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2007年10月 アーカイブ

2007年10月05日

メキシコ料理に挑戦

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『やっぱり美味しいものが好き』を読んでからというもの、漂白の想いならぬメキシコ料理への思いはやまず、とうとう自分で作ってみることにしました。章の最後に書かれているガカモーレ、サルサ・ランチュラ、トルティーヤの作り方はそれほど難しくなさそう。

緑色のがガカモーレ。アボカドとたまねぎとコリアンダーにちょっと塩と水を加えて、ブレンダーでガーっとしたもの。アボカドが堅くて難儀したが、単にスプーンでマッシュしたよりもなめらかになったのはけがの功名か。

赤いのはサルサ・ランチュラ。トマトとたまねぎみじん切りとコリアンダーみじん切りに塩を加えたもの。たまねぎは水にさらさない方がいい。トマトの水分でたまねぎの辛さは消えるし、酵素が残ってる感じ。これに焼いた牛肉をあわせるとハバネロ上司みたいにはまる。

山のように焼いたトルティーヤは、小麦粉で焼くとインドのチャパティとなんら変わらない。伸ばすのがめんどくさいから、ナンみたいなものでもよさそう。アメリカ人のブリトーもふかふかだし。 レシピにはラードを使うとあったので、スーパーを3軒はしごして雪印から出ているチューブ入りのラードを使うが、ラードを使った効果はそれほど感じられなかった。こういう粉ものは中華でもよくあるし、油脂分をちょっと加えて作るのも同じ。

辛いハバネロソースは中辛のものを選んだが、辛さの中に野菜のうまみがあってうまい。トルティーヤを1/4くらいに割ってそれぞれを少しずつのせ、最後にハバネロソースを5滴程度たらすとすっかりメキシコ人になってソンブレロを舞っていた次第。これらと焼いた牛肉の組み合わせは、まるでおいしさを感じる脳のシナプスを一斉に直結したかのような勢い。トマトと牛肉はリコピン酸とアミノ酸の組み合わせでおいしくなるのは当然として、これほどうまみが出てくるのはたまねぎやコリアンダーのような刺激やにおいのある野菜が大きな役目を果たしているんではないかと推理する次第。大きな国の国境沿いのメシはうまくなるってジェフリーが言ってたけど、目の当たりならぬ舌当たりにしました。おいしくするには元から辛くするんじゃなくて、ソースをつけて自分好みに辛くするというのも教訓です。暑いところの料理なので、来年の夏に向けて練習を重ねてレシピを増やすつもりです。

2007年10月06日

野口悠紀夫『「超」整理法3 タイム・マネジメント』(中公文庫)

「超」整理法〈3〉 (中公新書)
野口 悠紀雄
中央公論新社 (1999/06)
売り上げランキング: 239692
おすすめ度の平均: 3.5
3 個人の整理用途としては有効です
4 「スペース」の暴虐
4 捨てる方法論

わたしが読んだのは文庫版の3巻で、時間管理についてのみ書かれていた。

時間管理方法は人や立場によって臨機応変でなければならないというのが大きな感想。著者の場合は講演会や原稿執筆が仕事なので、ある程度まとまった時間を長い期間に渡って把握することが必要になる。しかし、今のわたしの仕事では1日〜1週間単位の仕事を並行して完了させていくことが求められるので、タイムスパンが少し短い。頻繁に別の短時間の仕事が入り込んでくるため、それぞれに集中してやっつけていくことが求められる。本書で確保すべきとされている予備日(もしくは予備時間)はわたしには向いてない戦法に思えた。だいたい予備日なんてあったらさぼって酒呑んじゃうぞよ。

