ったという作りでノンフィクションではないというスタンスであり、想像をふくらませた物語をさらに想像で広げようとしたのが「ウェイクフィールドの妻」であります。

訳者あとがきで柴田元幸がたくさん書いているように、フェミニズム的視点をことさらに顕示するものではなく、かつウェイクフィールドが蒸発した謎を解こうとも試みない「ウェイクフィールドの妻」は元の世界観を生かしたうえに、繊細な手触りで偽未亡人の生活を追っていくもので、地味だがおもしろい。長年使った木のまな板を新調して厚さが変わったりすると違和感を感じるものですが、いつの間にかまた手と包丁に馴染んでいくものです。そんなふうに「ウェイクフィールドの妻」は徐々に「ウェイクフィールド」という作品に馴染んでいき、最後にはまるで別人が書いたとは思えないようにしっくり合わさります。この馴染み感こそがウェイクフィールドの妻エリザベスが得ていくものであり、一方勝手に失踪したウェイクフィールドが得られなかったものなのかもしれません。派手な事件はありませんが、名作の換骨奪胎に挑戦しそれを見事に達成しているエドゥアルド・ベルティ、アルゼンチンの作家ということを差し引いても、新潮クレストあたりを好きな読者には見逃せない一人ではないでしょうか。

2008年03月22日

スティーヴン・ミルハウザー『ナイフ投げ師』(白水社)

ナイフ投げ師
ナイフ投げ師
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スティーヴン・ミルハウザー 柴田 元幸
白水社 (2008/01)
売り上げランキング: 2776

ミルハウザーを読むのはこれで3冊目かな。『バーナム博物館』を途中で投げ出し、『マーティン・ドレスラーの夢』は読み通したけれどもあまり心を動かされなかった。そして、今回、少しその理由が分かったような気がする。

一言で言うと、あまりにフィクションすぎるのだ。あとがきを待たずとも作中に歴史上の実在した事象が織り込まれるけれども、それがかえって嘘くささを助長しているとすら言える。そのフィクション性が売りなんだろうと思うけれども、わたし自身はどうしてもリアルさにこだわってしまう性向があるため、手放しでほめられないのがつらい。リアルさとは何か、わたしにとってそれは混沌だと思う。決して誰か一人が勝利者ではなく、何かを手に入れれば何かを失う。一見すべてを成し遂げる万能者であっても、必ずどこかで帳尻を合わせなければいけない。だからいわゆるデウス・エクス・マキナというやつは好きになれない。因果応報がなければ物語ではない、とすら思っている。

たとえば表題作は語り手がほのめかしてはいるものの、ナイフ投げ師の所業について社会的な罰は科されていない。そんなナイフ投げ師がいた、というところで終わってしまっている。わたしはその先が読みたいのだ。そのナイフ投げ師はいつまで興業を続けられるのか、いっしょにステージに上がっているアシスタントとはどういう関係なのか。語られている表面だけでは満足できない。

というわけでミルハウザーが自分に合わないことが少し理解できたことで、本書は非常に意義がありました。でも、ミルハウザーを好きな人と本の趣味が合うことも多く、そういう時に語られるどこまでを自分の興味ある情報として受け入れればいいのか、まだ謎は続きます。

2008年04月26日

ニール・ウィリアムズ『フォー・レターズ・オブ・ラブ』(アーティストハウス)

フォー・レターズ・オブ・ラブ
ニール ウィリアムズ
アーティストハウスパブリッシャーズ
売り上げランキング: 894609

まったく知らない作家ながら、帯のパブリッシャー・ウィークリーのコメント「叙情的で感動的なアイルランドのマジック・リアリズム」ときたら読まずにはいられまい。

神の啓示を受けて公務員から画家になった無口な父を持つニコラス。一方、小さな島で仲むつまじく暮らしていた校長をつとめるゴア一家で、突然長男ショーンが植物人間となり、さらに長女イザベラは学校もろくに行かずに男に熱を上げてしまい、街でぶらぶらしている。幸福とは縁遠くなってしまった二つの家族が結びついたのは、偶然のように見える運命だったのかもしれない。

