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2008年07月 アーカイブ

2008年07月05日

シャーリイ・ジャクスン『ずっとお城で暮らしてる』(創元推理文庫)

ずっとお城で暮らしてる (創元推理文庫 F シ 5-2)
シャーリイ・ジャクスン
東京創元社
売り上げランキング: 19721

「引きこもり」。これを解決すべき社会問題とみなす人と甘美な快楽とみなす人、世の中は引きこもりについて意見が分かれる。そしてわたしはまちがいなく後者であり、前者を「おせっかい」と認定している。

本書はちょっと複雑な事情で美人姉妹と叔父が大きな屋敷に引きこもっている話。他の家族は何らかの理由でみないない。そして生き残った姉妹と叔父は村の民から目の敵にされている。特別なところは何もない普段の買い物にぴんと張り詰めた緊張感を描いたところは実に秀逸で、世界はみな敵で自分たちだけが正しいという視野狭窄な視点だが、つい姉妹に肩入れして読んでしまう。

ステラの店にいるあいだにだれかが入ってきたら、あたしはすばやく立ちあがって外に出て行く。でもときには運が悪いこともある。この日の朝、ステラがカウンターにあたしのコーヒーを置いたとたん、入り口に影が差し、ステラが顔を上げて「おはようさん、ジム」と声をかけた。ステラはカウンターの反対の端まで行って待っていた。客がそこにすわれば、あたしがこっそり帰れると考えたのだ。でもやってきたのはジム・ドネルで、あたしはすぐさま今日は運が悪いとさとった。村人たちのなかには、あたしが知っていて、個別に憎んでやれる本物の顔を持ったやつが何人かいる。ジム・ドネルと女房もその仲間だ。ほかの人々のように、習慣でなんとなくあたしたちを嫌っているわけではなく、意図的に憎しみをぶつけてくるのだから。たいていの人なら、ステラの待っているカウンターの端に腰をおろしたはずだが、ジム・ドネルはあたしがいる端へまっすぐにやってきて、できるだけあたしに近い場所、となりのスツールにすわった。けさはあたしを困らせてやろうともくろんでいたからだ。

語り手のメリキャットは広い世界を知らない子供にありがちなさまざまなまじないや、一日の運勢をちょっとした予兆で決めつける。わたしも通学の途中で登った坂の上から、一つ先の山を眺めて一本だけ周囲より抜きんでて高い木を見つけられたら今日は運がいい、霧などでけぶっていたら調子が悪いと判定していたことがあったので、メリキャットの一つ一つ身近なものの動きに敏感に反応して自分勝手なまじないに耽る気持ちはよくわかる。しかも資産家だったので、金はうなるほどあり、高価なものを平気で木にくくりつけたりして野ざらしにしたりする。それがきっかけでまさにメッキがはげる事件などもあり、実に愉快。さらにつきものの猫までいる完璧な内的世界なのであります。

わたしにはミステリのアンテナが立っていないので、語られていない事件の真相などにはあまり興味がなく、ひたすらに彼女たちの送る甘くもきちんとした生活を眺めていられるのが楽しい。女性同士の引きこもりといったら、わたしにとっては榛野なな恵のもっともアナーキーな作品『ピエタ』を引き合いに出さずにはいられない。決定的に異なるのは火の使われ方だ。榛野なな恵は敵を焼き殺そうとする(紙屋研究所さんの『ピエタ』レビュー)が、本書では「魔女裁判」として使われる。だから、村人は後に反省したりするのだ。だから決して一般人の醜さ、狂気だけをとりあげているのではなく、裏表紙の「人間心理に潜む邪悪を描いた」というのはやや一面的に過ぎる意見に見えた。人間でもイナゴでも集まったらろくなことをしでかさないのは今に始まった話ではない。

梅雨時に窓を閉め切って冷房をドライにし、電話もテレビも音楽もとめてタオルケットにくるまって息を潜めて読むべき、今が旬の一冊。

2008年07月06日

「現代文芸論研究室主催 世界の文学とラテンアメリカ」その1

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 東大で行われた「現代文芸論研究室主催 世界の文学とラテンアメリカ」と題された講演会に行ってきました。面子がすごい。アメリカ文学からは柴田元幸氏、ロシア文学からは沼野充義氏、そしてラテンアメリカ文学は野谷文昭氏、さらにゲストとして直木賞受賞作家桜庭一樹氏という豪華さ。

