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写真 アーカイブ

2006年09月03日

世界報道写真50周年記念展 絶望と希望の半世紀

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恵比寿にある東京都写真美術館で開催されている世界報道写真50周年記念展 絶望と希望の半世紀に行ってきました(〜2006/9/10)。第二次世界大戦が終わって10年たった1955年頃以降の雑誌や新聞に掲載された写真展で、副題から受ける印象よりもかなり絶望方面が充実しています。

10年ごとに構成が分かれており、わたしのようにジャーナリズムに疎い者でも見たことのあるベネトンぽい写真や、ジョン・F・ケネディの暗殺、ベトナム戦争でゲリラの頭を吹っ飛ばす瞬間など、時代を象徴するほどに有名な写真が並んでいます。

戦後すぐはまだビデオカメラ、また受像機のテレビが発達していないので静止画に決定的なメッセージが託されていましたが、時代を経るにつれその役割がテレビを使った動画に変遷していくことが印象的でした。その決定的な草分けはアメリカ大統領暗殺という事件でしょう。何枚もの写真も、頭を吹き飛ばされた瞬間の動きには勝てない。また、撃たれた直後に、ケネディ夫人が飛び散った脳みそを集めるためにリンカーンの後部に這い出るさまは、被害者とその遺族がとる本能的な行動をえぐり出すようで、何度も見た映像だけれども衝撃を受けます。最近は、「ショック画像100連発」のような、死人がどーんとテレビに写し出されることは、日本ではほとんどなくなりましたね。子供の頃は大好きだったものですが、若い方によくある「人を殺してみたい」という危険な欲望をある程度解消していた番組だったと思いますので、あまり倫理をうるさく騒ぎ立てずに見せてあげればいいのにな、と考えました。

動画が主流になるにつれ、事件の中心にはカメラではなくビデオカメラが据えられるようになります。日本では学生運動のさなか、カメラが押し合う警官と暴徒を上からとらえたり、放水ホースを構える消防士の眼に浮かぶゆるがない決意をとらえています。これが、最近になると事件の中心ではなく、引いたところからカメラが俯瞰する。または、事件によって引き起こされる飢饉、難民、カボジ肉腫など、人々の生活を写し出すことによって大きな問題に還元していくようです。特にブラジルの有名な写真家セバスチャン・サルガドあたりになると、事件そのものというよりも写真家の意図が強く出ているように思えます。事実を「ありのまま」伝えることがジャーナリズムの最低条件だと信じてきたわたしには、事実を伝えるために現実を加工することがはたしてジャーナリズムと称していいのか疑問が残ります。それは次の読書会でとりあげられるカポーティ『冷血』でも感じたことと同じです。一歩まちがうと事件をかさにきた売名行為になりかねません。ナイーブかもしれませんが、事実の裏で情報を操作されている可能性もある、と疑いのうえにさらに疑いを重ねることになり、どんよりとした気持ちで会場を後にしました。

2007年03月25日

"TOKYO"マグナムが撮った東京

"TOKYO"マグナムが撮った東京を見てきました。雨風の強い日曜朝一番ということもあって、客足はほどほど、落ち着いて見られました。何よりそれほど広くないので疲れないのがいい。

「マグナム」というのはロバート・キャパをはじめとした写真家たちが、自分たちの写真を勝手にトリミングや複製されないために作り上げた集団だそうで、シャンパンの大きいサイズ「マグナム」サイズから採られているそうです。道理でロバート・キャパ『ちょっとピンぼけ』でもかぱかぱとシャンパンの瓶を開けているはずです。彼らに比べればわたしなんて酒を呑むのではなくついばむ程度だと妙な安心をしました。

展覧会では1950年代から2000年代までの日本を、主に外国人のフィルターを通して紹介されています。労働問題や風俗(タケノコ族など)など時代性を感じるものもあれば、日本そのものを切り取ったような姿勢のものもあります。特に印象に残ったのは、3Fのロビーにも展示されている、靖国神社に降りしきる雪の中を二人の男が唐傘を持っていくところ。実に意思のある横顔です。また、同じ靖国神社にたてかけられた唐傘の中に、一つだけ青のビニール傘が混じっているのもユーモアがある。

日常の風景と思っているような写真が実はもう20年も前のものだったりして、異邦人による客観的な視点から改めて日本を眺めると、まるで自分も別世界からやってきたような不思議な心地悪さを感じます。過去の自分を間近に見ているむずむず感。それでいて妙にいとおしい。変わってきた東京と変わらない東京の両方を客観的に見ておくことは、美術的な問題云々よりも自らの存在を見つめ直す哲学的なおもしろさがありました。もちろん、きりっと情景を切り取る手際を見習うためにも、ぜひ。

2008年05月05日

マリオ・ジャコメッリ展

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朝から東京都写真美術館で明日まで開催されているマリオ・ジャコメッリ展に。結構な人出。マリオ・ジャコメッリは新日曜美術館で見かけたのだったか、テレビで数分の時間目撃しただけで白と黒のコントラストに引き込まれた。神学校の生徒たちが雪の降る中を無邪気にはしゃぐ写真は、楽しそうなのにもう失われた時間を見ているようで強い寂しさに捕らわれた。しかし日常に紛れてしまい展覧会の存在を思い出したのは昨日。ダメだ。