マジック・リアリズムといわれればなるほどマジック・リアリズムにカテゴライズされるべきでしょう。でも、ガルシア=マルケスに代表される中南米のマジック・リアリズムは日常的に不思議なことが起こりそれが当事者たちには当たり前なのに比べて、本作ではパズルでいったら最後の1ピースがきっちり収まった時の愉悦、スポーツだったらハンカチ王子の投手戦のような、あるべきものがあるべき場所におさまりすぎた完璧さの訪れた結果であります。それゆえ現実が物理のルールに耐えきれずたわんだゆえに漏れ出してくる異世界の光といった趣。その発現がアイルランドらしく音楽だったりするところも好印象。BGMは普段あまり聴かないIONAでしたが、後半の盛り上がりにはぴったりでした。

わたしはほとんど読んだことありませんが、バリー・ユアグローなど柴田元幸系とカテゴライズしてしまいたい、ちょっと不思議な感覚が受け入れられる人にはおすすめ。しかし、ちょっぴり物語優先となってしまって作者の都合の良さが出てしまったのがややマイナス。ショーンの看護やイザベルのすさみ具合などのディティールがかっとばされているところも多く、ロマンチックなところがちょっと強すぎてきれいにまとまりすぎたきらいはあります。しかし、最後まで展開は分からないし、個人の立場ゆえの葛藤が響いてきてよどみなく読み通すことができました。盛り上がったキャッチボールができたときのような、爽快な読後感でした。

2008年05月04日

ドリス・レッシング『生存者の回想』(サンリオ文庫)

生存者の回想 (フィクションの楽しみ)
ドリス・レッシング
水声社
売り上げランキング: 354811

昨年ノーベル文学賞を受賞したドリス・レッシング1974年の作品。わたしはサンリオ文庫で読みましたが、現在は水声社から「フィクションの楽しみ」というシリーズで復刊されています。同じ訳者ですが、水声社版は訳が直されているのかどうか分かりません。

内容はわたしが好きな世紀末もの。世界はどんどん悪くなりいずれ住居を捨ててもっと住みやすいところに移住しなければならないと思っている女性が語り手。そこにある日11歳の少女エミリと、おそらくチャウチャウと思われる犬だか猫だか分からない生物ヒューゴゥが預けられる。エミリは良い子の猫かぶりをしつつも、徐々に外の若者たちに溶け込んでいく。しかし、人々は荷物をまとめて徐々に街を離れていく。ヒューゴゥを残してはいけないエミリ。やがて、人々をまとめるリーダージェラルドと深い関係になっていく。

世紀末の退廃を抑えた筆致で淡々と描いている。しかも語り手はほとんど外部との接触がなく、非常に主観的でありながら、子供たちを中心とした混乱をあたかも自分には関係がないように捉えている。この冷静さとは裏腹に、語り手は壁を通り抜けて異なる世界に入り込むことができる。そこでは散らかった部屋を片付けたり、幼い頃のエミリを目撃したりする。いわゆる「信用できない語り手」というわけではないのだが、実世界で冷静さを保つ語り手が、異世界に入り込んだ自分を冷静に描写しているのはかえって正気であることに疑いを感じさせる。いつカタストロフが訪れるか分からない世界といい、エミリに関わったゆえに語り手の世界はいつ何時罅が入るかもしれない危うさを感じさせる。茫洋とした崩壊への足音を感じることこそが本書のおもしろさ。

特に気に入ったのが、人間の叡智なんて頼りにならないと嘆くシーン。

犬や猫や猿は、月まで飛んでいくロケットを作ることはできないし、石油の副産物から人工的な服地を紡ぎ出すことはできないと。しかし、この多種多様な知性の廃墟にすわる羽目になってみると、知性に大きな価値を与えるのはむずかしように思われてくる。(中略)知性は、その正しい場所を見出さなければならない。だが、それでもやはり、かなり低い場所になると私は思う。