 赤門をくぐるのは学生以来。法文2号館2階1番大教室という広い教室に15分前に入ると、既に7割くらいは席が埋まっており、ほとんどが学生とおぼしき若い人ばかりで、中にはスペインからの留学生もいたようだ。男女比は半々。大学とは思えないサルサのBGM(ルーベン・ブラデスらのコンピらしい)が流れ、わたしとしてはラテンアメリカ文学の本拠地に乗り込んでしまったという緊張と興奮でいっぱいです。まず柴田氏の仕切りで1部は桜庭氏と野谷氏による『赤朽葉家の伝説』とラテンアメリカ文学の関係について、続く第2部では柴田氏と沼野氏も加わってラテンアメリカ文学の現代における影響について語られることがアナウンスされた。

 『赤朽葉家』について野谷氏から質問する形式で進行する。アジェンデの『精霊たちの家』やラウラ・エスキヴェル『赤い薔薇ソースの伝説』を想起したという話から女性による年代記の話になり、『赤朽葉家』は家の歴史を男性視点にせず、そのまま女性の視点、弱い方からの視点で描いたとのこと。「一度外に出ることで自分の(生まれた)環境が書ける、ということはありませんか?」という質問に、島根には顔にトゲのある地蔵が道沿いにずらりと並んでいるというのが実は珍しいと東京に出てから気づいた。島根のエピソードには日本ばなれした感覚があるということで、編集者からは「本当に日本の話なんですか?」と失礼なことを言われたと桜庭氏は怒っていた。島根はラフカディオ・ハーンや水木しげるが目をつけた場所ということもあり、不思議な現象に無縁ではない。地元を離れるという点では、ラテンアメリカでもボルヘスはアルゼンチンを出てアルゼンチンのガウチョについて、アストゥリアスはグァテマラを出てマヤについて、カルペンティエールはキューバを出てハイチについて語っている。また、話には出てこなかったけどコルタサルもパリに出たりしているし、全体の中でもこの質問は強い印象を持っていた。
 また『百年の孤独』と『赤朽葉家』の共通点として年代記という形式が使われており、桜庭氏は『赤朽葉家』が戦後60年の年代記を普通に書くならもっと長くなるところだが、『百年の孤独』を読んできっちり書く必要はなく、「もっと自由に書いていい」という安心感を得たとのこと。年代記の形式をとりながらマジック・リアリズムを持つ小説としてあげられていたのが、ヴァージニア・ウルフの『オーランドー』。実はガルシア=マルケスも同じ著者の『ダロウェイ夫人』にエピソードの集積という書き方で影響を受けていたというのは桜庭氏も知らなかった様子。
 ガルシア=マルケスが祖母の語り口をそのまま小説にしたというエピソードは有名だが、両作品の共通点としてやはり土地の目を持った語り手の存在で、桜庭氏もやはり終戦で満州から引き揚げ船に乗った祖母の話をよく聞いていたという話が印象的だった。大きい船と小さい船があり、大きい船に乗ろうとしたところ間一髪で出港してしまい、仕方なく不安定な小さい船に乗ることになったのだが、すると目の前の大きな船が魚雷か何かで沈没してしまった。この話を聞いてもし祖母が大きな船に乗っていたら自分はどうなっていたかというパラレルワールド的な世界を想像したと語っていた。生きながらえて語り継ぐということ。祖母の(生命)力の強さ、千里眼であること、世代をつなげるための血の強さを描きたかったそう。
 桜庭氏はガルシア=マルケスの後の世代ということで、批評的な視点で単に『百年の孤独』の再生産に陥らないための別の書き方が必要になるという野谷氏。最近の作家だと古川日出男『ベルカ、吠えないのか』、笙野頼子『二百回忌』、平野啓一郎や中上健次にも触れられていました。ちなみに『赤朽葉家』は第一章がマジック・リアリズムだとすると、第二章は少女まんが(『花のあすか組』が大好きで山口百恵の髪型にするところにキュンときたそうです)、第三章は青春小説の形式と書き分けている。
 桜庭氏から逆に英語、スペイン語、日本語では翻訳に影響が出るのか? という質問では、ガルシア=マルケスは非常に言葉を選ぶ作家で、実際には80人ほどが亡くなった事故の話を「リアルすぎる」という理由で3000人に書き換えたところ神話的なエピソードを紹介。こういうところで読者が考え込まないように読ませるところがすごいと指摘。また、いかがわしいジャーナリストでもあり、小説家の前は新聞記者で、岩波新書から『戒厳令下チリ潜入記』も出ているが、現実には強盗事件の取材ですでに終わった事件の臨場感を出すために再度強盗をやらせたとも。それらのエピソードを含めて作者自身がすでに伝説化してしまい、浅田次郎氏が世界ペンクラブの会合で今度コロンビアに行くといい「ガルシア=マルケスが来たらびっくりだね」という話。野谷氏によるとガルシア=マルケスの現在の住居はメキシコなので、実際にはちょっと難しいかもしれない。

