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2006年10月 アーカイブ

2006年10月07日

ジェフリー・フォード『白い果実』(国書刊行会)

白い果実
白い果実
posted with amazlet on 06.10.05
ジェフリー フォード Jeffrey Ford 山尾 悠子 谷垣 暁美 金原 瑞人
国書刊行会
売り上げランキング: 44,282

1998年受賞作。出版当初は山尾悠子訳(ほんとは共訳)ということで話題になって、確かに硬質な雰囲気をたたえてはいるけれども、訳に凝るほどの世界観ではない。冒頭は言葉を選び抜いた豪奢な文章ですが、進むにつれてアクション要素が多くなり、良くも悪くもまっとうなファンタジーでした。

小説の中にある「章」はけっこうくせものだとにらんでいる。わたしは高校の文芸部以来小説を書いたことはないけれど、要はプロットの見出しなわけで、見方によるとそこで区切れてしまうことがあります。1つの章がノルマに見えてしまうのです。この本は350ページ程度の分量で30にも章が分かれていて、同じページ数でもガルシア=マルケスだと章なんてなかったりして、物語全体に自分をゆだねることができるように思えるのです。30もあるとなんだか富士山に登っているようで、「今15章。あと15章か、えっちらおっちら」となんだか作業しているみたい。なので、小説の章分割には反対派です。ページ数すら載せてほしくないくらい。そういう点では電子リーダーは先のページ数が分からないから「このページ数があればもう一つくらいどんでん返しがあるな」などの邪推ができないところは評価できます。

さて、主人公はいやみねたみそねみの「3み」でできており、人の顔から性格やら人生やら将来やらを読み取る観相学の権威。とある村で見つかった白い果実を見つけ出すために、高慢な態度で村娘をかどわかして助手として村人の選別にあたる。この観相学、「額の広さ○○mm、鼻の高さ××mm、よってこいつはランク2、平々凡々でくだらない」などと直感に頼らずきちんと計測するところが笑えた。現実の占い師にも見習っていただきたい。主人公は悪どいくせにマニュアルどおりの生き方しかできない(しかも重度の薬物中毒)保守派なんて、どこの○民党員だ。そんな彼も栄枯盛衰の憂き目を見て世界が変わっていく、その筆さばきは自然で読者を世界観にうまく取り込んでいます。

国書刊行会と山尾悠子がそろったせいで、なんだかありがたくおしいただかないといけないようなものものしさを読む前は感じていましたが、読んでみればハヤカワFTでも遜色のない、ちょっとSFがかったファンタジーですよ。読みやすくて仕掛けのないジーン・ウルフといった感じで、文庫化してもっとたくさんの人に読まれるとよいのではないでしょうか。

消えてしまいました

過去ログが消えてしまいました。

正確には消えてしまったわけではなくて、アーカイブデータを戻すためのユーザーデータが消えてしまったようなのです。ちまちまと手作業で戻せるところは直していきますが、コメントやトラックバックは消えてしまって戻せないと思います。コメントやトラックバックをいただいた方には大変失礼いたしました。

G・ガルシア=マルケス『わが悲しき娼婦たちの思い出』(新潮社)

わが悲しき娼婦たちの思い出
ガブリエル・ガルシア=マルケス 木村 榮一
新潮社

断筆宣言をしたガルシア=マルケスの最後になる(はず)の小説です。川端康成『眠れる美女』に影響を受けたといわれ、N.Y.TimesではあのMichiko Kakutaniにけちょんけちょんにけなされた作品なので、期待と不安を抱えたままで読書開始です。

90歳の誕生日に新聞記者が大志を抱いた。「処女とやりたい」。それまで娼婦たちとは数多くの機会を持ち、

あなたは臆病で、外見もぱっとしないけど、その代わり悪魔が馬も顔負けするような一物をくれた(P.111)

と言われるほど、その道では有名人なのでした。しかしそれ以外ではまるでボルヘスのように自分の城に閉じこもって黙々と原稿書きに専念するライターだったのです。顔なじみのやり手婆が14歳の子を紹介してくれて、ほんとに家までやってきてしまいます。90歳から始まる純愛物語。高齢化社会に入り「世界で最も淡白」と蔑まれる日本人には必読です。

途中で娘っこのために自転車を買うシーンがあるのだけど、ここがすごくさわやかで、束の間の万能感がさあっと、厚い雲間から射し込むレンブラント光線のよう。天気はまったくちがうけど、「雨に唄えば」でSingin in the rainが流れるときの高揚感、期待感、そして死を間近に迎えているはずなのに年甲斐もなくはしゃぐ主人公にぐっときます。

途中お得意の時間を揺らすテクニックも使ったりして、中編、そして最後の小説と思うと本当よりもちみっと評価を上乗せしているかもしれませんが、充分おもしろいです。それほど長くないので、ちょっと読書欲が減退しているときのカンフル剤にもいいかもしれません。なんせ90歳であっちもこっちも現役ですから、負けていられませんとも!