仕事とは関係ないが、本を読んだり音楽を聴いたり、それらを買いに行ったりする時間というのは意外にコストがかかるものであります。それらの時間をある程度管理する(特に買いに行く時間な!)ことで、無駄に古本屋に入り浸ってどっさり買い込んでも読む時間がない、という状況を防ぐことができるような気がする。買うのは月1〜2回とし、それまでに買うべき本やCDの情報を集め、自分の財布と相談して一気に買い込むようにするといいかも。買いに行く時間的コストを視野に入れるとどうしてもAmazon最高という結論になっちゃうのよね。

結局のところ時間管理とか仕事術というのは、自分が何に時間を使うべきであるかを自覚し、それまでのやり方では達成する見込みがない時に必要になってくるのではないか。いわゆる自分のやりたいことが見つからないと、自分を管理する必要もないし、時間なんてだらだら過ぎていってもちっとも問題ない。ただし、そういう人でも「他人の時間を大事にしよう」という章は必読であり、人にものを聞くことで聞かれる人がどれだけのコストを払っているか、またコストを払ってでも疑問点を聞いて自分がその人にとって役立つ仕事ができるようになることが大切である、ということは理解しておいたほうがよろしいでしょう。

とはいえ、あまりコスト計算に神経質になりすぎると「口うるさいおばさんみたいなおっさん
」と反感を買うこともある(やや実話)ので、まず自分で実践しイヤミにならないように周囲へシフトさせていければいいなあ、と思ったのでした。もういっそ教科書の一つとして取り入れてもいいくらい、あらゆる人が考えておくべきことが書かれています。自分なりにアレンジする必要はあるにしても。

2007年10月08日

世田谷文学館「植草甚一/マイ・フェイバリットシングス」

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大学時代、勉強にまったく興味が持てなかったわたしは無頼を気取って麻雀に打ち込んだりJazzのレコードをあさったりしていたものだが、当時はすでにJazzはフュージョンは終わって下火になっており、今ほど盛り上がりはなかったような気がする。プログレやJazzが好きなのは、当時の美意識や機材がないなりの工夫が結晶になっていた。ジャケットは写真を黒を基調に青やピンクなどの2色に抑えたBlue Noteや、Prestigeの硬質なイメージに言葉には表せないあこがれを感じていたのでした。チャーリー・パーカーやマイルス・デイヴィスはもちろん、チェット・ベイカーの甘い声、ビル・エヴァンスのしとやかなピアノは何度も繰り返して聴いたものです。

それらに接するとき、参考になるのは同時代のJazz専門誌ではなくて、すでに膨大なレコードが出ている中でこれがいい、と談じている評論家のエッセイなどです。村上春樹から油谷正一、そしてこの植草甚一の文章によってJazzへの距離がずっと縮まったのはまちがいない。70年代の意外性がおもしろさに直結し、おもしろいことだけをやって評価される時代。音楽に関しては今よりもずっと「粋」があったと思います。

そのおもしろいことだけをずっと追究しつづけたのが植草甚一でした。おもしろいものを見つけてそれを形にすることで趣味を仕事にしていた風流人。その洋書コレクション、筆まめだったはがきの数々、Jazzの記事などを展示しているのが世田谷文学館で行われている「植草甚一/マイ・フェイバリットシングス」。Jazzに関する展示が中心だが、悪趣味すれすれのネクタイやきりっとしたジャケットも展示されている。この実験精神を愛せる感性を広めた先駆者として見ておくべき展示でありました。

また、2階ではムットーニさんのからくりが設置されていて、偶然待ち時間なしに見ることができたのでした。上映していたのは村上春樹の「夢」、夏目漱石の「夢十夜」に加えて、ブラッドベリの畢竟の名作「万華鏡」。「万華鏡」は物語を読んでいないとなんだかわかんない代物ですが、浮かんだような沈んでいるような宇宙飛行士が印象的でした。こっちを見るだけでも行く価値ありです。

リチャード・パワーズ『囚人のジレンマ』(みすず書房)