後半に入って暴徒化した子供達の「脈絡のなさ」が取り上げられ、語り手とエミリはそれに怯えショックを受ける。突然暴力的になったり、にやにやと媚を売ったりしかめつらをしたりする子供の「脈絡のなさ」は、普段は静かに凪いでいる海が台風とともに荒れ狂い人や物を破壊するのと同じ不条理。その不条理を恐れながらもコントロールしようとすることは畏れ多いことだ、と諦めてしまっているところに読んでいるわたしは少し共感しました。自分たちの楽しみや富を求めて、一度絶滅したら二度と戻らない種の生き残る自然を平気でばっさり切り崩してしまう人間の愚かさの果てを描いたような作品です。同じ世紀末の崩壊感を描いた『鉄の夢』とは全く趣が異なりますが、自らの習慣さえも客観視できる冷徹な観察し描写するおもしろさは地味だけどわたし好み。やや冗長なところもありますがおすすめです。

2008年05月18日

ウィリアム・トレヴァー『聖母の贈り物』(国書刊行会)

聖母の贈り物 (短篇小説の快楽)
ウィリアム・トレヴァー
国書刊行会
売り上げランキング: 89790

唐突にランク付けをするなら、コルタサル、ナボコフ、ガルシア=マルケスと同じレベルの衝撃を受けた短編集と言い切ってしまいたい。登場人物はそれぞれ夢のお告げや過去への憧憬を執念深く抱いており、やや一般の人々になじまない面を持つ。彼らの思い入れを肯定しつつも、現実には受け入れられていない事実もきっちり描き出すところがトレヴァーの残酷であり恐ろしいところ。思い入れが社会にそぐわないときに社会からつまはじきにされてしまう拒絶の状態が静かに、しかし確実に進行しており、常に恐怖感がつきまとう読書でした。ホラーよりもこういう話の方がこわい。

冒頭の「トリッジ」から不穏さは漂っていたが、「こわれた家庭」を読んでトレヴァーがただものではないことを確信した。あらすじは老婆の家にボランティアの学生が送り込まれて意にそぐわない家の改修をされてしまうというもの。一見ただの不条理ものだが、ラスト間際で主人公の老婆が信じてきた現実ががらがらと壊れていく、壊してしまう手法が怖い。別に年寄りでなくても、今の自分が正しいのかまちがっているのかは誰にも答えが出せず、もしかしたらとてつもないまちがいを毎日繰り返しているのかもしれないわけで、それが現実に突きつけられたらどれほど落胆することか。人生をわたしの倍以上過ごして自分の生き方に確信を持ってきた老婆(とはいえ考え方も身体もまだまだしっかりしている)が、自分の考え方から大切な思い出のつまった住処まで強制的に変えられてしまったらどれほどつらいだろう、と同情してしまう。思っていても言葉にされなかったこと、事実とされているものごとの裏にたくさんの人の感情が動いていて、普段は常に確執を起こさないようにねじ曲げられていることを突きつけられます。さしづめ、満員電車で互いの視線が合わないように身体の向きを変えたり顔をそらしたりするような行動が、日常生活の見えないところで繰り広げられている。それをわずか30ページ足らずでつまびらかにしてしまうトレヴァーの力に脱帽。

思慮深さ、敏感さを湛えているこころに波風を起こす他人は、憎むべき敵であり、敵に対しては身内であっても時に冷酷であらねばならない、とするのはこの短編集でもっとも長い「マティルダのイングランド」。3編に分かれた中編で、9歳の時にテニスコートの思い出があり、2年後には父親が戦争で家を不在にし、戦争が終わってしばらくした21歳で結婚するマティルダの物語。シビアな「Papa told me」とおおざっぱなくくりをしたくなるように、家庭の崩壊をテーマにし、古き良き思い出を温め続ける者はそれを大切にする一方、思い出を共有できない者への異常な敵対心が物語の動機になっていることが分かってくる。ここで腐敗した感情は、次の「聖母の贈り物」では発酵の域に達しています。