2006年10月11日

パノス・カルネジス『石の葬式』(白水社)

石の葬式
石の葬式
posted with amazlet on 06.10.11
パノス カルネジス Panos Karnezis 岩本 正恵
白水社

読書部第16回の課題図書をさっそく読んでしまいました。あまり早く読むと読書会までに興味をなくしてしまうことがあるのですが、この本については杞憂だと思いたい。

ギリシアのマジック・リアリズムという売り文句では、世界中のマジック・リアリズムに興味のあるわたしが見逃すわけにはいきません。ここでマジック・リアリズムの条件についてわたしなりの認識を書いておくと、

・あくまでもリアリズムを基調とした小説
・その中に世界観を壊さない、または世界観を作り出す幻想的な事象が起こる、または幻想的な事象が前提となっていること
・神話、民話をベースとした物語が「多い」
・読みやすい

正直に言って、日本に住んで飛行機に乗ったことのないわたしにとって、他国のリアリズムは想像の範囲を出ない。また、日本国内でさえも、江戸以前の歌舞伎や能の物語が現実感を保ったまま消化できるかというと、とてもできていないと思う。落研にいたからといって、吉原ときいてきちんと研究、勉強している人はもとより、時代小説を読む人ほどにも実態を想像することはできていない。それでも、吉原には遊女がいて、今の風俗産業とはちがい粋な遊びをしにいくところというくらいの認識はある。リアルさを実感するためには人それぞれ手がかりはちがうので、マジック・リアリズムについては今でも明確な概念ができあがっていない。むしろ消去法として、「ファンタジーとしては現実ぽい」「一般の小説/文学としてはファンタジー要素がある」というように、「なんとなく、マジック・リアリズム」という全体の印象を指す言葉でいいのではないでしょうか。

マジック・リアリズムもさることながら、本作で見るべきなのは登場人物の生々しい感情の表れです。ギリシアの文学というとまっさきに古代の神話が思い出されますが、最近のギリシアの小説についてはほとんど情報がないように思います。ギリシア自体もオリンピックがあったくらいで、実はあまりなじみがないことに気づきました。ギリシアというと、わたしのいろんなネタ元である成田美名子に『ALEXANDRITE』という傑作漫画があります。空手と柔道を学びながらNYの大学に通い、ギリシア人の血が流れる青年(アレックス)が主人公で、作中でアメリカからギリシアに自分のルーツを探しに出る。アレックスが生まれた頃、ギリシアでは革命が起きて実の父親は政治活動のためアメリカを離れてしまったため、アレックスの父親は消息不明という設定だ。そこで描かれるギリシア人は、陽気だが自身の正しさのためには血を見る戦いも辞さない。切羽詰まった状況でも笑いを忘れずに前進するそうです(「カリパリ」「ケフィ」)。アホなところもあるけれど、強くて前向きというイメージをギリシア人には抱いていたのです。

ところが、本書のに出てくるギリシア人はとにかくダメ。小心者でペシミストの駅長、頑固でクレイジーな神父(「汝、癒えんことを願うか」では真っ赤になって大活躍)、抜け目なく金儲けだけが生き甲斐の地主などなど、キャラクターが豊富で直情的。それぞれは生きる気力がまったくないか、ものすごく間違った方向に使われている。皮肉と黒いユーモアが貧しい村にどんよりと覆いかかっている。それでも笑う余地があるところがメヒコの『燃える平原』とはちがうところか。それとも歴史のちがいかもしれない。

それぞれの短編はゆるくつながっており、ところどころにギリシア神話のモチーフが髀肉を交えて使われている。現代版イカロスを描いた「応用航空学」、常人にはつかまえられない「ペガサス号の一日」、直にケンタウロスが出てきてしまう「サーカスの呼びもの」などなど。なかでも表題作は他の作品より若干長く、重さと笑いのロードムービーという感じでぜひ映画化してもらいたい。

