世界報道写真50周年記念展 絶望と希望の半世紀
恵比寿にある東京都写真美術館で開催されている世界報道写真50周年記念展 絶望と希望の半世紀に行ってきました(〜2006/9/10)。第二次世界大戦が終わって10年たった1955年頃以降の雑誌や新聞に掲載された写真展で、副題から受ける印象よりもかなり絶望方面が充実しています。
10年ごとに構成が分かれており、わたしのようにジャーナリズムに疎い者でも見たことのあるベネトンぽい写真や、ジョン・F・ケネディの暗殺、ベトナム戦争でゲリラの頭を吹っ飛ばす瞬間など、時代を象徴するほどに有名な写真が並んでいます。
戦後すぐはまだビデオカメラ、また受像機のテレビが発達していないので静止画に決定的なメッセージが託されていましたが、時代を経るにつれその役割がテレビを使った動画に変遷していくことが印象的でした。その決定的な草分けはアメリカ大統領暗殺という事件でしょう。何枚もの写真も、頭を吹き飛ばされた瞬間の動きには勝てない。また、撃たれた直後に、ケネディ夫人が飛び散った脳みそを集めるためにリンカーンの後部に這い出るさまは、被害者とその遺族がとる本能的な行動をえぐり出すようで、何度も見た映像だけれども衝撃を受けます。最近は、「ショック画像100連発」のような、死人がどーんとテレビに写し出されることは、日本ではほとんどなくなりましたね。子供の頃は大好きだったものですが、若い方によくある「人を殺してみたい」という危険な欲望をある程度解消していた番組だったと思いますので、あまり倫理をうるさく騒ぎ立てずに見せてあげればいいのにな、と考えました。
動画が主流になるにつれ、事件の中心にはカメラではなくビデオカメラが据えられるようになります。日本では学生運動のさなか、カメラが押し合う警官と暴徒を上からとらえたり、放水ホースを構える消防士の眼に浮かぶゆるがない決意をとらえています。これが、最近になると事件の中心ではなく、引いたところからカメラが俯瞰する。または、事件によって引き起こされる飢饉、難民、カボジ肉腫など、人々の生活を写し出すことによって大きな問題に還元していくようです。特にブラジルの有名な写真家セバスチャン・サルガドあたりになると、事件そのものというよりも写真家の意図が強く出ているように思えます。事実を「ありのまま」伝えることがジャーナリズムの最低条件だと信じてきたわたしには、事実を伝えるために現実を加工することがはたしてジャーナリズムと称していいのか疑問が残ります。それは次の読書会でとりあげられるカポーティ『冷血』でも感じたことと同じです。一歩まちがうと事件をかさにきた売名行為になりかねません。ナイーブかもしれませんが、事実の裏で情報を操作されている可能性もある、と疑いのうえにさらに疑いを重ねることになり、どんよりとした気持ちで会場を後にしました。