自分にとっては大傑作でも、他人に勧めるには思い入れが強すぎたり、自分の思い入れが吐露されていて恥ずかしかったり、他人に共感されないことが自己否定につながりそうな恐れ・ためらいを抱く作品があります。わたしが好きな少女漫画は少女漫画を読んでいる事実を他人に知られたくないという表面的な取り繕いよりも、その漫画で描かれている感情の揺れに共感している自分を見られたくないし、作品とわたしだけの関係でありたいという独占欲が多分にあります。この本もそう。誰にも読まれたくない一冊です。

2008年06月22日

ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』(新潮文庫)

最後の晩餐の作り方 (新潮文庫)
ジョン ランチェスター
新潮社
売り上げランキング: 82532

古本ともだちの某Xさん他に勧められて、料理の蘊蓄が並べられているとあっては読まねばなるまいといったん紐解くも、あまりのうっとうしい文体にうんざりして書を置くこと三度。それでもきっとおもしろいはず、と思って最後まで読み通しました。慣れるとこのスタイルの意味が分かるのだけど、そこまでがちょっとつらかった。別に訳文が悪いなんてことはなく、むしろ料理の用語などほぼ完璧なのですが、元々がうっとうしい。とはいえ鈍いわたしには本作の語りのうっとうしさにごまかされて、語られた裏で行われた事象にはあまり気づかず、おいしそうだが鼻持ちならない態度で語られる料理の数々に心奪われていたのでした。

まず冬。冬のメニューはブイヤベース。元は漁師が売り物にならない魚を船上でトマトスープで煮込んだものと言われていますが、作者にかかるとまず「地中海から離れたところでブイヤベースは作れるか」という問題から始まり、材料とレシピがとうとうと述べられる。

カナガシラ、モンクフィッシュ[アンコウ]、アングラーフィッシュ[アンコウ]、ロット[アンコウ]、ボードロワ[アンコウ]——要は同じことだが、ボードロワはフランス語でロットはプロヴァンス語、これもまた子供には恐ろしい容貌の魚で——さらに一、二尾加えたいベラはレインボウベラ(ジレル)でも粋な婆さん(ヴィエイユ・コケット)なる洒落た名のついたコケットベラでもかまいませんが、これを生まれて初めて食べたときにもやはり母親がいっしょだった。魚はうろこやヒレ、内臓をとりのぞき、大きいものはぶつ切りにする。プロヴァンス産オリーブ油をグラス二杯、トマトの水煮一缶用意。自分で生トマトの皮をむき、種をとりのぞいて、ざく切りにしてもよい。個人的にはトマト缶は現代生活において無条件にありがたい数少ないもののひとつだと思っています(歯科医やコンパクト・ディスクと並んで)。大きくて立派なソースパンを火にかけ、オリーブ油グラス一杯を熱してニンニクのみじん切りをいためる。トマトとサフランをひとつまみ加え、イギリスでは塩素消毒した元廃棄物にほかならない液体(水ともいう)を六パイント注いで煮立てる。最初にとげとげの魚類を入れ、二杯目のオリーブ油を足して十五分間沸騰させ、すべすべした残りの魚も入れて、さらに五分煮る。ぶつ切りや姿煮となった魚をスープ用深皿タイプの大きな皿に盛り、スープは別に供してクルトンとルイユを添える。ルイユについてここでくわしく述べている暇はないようですね。長風呂で手の指がしわしわになってきた。

たかだか1ページですが、小説で語られるレベルのレシピを大きく超越しています。よしながふみの『きのう何食べた?』もだいぶ料理の話ばかりで、料理なんてのは出てきたのをそのまま口に流し込めばよく、どう作られようが知ったことではないというスタイルの人には無用の長物、一方で毎日の料理をいかに楽しく充実させるかに心を砕く人にとっては最良の漫画にも近い。が、こちらの贅沢ぶりかつ博覧強記は優雅とかスノッブという言葉では足りない。引用した文章の後にもヒラメは使っていいかどうか、イカ墨を入れるのはありかなしかなどの論議でページはどんどん費やされていきます。シャンパンもモエやドンペリではなくクリュッグというところも憎たらしく、食事の後はソーテルヌ派などと宣言する。ソーテルヌ派以外にいったいどんな派閥があるというのか。コーヒー派とか、紅茶派くらいなら許せるが、ポルト派、トカイ派なんてもんがあるのか。フランスだからコニャック派か。とブルジョワのしつこさにうんざりすることまちがいなし。