囚人のジレンマ
囚人のジレンマ
posted with amazlet on 07.10.08
リチャード パワーズ 柴田 元幸/前山 佳朱彦
みすず書房 (2007/05/24)
売り上げランキング: 117297

家族との関係をうまく築けなかったから家族ものは苦手。親と仲がいいという関係がそもそも理解できない。嗜好や趣味が合えばまたちがってくるのだろうが、17で演劇を始めてからは家にはほとんど近寄らず、大学に入ってから家の敷居をまたいだのは数える程度という案配ではうまくいくはずがない。そんなわたしには本書の家族関係の奇妙な密接具合は理解できないを通り越してちょっとおぞましさすら感じる。直接的な反抗ではなく、徐々に父親の色に染まっていきそれを是とする無抵抗さは、他者からの洗脳を無批判に受け入れてしまうようなおそろしさに近い。家族は他人のはじまりなのだ。

本書の構成は、
・父ビッグ・エディと母アイリーンの間に生まれた4人の子供アーティ、リリー、レイチェル、リトル・エディが集う物語……(A)
・ディズニーが在米抑留日本人を使って映画を撮る物語……(B)
・子供たちがビッグ・エディの若かりし頃を追体験する物語……(C)
がフォントが変わって交互に描かれる。目次は以下の通り。

P.5  なぞなぞ(C)
P.11  1(A)
P.25  2(A)
P.40  ホブズタウン 一九三九年(B)
P.49  3(A)
P.63  4(A)
P.83  主要時制(C)
P.96  5(A)
P.109 一九四〇—一九四一年(B)
P.118 6(A)
P.133 7(A)
P.146 一九四二年 春(B)
P.159 8(A)
P.161 9(A)
P.177 目には目を(C)
P.190 10(A)
P.207 一九四二年 秋(B)
P.221 11(A)
P.241 12(A) (ミセス・スワロー)
P.251 一九四三年(B)
P.269 13(A)
P.288 もしも苛酷な一分間を(C)
P.304 14(A)
P.317 一九四四年(B)
P.332 15(A)
P.343 16(A)
P.352 17(A)
P.369 一九四五年(B)
P.377 18(A)
P.384 網目を破る(C)
P.389 19(A)
P.396 V-J(C)
P.402 20(A)
P.410 21(A)
P.413 カラマイン(C)
P.414 一九七九年(B)
P.416 訳者あとがき

とはいえ、こう書き出してみてもあらすじ、それぞれの関連性ははっきりとは読み取れなかった。なんとなく変な親父が子供たちにニヒルな影響を与えていたが、実のところ青年期の戦争のある一こまが原因だった、とまとめてみても本書のおもしろさは全く伝わらない。本書を読み取るにはこの家族の奇妙な輪に入れるだけの慣れ親しむ能力が必要になるんじゃないか。それぞれの家族には一言では言い切れない癖があるものだが、本書の家族は文学の知識だったりまとわりつく灰色(黒になりきれない)のユーモアで社会への適応性すら怪しくなっている。

読み終えた今、本書をどう位置づけていいか分からない。もう一度読んでも分かる気がしない。こんなに密着した人間関係には疎いのです。

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2007年10月14日

ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』(集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)
ミラン クンデラ Milan Kundera 千野 栄一
集英社 (1998/11)
売り上げランキング: 27696

己の人生を考えさせられる小説でした。ただ、クンデラは作者自身であろう「私」の意見をちょこちょこ書くので、言いたいことを読者に読み取らせるのでなく、全部書いてしまう作家、という印象を受けました。

トマーシュは有能な医者かつメチャモテながら投稿した新聞記事によって誤解を受け、自ら医者を辞して窓ふきに転身。知識人が窓ふきという下層の仕事に身をやつしたことが話題を呼び、上流階級に呼び出されてはワインをごちそうになったり談笑に明け暮れる。