作者のパノス・カルネジスはギリシアに生まれ、成人してからイギリスで工学を学んだそうです。BBCではラジオドラマを作ったようで、動画でインタビューが公開されています。どこまで聞き取れるか分かりませんが、わたしもこれから聞いてみます。海外ではチェホフ、アンジェラ・カーター、カルヴィーノ、ヘレン・シンプソンらと比べられるほど好評のようで、なにくわぬ顔で意外な物語を紡ぎだす力量は、さすがWhitbread賞の選考に残っただけはあります。トルコとアナトリアの戦争を描いた長編『The Maze』もぜひ訳されてほしい。

2006年10月15日

野溝七生子『女獣心理』(講談社文芸文庫)

女獣心理
女獣心理
posted with amazlet on 06.10.15
野溝 七生子
講談社
売り上げランキング: 244,370

昭和5年の少女漫画ちっくな作品。大島弓子の比較的初期の作品「ほうせんか・ぱん」や「キララ星人応答せよ」のような、現実感の薄いおままごとのような人間関係。だが、そこにある心の濃度は昨今の小説にはない、清らかな奔放に満ちている。

司法試験に合格した新名塁(しんなとりで、通称ルイ)は、従妹であり許婚の沙子(すなこ、通称シャコ)の元に戻る。沙子は美術を通して九曜征矢(くようそや)と仲良くしていた。征矢は美術学校時代に描いた名作から「レダ」と呼ばれており、過去に謎めいた秘密を持っており、今はシャコの隣家で貧しい生活を送っている。ルイは結婚を間近にしながらレダに魅かれていく自分に気づくが、結婚はつつがなく執り行われるが、自分の気持ちをくつがえすことができない。やがてレダの過去が徐々にあきらかになるにつれ、幸せな3人の友情が崩れていくのでした。

もう、この命名自体が大島弓子ぽい(時間的には逆ですが)。「ミモザ館でつかまえて」の亜麗、「バナナプレッドのプティング」の衣良など、大島弓子に限りませんが、当時の少女漫画では西洋の名前を美しい感じに直したものが多かった。単純な西洋への憧憬が命名されることで、日常のドラマからひとつ抜け出した高尚さを演出していたように思われます。この小説でも冒頭はルイが許婚に偶然銀座で出会うシーンから始まり、

 白昼の銀座は何か悲しい。ジャンダークがオルレアンで呟いた例の名句「この雑踏の中のこの寂寥」が、隅々にまで一ぱい漂っている。
 眼の前に、ぱっと花が降ったように現れた、多い色彩を備えた時世粧(アラモード)だ。危うくぶつかりそうになって踏み直ったところを摑まったのである。
 「あら、あら。」
 従妹は叫んだ。今そこを勢いよくお出ましになった、資生堂の旧館の、暗くさえ見える扉口が、彼女の背後にあった。私は帽子をとった。
 「どうしたの、沙子(シャコ)。」

このハイカラぶり。そしてステレオタイプな偶然。これでこそ少女漫画のロマンであります。韜晦な言葉遣いでも森茉莉のように完全に浮世離れした高邁さはない。これは贅沢なままごとなのです。女性同士の心遣いや優しさを存分に見せながら、そこに男も巻き込んでいくおままごと。冒頭の聞き違えが象徴するように、男は騎士(ナイト)、女は姫君で、そこに身体関係のような生々しさは入る余地がない。ままごとは陽の当たるところで保護者に見守られた安全な場所で行われる遊びだから。女が困ったときには男が助け、悲しいときには抱き合って、手を重ねてわんわんと声をあげて泣く。

この頃から、すでに謎めいた美少女レダは少年の面影をたたえた中性的な造形で描かれているところが興味深い。女性であるために男をその美貌と絵画の才能で惹きつけ、女からは保護する対象(おままごとでいうところの人形)であり、堕落をそそのかす蛇でもある。沙子からは人形に見えても、現実を正しく生きる沙子の母から見ると危険な存在に写るのです。

そしてラストの衝撃。ままごとという大きな壷が床に叩き付けられて壊されるにも関わらず、夢の中のように音がしない。悪夢で幕を閉じることで全体の幻想性を保ったところが、おもしろくも上手さを感じました。

2006年10月16日

クラッシュ

クラッシュ
クラッシュ
posted with amazlet on 06.10.16
東宝 (2006/07/28)