ところで、偶然にもこの後に読んだ『ずっとお城で暮らしてる』でも同じキノコAmanita Phalloidesが登場したところがおもしろい。それだけヨーロッパでは身近にある猛毒という扱いで、かつキノコに詳しい人には思うままに使えるものという位置づけなのだろう。

食べ物や風俗が細々と語られて肝心の小説の中身がどうでも良くなるというのが欠点であり美点の小説という位置づけで、おもしろいつまらないという判断を超越して、もう一度本作を読み直してレシピの数々を自分のレパートリーに加えたいです。ただし、カレーとかオムレツあたりの日本のスーパーマーケットの材料でできる範囲のもので。血の滴るような仔羊のヒレや兎の調理法は欧米人に生まれ変わった来世にとっておくことにしたい。

2008年07月05日

シャーリイ・ジャクスン『ずっとお城で暮らしてる』(創元推理文庫)

ずっとお城で暮らしてる (創元推理文庫 F シ 5-2)
シャーリイ・ジャクスン
東京創元社
売り上げランキング: 19721

「引きこもり」。これを解決すべき社会問題とみなす人と甘美な快楽とみなす人、世の中は引きこもりについて意見が分かれる。そしてわたしはまちがいなく後者であり、前者を「おせっかい」と認定している。

本書はちょっと複雑な事情で美人姉妹と叔父が大きな屋敷に引きこもっている話。他の家族は何らかの理由でみないない。そして生き残った姉妹と叔父は村の民から目の敵にされている。特別なところは何もない普段の買い物にぴんと張り詰めた緊張感を描いたところは実に秀逸で、世界はみな敵で自分たちだけが正しいという視野狭窄な視点だが、つい姉妹に肩入れして読んでしまう。

ステラの店にいるあいだにだれかが入ってきたら、あたしはすばやく立ちあがって外に出て行く。でもときには運が悪いこともある。この日の朝、ステラがカウンターにあたしのコーヒーを置いたとたん、入り口に影が差し、ステラが顔を上げて「おはようさん、ジム」と声をかけた。ステラはカウンターの反対の端まで行って待っていた。客がそこにすわれば、あたしがこっそり帰れると考えたのだ。でもやってきたのはジム・ドネルで、あたしはすぐさま今日は運が悪いとさとった。村人たちのなかには、あたしが知っていて、個別に憎んでやれる本物の顔を持ったやつが何人かいる。ジム・ドネルと女房もその仲間だ。ほかの人々のように、習慣でなんとなくあたしたちを嫌っているわけではなく、意図的に憎しみをぶつけてくるのだから。たいていの人なら、ステラの待っているカウンターの端に腰をおろしたはずだが、ジム・ドネルはあたしがいる端へまっすぐにやってきて、できるだけあたしに近い場所、となりのスツールにすわった。けさはあたしを困らせてやろうともくろんでいたからだ。

語り手のメリキャットは広い世界を知らない子供にありがちなさまざまなまじないや、一日の運勢をちょっとした予兆で決めつける。わたしも通学の途中で登った坂の上から、一つ先の山を眺めて一本だけ周囲より抜きんでて高い木を見つけられたら今日は運がいい、霧などでけぶっていたら調子が悪いと判定していたことがあったので、メリキャットの一つ一つ身近なものの動きに敏感に反応して自分勝手なまじないに耽る気持ちはよくわかる。しかも資産家だったので、金はうなるほどあり、高価なものを平気で木にくくりつけたりして野ざらしにしたりする。それがきっかけでまさにメッキがはげる事件などもあり、実に愉快。さらにつきものの猫までいる完璧な内的世界なのであります。