 この辺りで第一部は終了。会場からは盛大な拍手が送られていました。中休みにはガルシア=マルケス(ちょっとインスマウス面)、イザベル・アジェンデらのインタビュー映像が流れていたが、ガルシア=マルケスはスペイン語のままなので何を言っていたかは不明。この後は柴田氏、沼野氏も参戦してラテンアメリカ文学の影響について語られる。刮目して待たれよ。

2008年07月11日

青春のロシア・アバンギャルド展@bunkamura

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18世紀後半から19世紀はじめにかけて、フランスを中心としたヨーロッパでは印象派からアール・ヌーボーなど様々な芸術の動きがあったわけだが、さてロシアはどうだったのか。

この頃のロシアは対外的にがんがん攻めまくってトルコと戦争したり、農奴解放令を出したアレクサンドル2世が暗殺されるも、シベリア鉄道などが建設されて工業が発達した。1900年代に入るとロシア革命(1917)が始まるいわば激動の時期。1930年代後半からはスターリンが台頭し粛清が行われ、音楽家のショスタコーヴィチは何度も反体制的な音楽を書いたと叱られたりした頃。当然その頃には抽象絵画も「社会主義リアリズム」に反しているという理由で下火になります。その直前に華開いたロシア・アバンギャルド。

マレーヴィチという作者の名前に心当たりはなかったのだけど、「黒の正方形」を見て学生時代に漠然とひもといていた『現代美術入門』に出てきて驚いた作者だと気づいた。黒べた塗りにしただけで芸術とはすげー、と驚いたものです。しかし、それよりもうちょっと前の時期に描かれている、ロシア・アバンギャルドの特徴だとわたしが勝手に解釈している原色から光の当たる部分が白へと変わるグラデーションがくっきり際だった絵画の方が印象的でした。そこにロシアの独特な文字が加わるといかにも共産主義。しかし、今回メッセージ性の強いポスターはほとんどなかった。

また、「百万本のバラ」の題材になったニコ・ピロスマニも記憶に残った。彼の場合、精緻な技法というのではなく、対象そのものだけを素朴であたたかみのある視点で描いているが、当時は幼稚だと退けられてしまったらしい。案外サイズの大きい絵が多く、解説では絵を描くことが楽しみだったということで、なんだか泣けた。映画もあるそうなのでぜひ見てみたい。

行く前は工業化と共産主義が推し進められるロシアの都会を煽るような絵が多いのかと思っていましたが、蓋を開けると当然のことながら、別に画一化された絵ばかりではなく、ロシアの広い大地を感じさせるおおらかな絵が多かったように思います。ちまちまと読み続けているトルストイの作品と同じ時期ということもあり、ロシアの芸術がおぼろげながらつながって見えてきたように思いました。

2008年07月12日

2008年上半期ベスト5

感想を書けていない本がたくさんあるのですが、書いては消し書いては消しでちっとも進まないので、すでに書いていることについて触れてみます。

2008年は昨年に引き続き、良い本がたくさん新刊で出ているのでうれしい悲鳴をひーひーあげています。ひー。とはいえ買ってある古本は読まねばならないし、時間の配分が難しいところ。ただ、個人的には古典に回帰しつつあり、岩波文庫が本棚の占有率をあげていることには今後の期待がかかります。特にロシア文学のトルストイ、プーシキンなどは今年中にある程度数を読んでおきたい気分です。

では第5位。ほとんど順不同ですが、気分を出すために。若桑みどり『イメージを読む』です。

イメージを読む (ちくま学芸文庫)
若桑 みどり
筑摩書房
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著者は惜しくも昨年秋に亡くなりましたが、著作は中年にさしかかろうとするわたしの目を美術に初めて触れる少年の目に戻してくれました。万人必読です。