よく渋谷などに行くと「なんでこんなに人が多いんだよ」という不平を通りすがりに聞くことがある。おまえだってその一人なんだよ今すぐここから消してやろうか、と恫喝したくなるが、でも気持ちはよくわかる。「まったくだ、渋谷は人が多いよなあ。こいつは電車の扉口からどかないし、邪魔だよこのやろう」なんて喧嘩にならないなんて、日本人は我慢強いものです。

この映画は「人は本当はぶつかり合いたいんだ」という印象的な台詞からタイトル通りに車がクラッシュするシーンで始まる。「そんなにぶつかりたいんなら渋谷に行けよ、車なんて使えないからちょくちょく肩がぶつかるよ」とへらず口を叩きつつも「あれ、バラードの映画化ってこれじゃないよね」という不安がよぎる。あれはもっとエロいはずだったよなあ、でもこれも「クラッシュ」だし車ぶつかってるしディック的世界観なら同じ映画でもおかしくない。そうこうしているうちに、日本人どうしではあまり見たことのない自己主張のぶつかりあいが次々に繰り広げられる。

自己主張以外に日本ではあまりないものとして、人種による偏見がかなりオープンになっている。それは人種だけでなく、見かけによって人は他人を判断することがクローズアップされていく。係わり合いになることで偏見が徐々にはがれたり、助長されたりする。知り合って、話を交わし、行動する。それの繰り返しによって観客はドラマを感じ、生きている彼らを見届けたいという気持ちが生まれる、それが映画を見る喜びなのです。それぞれのエピソードは決して斬新なものばかりではないが、有機的につながる(また、このつなげ方が手練のDJのようなうまさ)ことで観客が世界を把握する全能感を刺激するのがドラマなのだと思いました。「人が在る」ことを実感でき、そこいらの「感動」とはわけがちがう。

監督・脚本はポール・ハギス。偶然にも彼が脚本を担当した「ミリオンダラー・ベイビー」を見たばかりで、展開の激しさと自然さ、偶然がもたらす喜びと悲しみをつなぐ見せ方に共通点があるように思えます。映画ならではのカットイン/アウトが見どころですが、これを演劇でできたら爽快でしょうね。人それぞれの価値(おもしろさ)を認められる人は必見なり。

2006年10月21日

メゾン・ド・ヒミコ

メゾン・ド・ヒミコ 特別版 (初回限定生産)
角川エンタテインメント (2006/03/03)

一世を風靡したゲイバーを作ったママが、ある日突然ゲイの老人ホームを建てる。彼女に死期が近づいた時、後継者の美青年(オダギリジョー)が彼女の娘(柴咲コウ)をホームにつれてくる。

監督の犬童一心作品は去年末だったかに「ジョゼと虎と魚たち」を見て、また、見てはいないが原作を何度も繰り返し読んだ「金髪の草原」を撮ってると知り、監督は「聖域」を撮りたいのだなあ、と思ったことです。家、または老人ホーム(といっても海辺のホテルを改装してとても洒落ている)という外敵から身を守るところで、仲間たちとひっそり暮らしていく聖域。聖域には心地よさもあるけれど、それはたいてい現実とはかけ離れたところで成り立っており、現実がそこに浸食してくるときに案外もろく崩れさっていく。その現実は、戦争や暴力じゃなく、主に人の死だ。

オダギリジョーの気障ぶりが板についており、大変好ましい。途中でノンケを目覚めさせる場面があり、目覚める過程の表情にはっとした。新しい世界を見つけたときにピカッと頭の上に電灯がつく感じがくっきり現れていました。あの顔はよかった。

あと、どうして女の人が激情にかられるとやぶれかぶれになるのだろう。あの脈絡のなさが男には理解できない、と言い切ってしまいたい。意味ねーじゃん、それ、と突っ込みました。

2006年10月22日

P・ディキンスン『ガラス箱の蟻(ピブル警視シリーズ)』(ハヤカワ・ミステリ)

ガラス箱の蟻
ガラス箱の蟻
posted with amazlet on 06.10.22
ピーター・ディキンスン 皆藤 幸蔵 Peter Dickinson
早川書房

シリーズ第1作。事件が起こるたびに内心びくびくしているアンチヒーローの警視が、ニューギニアからの移民コミュニティの酋長が殺された事件にかりだされる。ちなみに本文に「蟻」という言葉はひとつも出てこなかったはずです。原題もJazzのスタンダードと同名の「Skin Deep」(ニューギニア人が宗教的理由で皮膚を裂いたままにしていることにかけている)だし、どういう意図でつけられたのかよく分かりません。