わたしにはミステリのアンテナが立っていないので、語られていない事件の真相などにはあまり興味がなく、ひたすらに彼女たちの送る甘くもきちんとした生活を眺めていられるのが楽しい。女性同士の引きこもりといったら、わたしにとっては榛野なな恵のもっともアナーキーな作品『ピエタ』を引き合いに出さずにはいられない。決定的に異なるのは火の使われ方だ。榛野なな恵は敵を焼き殺そうとする(紙屋研究所さんの『ピエタ』レビュー)が、本書では「魔女裁判」として使われる。だから、村人は後に反省したりするのだ。だから決して一般人の醜さ、狂気だけをとりあげているのではなく、裏表紙の「人間心理に潜む邪悪を描いた」というのはやや一面的に過ぎる意見に見えた。人間でもイナゴでも集まったらろくなことをしでかさないのは今に始まった話ではない。

梅雨時に窓を閉め切って冷房をドライにし、電話もテレビも音楽もとめてタオルケットにくるまって息を潜めて読むべき、今が旬の一冊。

2008年07月20日

レーモン・クノー『イカロスの飛行』(ちくま文庫)

イカロスの飛行 (ちくま文庫)
滝田 文彦 レーモン・クノー Raymond Queneau
筑摩書房
売り上げランキング: 600632

ちくま文庫の海外文学品切れぶりにはうんざりしている。その筆頭が本書ともう一つ、ナボコフの『青白い炎』だ(『ナボコフの一ダース』はそれに比べればまし)。マンスフィールドなんかも品切れという名の絶版になって久しいようです。在庫の回転が早く、品切れになるまで時間がかからない現在に出版されてから5年という月日は永久のようでさえあります。この前の『ロリータ』ブームで復刊しておけばよかったのに。

愚痴はこのくらいにしてレーモン・クノーであります。ちくま文庫の高騰もさることながら、『はまむぎ』『青い花』のレアぶりに「とんでもなく難しいブンガクだからこんなに評判が高いにちがいない」と勝手におそれをなしておったのですが、ある時『文体練習』の破天荒ぶり(主に訳が)に出会って、クノーの文章にわたしは笑いを感じられると気づきました。『文体練習』は文字通りあるシチュエーションを文体を変えて書き分けるものですが、清少納言バージョン(20世紀フランス文学なのに!)など小難しそうな文体というものを楽しく理解するに最適な入門書かつ究極の一冊です。

さて、本書は小説といいながら戯曲の形をとっています。とある小説家の文章から逃げ出したイカロスはパリの街に迷い込み、カフェではすっぱな女性LNに出会う。小説家は探偵を差し向けてイカロスをなんとしてでも捕まえたい。この追いかけっこを中心に他の小説家たちも巻き込み大騒動が持ち上がるというミステリ愛好者にもおすすめできる一冊。

なんといっても本書で大切なのはアブサンです。アブサンがどれほどおいしいか、どれほど幸せをもたらすかについて1000ページを費やすよりも、イカロスがカフェでアブサン(作中での表記はアプサント)の飲み方をレクチャーされるところを読むがいい。大胆にもアブサンに直接水を注いだイカロスは酒場の酔客から叱られる。

ボーイがもう一杯アプサントを持って来る。イカロスはグラスの方に手をのばす。

第一の客  やめな、この野郎!(イカロスはあわてて手を引っこおめる)そんなふうに飲むもんじゃない。やって見せてやる。まずさじを、もうアプサントが静かに治まったグラスの上に持って行く、つぎにもう気がついてるだろ、変な形をしたそのさじの上に氷砂糖のかけらを乗せる。それからごくゆっくり水を氷砂糖のかけらの上に注ぐ、とかけらは溶けはじめて一滴一滴豊かな糖化の雨が霊液の中に落ち、それを雲のように曇らせる。それからまた水を注ぐ、とまたポタポタ玉になる、そうやって砂糖が溶けるまで、でも霊液があまり水っぽくならないよう続けるんだ。見てごらん、ほらきみ、どんな具合に調合されてゆくか……途方もない錬金術だ……
イカロス  なんてきれいなんでしょう!