第4位はイサベル・アジェンデ『精霊たちの家』です。

精霊たちの家
精霊たちの家
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イサベル アジェンデ
国書刊行会
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ラテンアメリカ文学としてはガルシア=マルケスの次の世代となるのでしょうが、すでにクラシックとなっている1冊。今頃読みました。確かにガルシア=マルケス『百年の孤独』に影響を受けているでしょうが、整然としたクロニクルとしてまた別の評価を与えるべきだと思います。今はジュブナイルまっしぐらですが、またこの路線に復活してほしいものです。

第3位はスペインの名文家フリオ・リャマサーレス『狼たちの月』です。

狼たちの月
狼たちの月
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フリオ・リャマサーレス
ヴィレッジブックス
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スペイン内戦について興味が高まるきっかけになった1冊です。それにもまして、リャマサーレスの言葉の選び方、冷たさ、観察力がとても興味深く、スペインに興味がない人にも読んでいただきたい。特に前に訳されている『黄色い雨』は生涯ベスト5に入る大傑作。おすすめです。

第2位はマリオ・バルガス・リョサ『楽園への道』です。

楽園への道 (世界文学全集 1-2) (世界文学全集 1-2)
マリオ・バルガス=リョサ
河出書房新社
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鳴り物入りで始まった河出書房新社の世界文学全集。当初はケルアックやデュラスなど改訳ものばかりが目立って不審な気持ちになりましたが、蓋を開けてみれば名作を再読する良い機会になったのかも。本作はリョサが二人の現実非適応者をうまく描き分けつつも、血を分けた共通点をしっかり見せることで、また彼のマスターピースが増えたという印象です。Amazonでも軒並み★5つ揃いで驚いた。

いよいよの第1位はいまさらだがこの人しかいないウィリアム・トレヴァー『聖母の贈り物』です。

聖母の贈り物 (短篇小説の快楽)
ウィリアム・トレヴァー
国書刊行会
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わたしの好きな作家を5人あげるとしたら、ガルシア=マルケス、コルタサル、ボルヘス、A・E・コッパード、リャマサーレスをあげますが、そこにさらに一人追加されることになってしまった。強烈なインパクトを持ちつつ、冷静な観察力と豊穣な言葉を耕して作られる名短編の数々。新潮から出ている『密会』も読んで大変すばらしかったのですが、感想がまだ追いついていません。『密会』の方が若干ソフトかも。

2008年07月13日

対決 巨匠たちの日本美術

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これはすばらしかった! 大切なものを質に入れても見に行くべき展覧会。しかも8/17までと会期は短い。急げ!

日本美術にはとんと疎いが、先日図書館で借りた『江戸絵画万華鏡 戯画の系譜』で見た曽我蕭白が間近で見られるとあっては行かねばなるまい。平日の午前中でも人はいっぱい。でも茶碗や浮世絵のような小さいもの以外は屏風など大きな作品が多いので、あまり窮屈な感じはありません。しかし、休日となったらどれほどの人出になるのやら。

まず入っていきなり運慶と快慶の地蔵であります。雄大で力強い運慶に対して、繊細で端正な快慶。正に動と静の対比。運慶の迫力にも圧倒されるが、快慶の彫ったとは思えない袈裟の波打ち加減には驚いた。風がそよいだら形が変わりそうなほど、何度見ても絹にしか見えない。世の中にはフェルメールを全部見るためにオランダに行ったりする人がいると聞いて酔狂なお方や、と溜息をついたこともありますが、運慶と快慶を見るために奈良に詣でたくなったので人を笑えない。

楽茶碗の長次郎と本阿弥光悦の対決もみもの。楽焼正統の長次郎の茶碗は釉薬がそれほどこってりしておらず、素朴でさわったら手にしっくりなじみそうな印象。「無一物」「時雨」のしっとりとして景色にすっぽり収まるようで、非の打ち所がない。以前三井記念美術館で見た茶碗も多かった。一方の光悦は光が反射するほど釉薬がこってりかかっており、切り出したような形が美しい。「大ふく」はオレンジ色の卵をすっぱりと半分に切り落としたかのよう。

そして個人的見所その一は伊藤若冲と曽我蕭白。若冲のにわとりは去年一昨年とさんざん見ましたが、相変わらずデコラティブなにわとりでした。お目当ての蕭白は寒山拾得を題材にした屏風など、やり過ぎこり過ぎ。寒山が破天荒な人物というのをふまえた表現なのかもしれないが、ここまでユーモラスな顔にする必要性がまったく分からないけど、おもしろいものはおもしろい。それでいて背景は力強く冬の訪れを告げる風を感じました。

