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2009年01月 アーカイブ

2009年01月02日

森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』(角川文庫)

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)
森見 登美彦
角川グループパブリッシング
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人んちで麻雀の抜け番に読んだものの、アルコールと眠さで印象が残っていないため、文庫化を機に読み直してみました。一読して感じたのが、デビュー作『太陽の塔』からずいぶん遠くなったな、ということ。あの頃は相手の女性の顔すらろくに見えなかったのに、本作では後頭部を見つめるだけの関係がとうとう一緒に空を飛ぶなんて。

春夏秋冬別に4つの短編が収められており、どの短編にもきちんとカタルシスがあり、徐々に主人公の先輩と彼女が近づいていくのが甘酸っぱい。春は若者に解禁された酒、夏は京都の古本市、秋は誰もが何かしらの思い出を持っている文化祭、そして冬は風邪をめぐって個性の固まりのような人たちを巻き添えに、二人の物語がかわいく甘酸っぱく進んでいくのです。もうこの甘酸っぱい物語を胸の内でふくらませてにやにやするには年を取りすぎたわたしは、と反省することしきりであります。手を握るまでに文庫本一冊をはるかに超えるような紆余曲折を経るなんてまどろっこしいこと、大人にはやってるファンタジーも時間もないんだよ。でも作者にはいつまでもこの甘酸っぱさをキープし続けていただきたいと切に願うばかりであります。

Wikipediaを見てちょっと違和感を覚えたのが本作を含め森見登美彦氏がマジック・リアリズムの作家としてカテゴライズされていること。個人的にマジック・リアリズムというのは文明化された社会から隔絶された組織で発生する未知なる現象ととらえているため、本作での浮遊などはファンタジーとしてとらえたい(もっとも芥川の『河童』もマジック・リアリズムとして紹介されるくらいだから、天狗が出てくる時点でマジック・リアリズム認定していいのかもしれませんが)。『百年の孤独』が世に出たとき西欧ではあまりにも破天荒な物語に驚いたけれども、地元コロンビアや南米では「あるある!」と親しみ深い物語として読まれたということから、実はマジック・リアリズムというのは外部から認定されるべきものなのかもしれません。というわけでわたしは日本人作家の作品にマジック・リアリズムというカテゴライズは合わないんではないか、と思っております。

2009年01月04日

アラスター・グレイ『哀れなるものたち』(ハヤカワepiブック・プラネット)

哀れなるものたち (ハヤカワepiブック・プラネット)
アラスター・グレイ
早川書房
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2009年の1冊目にこれほどの傑作を読めたことを神に感謝したい。フランケンシュタインをベースにしたSFファンタジーでありつつ、手記の形式をとり誰が真相を語っているのか分からないメタフィクションの形式で紡がれる。図書館で借りてしまいましたが、早速書店に買いに行って再読したい気持ちを抑えられない。

最初の手記は、アーチボールド・マッキャンドレスという医師が、高名だが孤独に研究を続けるゴドウィン・バクスターと出会い、ベラ・バクスターなる女性に出会うところから始まる。彼女はとある方法で死を免れたが記憶喪失となり一から人生をやり直しているという設定だが、暴れ馬のように周囲の男たちを振り回し続ける。バクスターのラストには本来ベラの役割となる不気味さと優しさを一手に引き受けた謎の人物の悲哀があった。泣けた。

そしてこの手記が終わると、題材にされたベラ・バクスターによる長い手紙があり、さらに全体を通した「批評的歴史的な註」がある。この註は小説上、非常に重要な役割を果たしており真実を陽炎の先にゆらめくものとしている。ベラの不穏な手紙からは先に記された手記がまったくのでたらめであるとされながらも、註は彼女の手紙の内容を裏付けながらも最後に年齢を記すことで手記そのものの信憑性を裏付けるような仕組みになっている。このラストは本当にぞっとしたし、『エンジン・サマー』で回帰するときのような語られることがつながったときの高揚感がありました。

一つ分からなかったのが手記の表紙となる箇所に書かれた訂正で、ジャン・マルタン・シャルコー教授ではなく、(確か)物語に登場しない人物のエッチングであったというところ。モンテスキュー−フゼンザック伯爵なんていたっけ?

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