テレザは恵まれた境遇ではなかったが、偶然トマーシュに会った時から思い切ってトマーシュの押しかけ女房となる。それまでのウェイトレス生活から一転して上流階級にも触れ、プラハの春で撮影した写真を雑誌で認められるが、トマーシュの愛人たちに嫉妬しながらも妻として生きることを選ぶ。

二人の関係は普通の夫婦からはほど遠く、トマーシュが命令したことをテレザは実行しようとするが、トマーシュはやや人間的な情愛から外れた性格をしているため、結果としてテレザは自分の選んだ道とはいえ嫉妬で消耗していく。このトマーシュのクールでありながら人間としては決してほめられない性格は、わたしにとって決して他人事ではなかった。途中の夢のようだが現実であることを示す「銃殺の丘」のシーンは異様です。二人の関係に疲れたトマーシュがテレザに向かってある丘に登ってみろと命令する。テレザは普段はにぎわっている丘に人気がないことを気にしながら登ってみると、自分の意志で死を選ぶ人たちを銃殺する不思議なサービスが行われている。テレザはトマーシュの命令なので銃殺されることを受け入れようとするが、いざ男が銃を構えると勇気が萎えていくことに気づく。

テレザは自分の勇気が尽きようとしているのを感じた。自分の弱さに絶望し、その弱さを抑えることができなかった。そして、いった。「だけどこれは私の希望ではなかったの」
ただちに銃身が下がり、とても穏やかにその男がいった。「あなたの希望ではないのでしたら、できません。そんな権利は私たちにはありません」

望む者を銃殺するという不思議な関係もさることながら、ここに送り込むトマーシュの非道ぶりがすごい。つまるところ「俺が死ねといったら死ね」ということを実行させたわけで、それを言うことと実際に死なせることとは天地の差がある。昔のアジアでは「死を賜る」なんて言葉があるほど死は授与できるものだったが、男女関係ではちょっとそういう関係は思いつかない。トマーシュはそういうことを言えてしまうたがの緩さがある。だが、それはトマーシュに限ったことではない。残酷さというのはつまるところ人間の存在の軽さに起因するものだ、と言いたいのかなと思った次第であります。愛という結びつきはヘリウム入り風船のようにふわふわしてちょっとのことで破裂してしまう。破裂させるための針をやろうと思えば人は簡単に突き刺してしまうことができる。

あと、ちょっとおもしろかったのが、たくさんの女を追いかける男には二通りあり、一つは「どの女にも自分に固有の、女についての常に同じ夢を探し求める人」という表現。詳しく引用すると、

(略)男たちの夢中ぶりは叙情的である。彼らは女たちの中に自分自身、自分の理想を探し求め、たえず繰り返し、繰り返し裏切られている。なぜならば、理想というものは、ご承知のとおり、けっして見つけることができないものである。女から女へとその男たちを追いたてる失望は、その男たちの移り気にロマンティックな言い訳のようなものを与えるので、多くのセンチメンタルな女たちはその男が何人も恋人を持つことに感嘆させられるのである。

わー、すごい男の理屈。二次元の女性に依存する人たちは叙情的なのかもしれないと思いました。

2007年10月21日

Solo「Solo」

ソロ
ソロ
posted with amazlet on 07.10.21
ソロ
ポリドール (1995/12/10)
売り上げランキング: 190849

1995年のアルバムで、黒人4人組による、いわゆるR&B。わたしはプログレッシブロック好きでありながらいわゆるモダンなR&Bも好きなわけですが、特にこのアルバムのようなフックのある男子コーラスには目がない。Boys 2 MenからK-ci&JOJOあたりでその傾向に目覚めたわけですが、最近はどうもぴたっとくるものに出会えてなかった。わたしのサーチ能力と金銭能力が弱っていたことが主な原因ですが、ここでわたしの好み一直線なものに出会えた。思うに、本当に好きなものに出会えてないと、好きなものを見つけたときもすぐに気づけなかったりする。このアルバムも1週間くらい聴きこんでみてようやく好みスイッチが入った。