対決と題されている通り、日本美術の巨匠たちによる大傑作の競演で、どれ一つとして見逃せない。一度作品をまっさらな状態で見てから、レンタルのボイスガイドを聞くのがおすすめ。今回は特に有名な声優さんたちばかりで、各作品ごとに声優の個性をも楽しめる。特に羽佐間道夫さんの気合いの入った笑える解説は必聴。展示替えもあるそうなので、1カ月ちょっとの短い期間に何度も通ってしまいそうです。

2008年07月16日

アンナ・カヴァン『氷』(バジリコ)

氷
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アンナ・カヴァン
バジリコ
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アンナ・カヴァン。サンリオSF文庫の影のアイドルといっていいだろう(表のアイドルはティプトリーとマッキンタイアあたり)。コカイン中毒というイメージよりももっと悲しく、冷静で破滅的な短編集『ジュリアとバズーカ』を読んだことがありますが、実に内向的で注射や自動車事故の話ばかりで今よりだいぶ若かったわたしはうんざりして他人に安く売り払ってしまいました。

本作を読んでいて、読んでいてしばらくは女性の児童カウンセラーが語り手かと思っていた。どこにも男女の区別は書いてない上に、最初に訪れた少女の夫がさほど警戒しているそぶりを見せていなかったから。もちろん著者が女性だということも念頭にあった。だから、前半と後半との齟齬の大きさにちょっと驚いた。決定的に前半と後半の色を分けているのは7章。それまで語り手の幻視が文中にカットインされてとまどいつつも慣れてきたところで、突然もう一人の花売りの少女が紛れてくる。そこまで至高の少女とあがめたてまつられるような扱いをされていたところに、突然別の少女が入ってきて語り手にカーネーションを渡すあたりで、語り手の性別が確立した印象を受ける。花売りの少女を、元の少女のメタモルフォーゼとみなすかそうでないかで、だいぶ印象が変わるが、わたしとしては判断を保留にしておきたい。

前半の語り手と少女の距離は、家に訪れたりして物理的には近いけれども、決してふれあうことのない見えない隔たりが広い。後半で強迫観念にかられるように少女を追い求める姿はこの時点ではまだない。前半で特徴的なのは幻覚とおぼしきもののカットイン。車を運転していて唐突に少女が氷に閉じこめられるビジョンが浮かび上がるが、しばらくすると何事もなかったかのように少女の家に車を止めて、旧懐にふけったりする。このカットインは後半にしばしば登場する長官のシーンの設定を語るものかもしれないが、確証は得られなかった。

また、P.36で語り手が一人船に取り残されるシーンはまんまカフカの「アメリカ」。眠っている時に見る夢でコントロールできないものにありがちな、本来なら無難にこなしていることをなぜかどうやってもできないパターンだ。ここは「アメリカ」冒頭で船にスーツケースを忘れるシーンや、「審判」の彷徨う感覚などにも通じるところがある。

カヴァンとカフカの決定的にちがうところは、カヴァンの場合強迫観念ともなっている少女との邂逅が毀誉褒貶あるものの結局はうまくいき、またそれを手放して一からやり直すパターンを何度も繰り返すことだ。カフカの場合はできて当然のことができなかったり、無罪でしかないものが有罪になるなど、不条理な出来事がネガティブな方向に発展していく。それに対してカヴァンは万能性を証明するかのように不条理なエピソードを用いるため、わたしたちが夢の中で悪漢をひとひねりしたり軽々と空を飛んだりするような、願望を充足させるための不条理に見えてしまい。結果として子供っぽさを感じてしまう。また、せっかく手が届いた少女をなんでもない諍いで簡単に手放してしまうなど、語り手の行動に首尾一貫性が見えないところをどう解釈していいか分からなかった。単なるお天気屋だけで片付けられる問題とも思えないが、少女を渇望しながらあっさり分かれてしまうのは「好きな人といっしょになると突然恋愛感情がなくなる」というよくある飽きっぽさの発現だけなのか? おもしろい不条理とは片付けられない引っかかりを残した読後感でありました。

2008年07月19日

アンリ・カルティエ=ブレッソン『こころの眼 写真をめぐるエセー』(岩波書店)