ああうまそう。液体に液体を混ぜて神秘的な霊薬になる瞬間がわたしは大好き。カレーだって元はスパイスという名のなめてもうまくない粉をトマトや水と混ぜるととんでもなくうまいご飯になるでしょう。そういう物質の変化の瞬間をとらえた小説に駄作はありません。ちょっと見つけづらい本ですが、パリの狂騒的で快楽的な空間を楽しめます。そしてちくまはとっとと復刊してください。

2008年08月14日

ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』(NHK出版)

白の闇 新装版
白の闇 新装版
posted with amazlet at 08.08.14
ジョゼ・サラマーゴ
日本放送出版協会
売り上げランキング: 27758

フィクションでも風景が見えて手触りを感じられ風の音が聞こえるような小説に、わたしは弱い。それは描写が細かければいいというわけではなく、適度なリズム感や適切な言葉の選び方などにも左右される。しかし何より大切なのは読者であるわたしが知覚できるようなことが漏れなく描かれていることだ。本書では突然伝染性の盲目になった人々が陥るパニックをうまく描いている。中心になるのは皮肉にも眼科の医者と、唯一盲にならなかった妻。二人の周囲には初めて失明した男とその妻、セックスの最中に失明した若い女性や幼い少年などが集まり、同じ病に陥った人々による連帯感が生まれる。

これは小説の時点で映像に近いイメージを紡ぐことに成功しており、映画化されたと聞いてもあまり小説からの飛躍はなさそうだ、と思う。とにかくリーダビリティが高く結構分厚くてもあっという間に読める。また、本を途中でおけなくなるほど次々に降りかかる盲目故の災難と、それに振り回される国家と犠牲になる人々の緊迫感がすごい。ノーベル文学賞作家のSF傑作として記憶力の悪いわたしの脳裏にもきっちり刻み込まれました。

2009年01月04日

アラスター・グレイ『哀れなるものたち』(ハヤカワepiブック・プラネット)

哀れなるものたち (ハヤカワepiブック・プラネット)
アラスター・グレイ
早川書房
売り上げランキング: 75026

2009年の1冊目にこれほどの傑作を読めたことを神に感謝したい。フランケンシュタインをベースにしたSFファンタジーでありつつ、手記の形式をとり誰が真相を語っているのか分からないメタフィクションの形式で紡がれる。図書館で借りてしまいましたが、早速書店に買いに行って再読したい気持ちを抑えられない。

最初の手記は、アーチボールド・マッキャンドレスという医師が、高名だが孤独に研究を続けるゴドウィン・バクスターと出会い、ベラ・バクスターなる女性に出会うところから始まる。彼女はとある方法で死を免れたが記憶喪失となり一から人生をやり直しているという設定だが、暴れ馬のように周囲の男たちを振り回し続ける。バクスターのラストには本来ベラの役割となる不気味さと優しさを一手に引き受けた謎の人物の悲哀があった。泣けた。

そしてこの手記が終わると、題材にされたベラ・バクスターによる長い手紙があり、さらに全体を通した「批評的歴史的な註」がある。この註は小説上、非常に重要な役割を果たしており真実を陽炎の先にゆらめくものとしている。ベラの不穏な手紙からは先に記された手記がまったくのでたらめであるとされながらも、註は彼女の手紙の内容を裏付けながらも最後に年齢を記すことで手記そのものの信憑性を裏付けるような仕組みになっている。このラストは本当にぞっとしたし、『エンジン・サマー』で回帰するときのような語られることがつながったときの高揚感がありました。

一つ分からなかったのが手記の表紙となる箇所に書かれた訂正で、ジャン・マルタン・シャルコー教授ではなく、(確か)物語に登場しない人物のエッチングであったというところ。モンテスキュー−フゼンザック伯爵なんていたっけ?

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