分からないと言えばピブル警視の小心ぶりです。

おれはどうして、こんなに臆病なのだろう。小さいころ子供たちのパーティーで、大きな子供たちに軽蔑されたせいだろうか。それとも、生まれつきだろうか。新しい事件のたびごとに、彼の魂を縮みあがらせるような犯人が現れるわけではないが、ピブルは若いころ、そういう犯人をたくさん刑務所へ送った。ワレウスキーもその一人だ。だが、刑務所へ送ったあとでも、彼らのことを頭から追払うことはできなかった。今度もたぶん……

いったいどうした心がけだ。事件の中身がまだ何も語られる前からこれだ。こんなことでは片付く事件もうじうじと悩んで迷宮入りしてしまいそうではないか。警視とも言われる立場ならば「動くなくずども。1ミリでも動いたらお前は二度××できないようにしてやるぜ」といつでも怒鳴るだけの勢いが必要なのではありませんか。

だが、読み進めるにつけピブルの自信のなさが徐々に事件を暴いていく、というよりは事件に巻き込まれていく推進力がおもしろくなってくる。前に読んだ『眠りと死は兄弟』でも眠り病施設に雇われたピブルが事件解決に結びつけていましたが、ここでもニューギニア移民コミュニティに入り込んでとある儀式を受けるまでになります。ピブルの場合は、ギャング軍団やヤクザ屋さんのような分かりやすい社会の敵と対決するのではなく、「こいつら、何者なんだろう……」という得体の知れない人々を相手にとまどうところから始まります。普通のミステリのように事件を解決するという方向性よりも、得体の知れないコミュニティの端っこからそっと触れていく丁寧さ、わけの分からないものはわけの分からないままに取り扱おうという謙虚さが、やがて実を結ぶような、あるいは何も実らなかったような結末へ導かれます。主人公と共にとまどえる人向けの、ちょっと変わったミステリ。ミステリというよりは異色作家短篇系。

2006年10月24日

テレメンタリー2006「絆〜盲目の高校生ミュージシャン木下航志の旅立ち」

絆
posted with amazlet on 06.10.24
木下航志 藤井康一 名村武 市川喜康 岩見志保里 カンナ 三木露風 白岩真紀
アール・アンド・シー (2006/02/01)

鹿児島の木下航志を知ったのは去年だったか、Inter FMSoul Blendsがきっかけだった。まだ線は細いけれども確かな手応えのある演奏と歌、そしてやはり盲目であることを聞いて注目はしていた。今年に入って東京の活動が増え、アルバムセールスも好調と聞く。また、ラジオで初めて聴いたときよりも明らかに上手になり、力強さが増した。その彼のドキュメンタリーを偶然見た。

彼のおもしろさ、ほがらかさが完全に失われたつくりだった。ラジオを聞けば分かるとおり、親父ギャグをとばし、若さから想像するよりも意外な知識があったりする。何よりも彼の音楽性についてほとんど触れられていないのが腹立たしい。オリジナル曲は比較的きれいで優しい曲が多いけれども、R&Bのラジオで紹介されているように、本人はグルーヴさを持ち合わせていることをしっかり伝えてほしかった。

また、「お父さんがいたらよかったと思う?」「目が見えなくて苦労したことは?」などのお決まりの質問にはこちらが恥ずかしさを覚える。今、必死に音楽の海に漕ぎ出した人に向かって、その後ろ向きな質問はなんてことだ。また、家族水入らずのシーンが多すぎることもわたしにはマイナスに見える。弱々しい雛が飛び立つ場面なら野生の雀なり燕なりを撮ればいい。音楽という人間に与えられた可能性をもっと押し出した、この人をきっかけに見ている方が新しいR&Bなどの音楽性を発見するような、彼がおもしろいと感じていることに乗っかれるような番組が見たかった。押し付けがましい「ひゅーまにずむ」に苛立ちました。

2006年10月29日

太陽

sun001.jpg

どうしても当初はイッセー尾形が主人公ということで笑いの発生を期待してしまったのですが、序盤の緊張感は役者という存在を忘れさせるほど。天皇という存在を守るために皇居に作られた防空壕で、侍従たちとの噛み合ない会話に前衛劇を見るようなテンションの高まりを感じました。現人神の天皇という存在を守るために存在する侍従たちのプレッシャーがじんじんと伝わってきます。