こころの眼―写真をめぐるエセー
アンリ・カルティエ・ブレッソン
岩波書店
売り上げランキング: 195475

先日ポートレート集を見て興味をもったアンリ・カルティエ=ブレッソンのエセー。ちなみに仏教徒らしい。彼の写真は白黒で、自らそれを「墨を使ったスケッチブック」だとしている。写真とは「世界を理解するための、ほかの視覚的表現と切り離すことの出来ない手段」としている。ここでわたしははっと思い当たった。わたしには世界を理解しようという気持ちがないことに気づいたのです。彼の写真は刻々変化する現実が幾何学的で、数学的な美しさをとらえている。混沌をそのままにしておかない。混沌の一瞬をミクロの視点で見つめる。そこがわたしとはちがっていておもしろいと思ったところでした。

わたしは他人の写真を撮ることにとても抵抗があって、何気ない街のスナップでも前から人が歩いてくると「あ、写したら個人情報保護法的に悪いかな?」と躊躇してしまい、結果その気持ちが歩いてくる人にも伝わってしかめ面をつくらせてしまったことがたびたびある。レンズを通した他人との距離感の取り方がとても下手なのだ。見知らぬ人ともべらべらしゃべれるので社交的と思われることもあるが、他人を自然に撮影できるかどうかが実は人見知りの境目なんではないかと思うのです。そのあたり、著者は思索を続けながらもひらりと乗り越えて見せてくれる。

それがたとえ静物であっても、被写体には忍び足で近づかなければならない。相手に悟られないように何食わぬそぶりで、目を光らせる。慌ててはいけない。釣り糸をたれる前に水面を叩く物はいない。いうまでもないが、そこがたとえ暗がりであっても、フラッシュ撮影をしてはならない。それは自然光への敬意でもある。(中略)たった一言が相手を緊張させ、すべてを台無しにする。ひとたび不安をおぼえた被写体の本質は、もうレンズが届かないところにある。

釣り糸を〜というところが実に良い感触。写真を撮るというのは現実に釣り糸をたれることで、写真という獲物を釣り上げることなのだと考えると、魚に向かって「釣ってもいいですか?」とあからさまに聞くのはダメだよな。そりゃ魚としては釣られなくないよ。平静に世界にむかって釣り糸をたれるところから始めなきゃ、と30歳をだいぶ過ぎた今更になって気づかせてくれた素敵な一冊。後半の有名人を紹介するという言葉によるポートレートも刺激的です。

2008年07月20日

レーモン・クノー『イカロスの飛行』(ちくま文庫)

イカロスの飛行 (ちくま文庫)
滝田 文彦 レーモン・クノー Raymond Queneau
筑摩書房
売り上げランキング: 600632

ちくま文庫の海外文学品切れぶりにはうんざりしている。その筆頭が本書ともう一つ、ナボコフの『青白い炎』だ(『ナボコフの一ダース』はそれに比べればまし)。マンスフィールドなんかも品切れという名の絶版になって久しいようです。在庫の回転が早く、品切れになるまで時間がかからない現在に出版されてから5年という月日は永久のようでさえあります。この前の『ロリータ』ブームで復刊しておけばよかったのに。

愚痴はこのくらいにしてレーモン・クノーであります。ちくま文庫の高騰もさることながら、『はまむぎ』『青い花』のレアぶりに「とんでもなく難しいブンガクだからこんなに評判が高いにちがいない」と勝手におそれをなしておったのですが、ある時『文体練習』の破天荒ぶり(主に訳が)に出会って、クノーの文章にわたしは笑いを感じられると気づきました。『文体練習』は文字通りあるシチュエーションを文体を変えて書き分けるものですが、清少納言バージョン(20世紀フランス文学なのに!)など小難しそうな文体というものを楽しく理解するに最適な入門書かつ究極の一冊です。

さて、本書は小説といいながら戯曲の形をとっています。とある小説家の文章から逃げ出したイカロスはパリの街に迷い込み、カフェではすっぱな女性LNに出会う。小説家は探偵を差し向けてイカロスをなんとしてでも捕まえたい。この追いかけっこを中心に他の小説家たちも巻き込み大騒動が持ち上がるというミステリ愛好者にもおすすめできる一冊。

なんといっても本書で大切なのはアブサンです。アブサンがどれほどおいしいか、どれほど幸せをもたらすかについて1000ページを費やすよりも、イカロスがカフェでアブサン(作中での表記はアプサント)の飲み方をレクチャーされるところを読むがいい。大胆にもアブサンに直接水を注いだイカロスは酒場の酔客から叱られる。