印刷会社で働いていたジャコメッリは28歳のクリスマスイブにカメラを手に入れてから、アマチュア写真家として亡くなる2002年まで撮り続けたそう。展示されていたのはすべてモノトーン。神学校の生徒以外で印象に残ったのは、海岸の人たちをかなり上空から撮影したもの。黄昏近くになると波が上からではなく斜めや横から太陽に照らされて、「もう帰らなくては」と反射的に思ってしまう時間帯の海。サーファーたちが沖に上がり、ビニールシートに腰を下ろしている人たちが立ち上がって砂を払う頃。もし時間を止められるならこの光景をずっと眺めていたいと思う。それを意外な視点から止めてしまったジャコメッリに脱帽です。

当たり前なのだけど、どの写真からも音がしません。でも、雑誌などに載っているカラー写真からは賑やかな色彩に混じって被撮影者の声がなんとなく聞こえるような感じがするのです。風景の写真集なら情景の視覚的な視覚にともなって、風や雨の音などが反射的に脳内で再生されたりする。それがジャコメッリの写真からは全く感じられなかった。全てが無音。死期の近い老人が横たわっている写真でも、海鳥が乱舞している写真でも、実際の情景を彷彿するよりも切り取られた写真の一瞬のイメージが強い。休み時間の終わった神学生は、さんざん遊んだ後で服についた雪を払い落とし、また次の授業を受けるのかもしれない。草むらで抱き合っているカップルはその後も仲むつまじく暖かい日光を浴びて抱き合い続けるのかもしれない。でも、写真を見ているときはそんなことは全く考えられず、白と黒だけで切り抜かれた瞬間、そこだけに自分の意識が存在するような、奥行きを否定するような印象を受けました。

2008年06月28日

『アンリ・カルティエ=ブレッソン写真集 ポートレイト内なる静寂』(岩波書店)

ポートレイト 内なる静寂―アンリ・カルティエ=ブレッソン写真集
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写真を芸術扱いすることがずっと理解できなかった。絵画だったら静物画一枚でも絵筆のタッチや色彩の置き方など、画家の技術が駆使されて唯一無二のものだと分かる。しかし、写真なんてタイミング次第で誰でも同じものを撮影できてしまうもので、それのどこがおもしろいのか良く分からなかった。それでもこのところ写真のおもしろさがうっすら分かってきたように思う。同じ写真なんて実は撮れない。特に本書のようなポートレートは、まずその人に会うことから始まり、その人が見せる一瞬の表情を切り取る技術が必要であり、それよりもなによりも人が油断したり笑ったりする感情を引き起こさせるだけのものがなければならない。それはもしかしたら徳と呼ばれるものが必要なのかも。

アンリ・カルティエ=ブレッソンはフランスに生まれて第二次世界大戦を経験し、ロバート・キャパらと共に「マグナム」を組織した20世紀を代表する写真家。モノクロの中に躍動する人物の写真が有名だが、本書は著名人たちのポートレートばかりを集めたもの。なんといってもここで見られるマリリン・モンローは美しい。これだけで本書を所有する価値があると言っても過言ではない。マリリン・モンローというとにっこり笑ってひらひらの服を着ている金髪でちょっと脳の足りないかわい子ちゃんというイメージが作られているが、この写真には神々しいと形容したいほどの圧倒的な美しさが湛えられている。

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他にも撮影されているのは有名人ばかり。ジョルジュ・ルオー、クリスティアン・ディオール、アルベルト・ジャコメッティ、アルテュール・オネゲル、レオノール・フィニー、エズラ・パウンド、アンドレ・ブルトン、マルセル・デュシャン、ウィリアム・フォークナー、アーサー・ミラー、パブロ・ネルーダ、ロラン・バルト、ジャン・ジュネ、ジャン=マリ・オ・クレジオとその妻(超美人!)、サルトル、カミュ、メシアン、ロブ=グリエ、マンディアルグ、カポーティ、シャガール、マティス、ココ・シャネル、エディット・ピアフ、ベケット、ベーコン、ジョルジュ・ブラックなど芸術畑でもこれだけ。政治家も多数あり、豪華すぎてこれだけで20世紀の歴史を語れてしまうんではないかというほどの名士揃い。

私は内なる静寂をとらえたい。私が訳したいのはその人格であって、表情ではない。

撮影された人たちがどんな偉業を残したかは知っていても、彼らの人格までは伝えられる言葉からしか計り知れない。しかし、本書でのくつろいだり苦悩したりする表情を見ると、彼らも一人の人間だったというところからイメージの組み立てが始められる気がする。大傑作を残したり偉業をなしとげた人も、机の前でペンを片手に草稿を直しながら悩んでいたり、年齢相応に背中が曲がっていたりすることを知った。そして写真機に対峙する瞳。逸らされて遠くを見る瞳。ぼんやりとした瞳。芸術とか写真とか以前に一人の人からにじみ出る印象がくっきりと残る。ページを繰るごとにまるで被写体と会話をしたかのような気分になりました。

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