クラップやベースがずしずしきますが、ところどころにきれいなピアノが絡んでくるところがいかにもプロデューサーJam&Lewisな感じ。Janet Jacksonの「All for you」あたりのポップセンスはわたしの好みに大きく影響していることを改めて実感。このアルバムでは3.Blowin' my mindや5.Heaven、10.Where do U want me to put itが、そのフックでくいくいっとわたしの耳を釣り上げてくれる。最近の音楽はどうも休符がなくて疲れてしまうのだけど、このアルバムは無駄なキーボードが詰め込まれすぎてないからやさしいし、曲のバリエーションが幅広く感じられる。

ところどころにはさまれるウッドベースにアカペラコーラスのインタールードがまたぐっと粋を感じさせる。有名なプロデューサーだけが売りじゃありませんよ、という彼らのルーツを強く主張している印象。Boys 2 Menほど甘くなく、Hip Hopのようにリズムだけ、というわけでもない、バランスのとれたさじ加減。このさじ加減はともすると流行でないという理由からチャートからは見放されたりすることもありますが、これは実にスムースで元気なかっこよさがある。

インターネットで検索するとどうしても2000年以前の音楽は有名どころや根強いファンがいない限りなかなか知らないおもしろいものには出会いにくい。まして「Solo」なんて検索の海に埋もれてしまいそうな名前では、偶然に出会う確率はとても低くなるだろう。そんな中で思いもかけないすてきな宝物に出会えた喜びは大切にしたい。普段黒人音楽になじみのない人でもきれいなコーラスはジャンルを超えてめろっとくることまちがいなし。12年の時を経て今年一番のおすすめです。

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ジョン・バース『旅路の果て』(白水社)

旅路の果て
旅路の果て
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ジョン・バース 志村 正雄
白水社 (1984/01)
売り上げランキング: 70273

ジョン・バースにはどうしても難解なイメージがある。ポストモダン。そんなものしらねーと思いつつ、読み始めたら意外にさくさく読みやすいので驚いた。難しいどころか、前半部分はおおむねコント風。主人公のジェイクは

ある意味で、ぼく、ジェイコブ・ホーナーだ

なんて頼りない言葉から物語をはじめる。そこからはジェットコースターつっこまれノベルとなり、ジェイクのボケ倒しに周囲がげんなりしおれるぷち吉本劇場が始まるのだ。

ジェイクは変わった精神科医の治療を経て、田舎町とはいえ大学の作文の授業を受け持つことができるまでに回復した。就任直後、ぼんくらそうな教授たちがそろう中で目立った知性を発揮していたのが同僚のジョー。嫁のレニーを含めた交流が始まるが、ジェイクのトリックスターぶりとジョー・レニーの堅実さがぶつかり合い、困った三角関係に陥る。

ジョー・レニー組にとって、ジェイクの一貫性のない思想は「あなたは存在しない」とまで言わしめるほど恐ろしいもの、未知なるもののようだ。妻のレニーはジョーを神とまで崇拝し、絶対の存在としてジョーに近づけるように努力した経緯を持ち、半分宗教レベルに達している。わたしのような宗教に興味はあっても、誰か知らない人が作った教えを無批判に信じてそれに基づいて生活に反映するようなことに抵抗を感じる者としてはジョー・レニー組の方に異常性を感じる。これをもっと客観的にするとヴォネガットになるのかも。思想性をコントの中にちりばめておりわかりやすいけど、一筋縄ではいかない。聞くところによるとバースの『レターズ』は本作を含め、著者の小説それぞれの登場人物が勢揃いするとか。学生のころだったら全部読み比べて最後に『レターズ』に挑戦しただろうな。今は残念ながらそれほどの時間が簡単にとれるわけでもないので、おおがねもちになったら南の島にバカンスに飛んで(猫付)バース三昧を送れる日を夢見て労働することにします。

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