ボーイがもう一杯アプサントを持って来る。イカロスはグラスの方に手をのばす。

第一の客  やめな、この野郎!(イカロスはあわてて手を引っこおめる)そんなふうに飲むもんじゃない。やって見せてやる。まずさじを、もうアプサントが静かに治まったグラスの上に持って行く、つぎにもう気がついてるだろ、変な形をしたそのさじの上に氷砂糖のかけらを乗せる。それからごくゆっくり水を氷砂糖のかけらの上に注ぐ、とかけらは溶けはじめて一滴一滴豊かな糖化の雨が霊液の中に落ち、それを雲のように曇らせる。それからまた水を注ぐ、とまたポタポタ玉になる、そうやって砂糖が溶けるまで、でも霊液があまり水っぽくならないよう続けるんだ。見てごらん、ほらきみ、どんな具合に調合されてゆくか……途方もない錬金術だ……
イカロス  なんてきれいなんでしょう!

ああうまそう。液体に液体を混ぜて神秘的な霊薬になる瞬間がわたしは大好き。カレーだって元はスパイスという名のなめてもうまくない粉をトマトや水と混ぜるととんでもなくうまいご飯になるでしょう。そういう物質の変化の瞬間をとらえた小説に駄作はありません。ちょっと見つけづらい本ですが、パリの狂騒的で快楽的な空間を楽しめます。そしてちくまはとっとと復刊してください。

2008年07月21日

ガルシア=マルケス『エレンディラ』(サンリオ文庫)

エレンディラ (1983年) (サンリオ文庫)
ガルシア=マルケス
サンリオ
売り上げランキング: 191890

前に読んだのは2001年12月3日だから、6.5年ぶりに再読。読むきっかけになったのは東大で行われた「現代文芸論研究室主催 世界の文学とラテンアメリカ」でゲストの桜庭一樹氏が朗読していたところがぐっときたので。桜庭氏の声はほっそりしているけども芯がある感じで、エレンディラはこんな声かもしれないと思うような説得力がありました。

それぞれの短編集が実におもしろく、奇怪で奇天烈な題材でありながら、田舎でしかありえない集団的な妄想にかられるところがすばらしい。都会に限らず現代だとちょっとインターネットで調べれば海から薔薇の匂いがするはずは科学的にありえないし、立派ながたいをした水死体が流れ着くこともありえません。腐っちゃうからね。でも狭い田舎の村社会で育った人ならば多かれ少なかれ都会の常識では考えられないようなふるまいや信仰がはびこっていることを体験したことがあるのではないでしょうか。ただでさえ塩味の付いている漬け物に醤油をかけて食べるとか、未だに土葬だとか、墓石に水をかけるのはご先祖様に失礼だとか、いろいろ勝手な風習がついてまわる。15年前わたしが実家にいた頃には非常識だと思っていたことがいつの間にか常識になっていたりする。そんな外部との差異が風習レベルを超えて「事件」に仕立て上げてしまうのがガルシア=マルケスの真骨頂だと思うのです。直球過ぎるタイトル「大きな翼のある、ひどく年老いた男」のあらすじはこう。羽の生えたおっさんが突然庭に飛んできたのはいいけど、天使にしては元気がなく、神様にしては霊験のかけらも感じられない。そんなおっさんを田舎の共同体はうまいこと住まわせてしまう。人権的にはひどいかもしれないが、受け入れる共同体の葛藤がしっかり出ていてぐいぐい読まされてしまう。「現代文芸論研究室主催 世界の文学とラテンアメリカ」でも触れられていましたが、田舎に生まれ育った人が一度都会に出ることで、不思議な風習が息づいている地元を地元民でありながら外部の人間として見直す視点を獲得して書かれているのです。

ちなみに、「奇跡の行商人、善人のブラカマン」は筑波のがまの油売りが元ネタ、というのは茨城県出身のわたしの妄想です。

ガルシア=マルケスには『百年の孤独』やこの短編集など何もない田舎を舞台にしたものと、『コレラ時代の愛』や『わが悲しき娼婦たちの思い出』のように比較的都会を舞台に恋愛を題材にしたものとに分かれるような気がしました(ルポルタージュから発展した『予告された殺人の記録』も後者に入るかもしれない)。その間にある『族長の秋』は大統領府という国の中心地でありながら荒廃して田舎の人気のなさも持ち合わせているという、二つの世界観を融合させているんではないかと思った次第。そして訳者あとがきにあるように『エレンディラ』のエピソードが『族長の秋』という長編に連関していくと思うと、春先に種を埋めて水をやったときのような、これからやってくる大きな物語が発芽するのを待つような期待感がわき出てくる。次は『族長の秋』を再読せねばという機運が高まってきました。