イッセー尾形は見れば見るほど昭和天皇に見えてくる。それはまるでだまし絵を見ながら「だまされまいぞ」という意気込みが、いつの間にかだまし絵の空間に入り込んでしまっている自分を見つけるような絡めとり方です。とてもリアルだけどちょっとおどけが入った芝居を期待していると裏切られ、絡めとられたことに気づいた時点でもう一度裏切られるおいしい作り。口のあわただしさ、手の落ち着きなさ、ひょこりと立つことで絶対的な存在でありながら空虚。まるで悟りの境地のようなことになっています。彼が軍服で立っている姿だけでこの映画を見た価値はありました。

日本に住み昭和に生まれたわたしですが、昭和天皇がここまで勉学に励み才能のある方とは存じ上げませんでした。数カ国語を操り生物学にも詳しい。現なまずは父親譲りというのも新しい発見。古代日本から天皇は神とされてきましたが、和歌を詠んだり仏教を布教するなどして文化の中心でもあったという歴史があります。数少ない例外としてヨーロッパでは王による啓蒙が行われたりしましたが、世界でも最高の地位にある人物がこれほど勉学に通じ文化に通じている人物は少ないのではないでしょうか。政治にかかりきりになるところを、天皇という特別な存在と祭り上げ、政治は政治家(あるいは軍人)に託すことで一種浮世離れした人格として存在することができたのかもしれません。また、地位にあかせて豪奢の限りを尽くすようなことがあれば、天皇制はここまで存続することもなかったでしょう。そういう点でも天皇というのは日本人の謙虚さと平和さを象徴していると感じられました。

それにしても、それにしても桃井かおり。おお神よ、なぜ彼女がこの映画に出ているのでしょうか。画龍点青を欠くを実践する彼女の存在を許した監督の笑いのセンスにはついていけません。彼女のせいでぶちこわしとみるか、「これは笑う映画なのよ」という証明書であるのかは見る人の判断に委ねられそうですが、少なくともわたしは「あちゃー」と頭を抱える存在でした。笑えるんだけど、やりすぎでしょうよ、あれは。

2006年10月30日

アドルフォ・ビオイ=カサーレス『モレルの発明』(書肆風の薔薇)

モレルの発明
モレルの発明
posted with amazlet on 06.10.30
アドルフォ ビオイ・カサーレス 清水 徹 牛島 信明 アドルフォ ビオイ・カサレス
書肆風の薔薇
売り上げランキング: 242,782

実刑判決を受けた主人公が逃げこんだ島で出会った人々は、なぜかみな主人公にだけ無関心。妙な手ごたえの不確かさを感じつつも、一人の女性に恋をしてしまう。なんとか彼女の気を引こうとしているうちに、島にしかけられた秘密を発見し、人々の正体が判明する。

五感すべてが人間の存在を確信していても、反応がないということだけで人間はおそろしくリアリティを失う。極端な話、植物人間になって反応がなくなった人でも、呼吸器なりで呼吸を続け、点滴で栄養を取る姿を見れば、意思の疎通はできないまでも確かに生きている感触がある。だが、ここではその実感が描かれない。島という閉鎖された空間に多くの人がいるにもかかわらず、語り手のみの息遣いしか聞こえてこないように描かれ、生きたマネキンに囲まれているようなコミュニケーション不全による寂寥感が出ています。島、それも人工的な島を舞台にして、一般的な世界から隔離されている雰囲気はジーン・ウルフ「アイランド博士の死」を彷彿させ、どちらも引きこもりの顛末で、他者の目にさらされない安心感と孤独による不安の両方を抱える葛藤がすばらしい。

著者のカサーレスは17歳で30歳のボルヘスとマブダチになったほどの秀才で、その後共著『ドン・イシドロ・パロディ六つの難事件』を出版するなど、交友は長く続いた。読書部では過去に第8回『遠い女』に収録されていた「未来の王について」を読んでいます。なぜか『遠い女』でもサンリオ文庫『エバは猫の中』でもムヒカ・ライネスと並べて収録されているのは、偶然なのかアルゼンチンつながりなのか。いずれにしてもムヒカ・ライネスの方が圧倒的な名作のため、カサーレスは力負けしていい迷惑。しかし、本作ではこれまでのせせこましい短編のイメージをくつがえし、確かに代表作と目されるだけの世界観を構築しており、SFとしてもミステリとしてもしっかりできています。その分、「ラテンアメリカ文学」の汗と土は薄め。ボルヘスをはじめ、ラテンアメリカの身体性よりはヨーロッパの知性がただようアルゼンチンの作家ならではの作風と言えるでしょう。

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