2008年07月26日

ルイス・フェルナンド・ヴェリッシモ『ボルヘスと不死のオランウータン』(扶桑社ミステリー)

ボルヘスと不死のオランウータン (扶桑社ミステリー ウ 31-1) (扶桑社ミステリー ウ 31-1)
ルイス・フェルナンド・ヴェリッシモ
扶桑社
売り上げランキング: 19414

ボルヘスがミステリの主人公になると聞いたとき、「博識のボルヘスが書斎からずばりずばりと難問を解決していく」か、あの『ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件』ばりの煙を煙で巻くような「よく分からないけどそれで解決ならよかったですね」になるかのどちらかしかないと思った。前者ならばボルヘスのおもしろさに目覚めたミステリ者たちがこぞって国書の「バベルの図書館」シリーズがざくざく買われちゃうかもしれないな、まずいな、なんてずいぶん遠いところまでそろばんをはじいてみましたが、それは杞憂のようです。どう見ても本書は後者の「よく分からないけどそれで解決ならよかったですね」パターンだからだ。それまで問題の解決口がほとんど見られず盛り上がりらしい盛り上がりはほとんどないといっていいいだろう。

しかし、ボルヘスとクトゥルフという驚異のタッグマッチを成し遂げたところに本書最大の功績を与えるべきだろう。「全日のリングに猪木があがる」「Jリーグでジダンがプレイする」そのくらいこの取り組みにはわくわくできる響きがある。ちなみに本物のボルヘスもクトゥルフ神話には興味を持っていたらしく、代表作「アレフ」はラブクラフトが喜びそうな話。ある男の地下室に「地球上のすべての場所が、混乱することも融け合うこともなく、それぞれの形状をはっきり保ちながら凝集している場所」があるのでほいほい入っていくというもの。

ポーの研究会に集まるボルヘス他の研究者たちがその場で起こった殺人事件に出くわすというのが本書の舞台で、若いときにボルヘスの翻訳を手がけた(余計な改訳をしてこっぴどく嫌われた)初老の文学者による一人称視点の小説という形式をとっている。しかも彼は殺人事件の第一発見者で、当時の状況を「そういえばああだった」「ちがった、実はこうだった」とどんどん証言を変えて警官をむかつかせ、一方ボルヘスは新しい証言にどんどん新解釈を連ねて悦に入っている。この対比がよかったです。死体の置かれた状況が鏡に映って「X」の形だった、いや「W」にも見える、つまり「W」とはポー的にはこういう解釈だったのだよ! と無邪気に戯れるおっさんたちが微笑ましい。

不死のオランウータンもいたねそういえば。ともあれ本書を読む前にちくま文庫の『ボルヘスとわたし』か岩波文庫の『伝奇集』のどちらかでボルヘスに触れておくことをおすすめします。

2008年07月28日

ぐるりのこと

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梨木香歩の同名作と前日までまちがえていたのはお約束。鬱になる話なんて書いてたっけかなー? と1、2年前に読んでいるのに中身を覚えていないわたしが悪い。

この映画の一番すばらしかったのは、夫婦が最初に見せるものすごいすれちがいぶり。せっかく旦那にいいことがあったというのに、遅くなって帰ってきたことに対する嫁のいちゃもんがすごい。定型句で正論を述べ立てる嫁はすでにモンスターと化しており、背景で「ドモアリガット、ミスターロボット」と聞こえていたのはわたしだけではあるまい。この場合はミセスか。あれ、ミズって言わないと差別だっけ。こえー、規則こえーと震え上がるわたしを尻目に、旦那の方は「いやあのその、たたないし」なんて平気の平左で返答している。ここのかけあいがすごく良くて、あと30分くらいバリエーションを見たかった。場内もここの反応がよかった。

逆に言うと以降はどんどん散漫になっていったとも言える。特におかあちゃんの話は詰め込みすぎてそれぞれが薄くなっちゃった。壺、なくていいじゃん。主題が「夫婦といえども互いをわかり合えない」という永遠のテーマなんだから、夫婦だけでこってりやってほしかった、というのは贅沢なくらいいい映画だったのですけれども。

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