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2006年09月 アーカイブ

2006年09月01日

ダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』(河出文庫)

銀河ヒッチハイク・ガイド
ダグラス・アダムス 安原 和見
河出書房新社
売り上げランキング: 170

久しぶりに正統な(?)SFを読んだのだけど、実におもしろかった! 新潮文庫版3冊を1000円で売り飛ばした昔の自分を叱ってやりたい。こら。

2005年に映画化もされているし、googleで「answer to life the universe and everything」検索すると「42」と表示されるネタ元としてあまりにも有名な作品。物語はバイパス道路を建築するために家を取り壊されるアーサー氏から始まる。黄色いブルドーザーの周囲で揉める人々の話から、とある理由で地球を離れ「銀河ヒッチハイク・ガイド」片手に放浪するはめになる、そのスケールの変わりようはGoogle Earthで自分の住所からぐーんと地球全体を俯瞰するときのようなめまいさえ感じます。SFの魅力は客観的な視点で宇宙を、自分を眺めるツールになることもできることです。

全編モンティ・パイソン風の皮肉がきいたギャグでうめつくされ、くだらないことこの上なし。ナンセンスとかつて呼ばれた不条理なかけあいによる笑いは、漫才のようにスピーディーなつっこみとボケ(あるいはボケ倒し)を小説で実現している希有な例。

タイトルにもなっている銀河ヒッチハイク・ガイドのいいかげんな編集ぶりを見ると、ぎすぎすした世の中に吹く一服のアホを感じます。その場のおもむきにより集められた銀河のアホ情報集大成は、いわばWEB−2.0。「集合痴」と名付けたい。帰る場所がなくなっているのは問題ですが、この根無し草生活も自由のひとこま。ぜひ、スクエアな地球の日常から抜け出すためにも、このガイドブックを手に、宇宙へ飛び立ってみませんか。

2006年09月03日

風間賢二『ダンスする文学』(自由国民社)

13年前にわたしの好みがほとんど反映されている評論集があったとは! ラテンアメリカ文学をスペイン語研究者以外の視点から読み解いており、特にマジック・リアリズムをエンターテインメントの一つとしてとらえているあたり、まさに「師匠!」と飛びつきたい。

恥ずかしながら、最近ようやく気がついた。ラテンアメリカ文学は面白いというけれど、つまるところ六〇年代<ブーム>の作品だけなのだ、ということに。
あうぅ。それを言ってはおしまいですよ。わたしはある国の小説を読むことで、その背景から小説・文学以外のことにも関心を持つことができ、小説というのは単体で完結するものでなくものごとの入り口にもなりうると信じているので、著者の意見には素直にうなずくことはできない。けれども、エンターテインメント的にはおもしろくない作品とみなされることがあるのは事実だろう。だって、日本だってエンターテインメントな小説ばかりじゃないんだから、他の国だって当然だ。

少々煽りのスパイスがきいたブックガイド。特にマジック・リアリズム関連で次の作家に興味をもちました。
・D・M・トマス
・サルマン・ラシュディ
・ティモシー・モー
・グレアム・スウィフト
・ジュリアン・バーンズ
・ジョン・バンヴィル
・アンジェラ・カーター
・ピーター・アクロイド
・ドン・デリーロ『ラトナーの星』(未訳)

意外にブッカー賞受賞作はマジック・リアリズム的要素があるらしいというのが収穫。ラシュディはともかく、他の作家にも同じような傾向があったとは。また、ラテンアメリカ以外のマジック・リアリズム要素を持った作家リストとしてもたいへん有益です。自由国民社は文学のリスト、カタログ的な本を多く出しているけれど、作品自体を訳したりはしないのな。このあたりの小説を訳したら喜び勇んで買う人は案外多いんじゃないか、と希望的観測を。

世界報道写真50周年記念展 絶望と希望の半世紀

ug19.jpg

恵比寿にある東京都写真美術館で開催されている世界報道写真50周年記念展 絶望と希望の半世紀に行ってきました(〜2006/9/10)。第二次世界大戦が終わって10年たった1955年頃以降の雑誌や新聞に掲載された写真展で、副題から受ける印象よりもかなり絶望方面が充実しています。

10年ごとに構成が分かれており、わたしのようにジャーナリズムに疎い者でも見たことのあるベネトンぽい写真や、ジョン・F・ケネディの暗殺、ベトナム戦争でゲリラの頭を吹っ飛ばす瞬間など、時代を象徴するほどに有名な写真が並んでいます。

戦後すぐはまだビデオカメラ、また受像機のテレビが発達していないので静止画に決定的なメッセージが託されていましたが、時代を経るにつれその役割がテレビを使った動画に変遷していくことが印象的でした。その決定的な草分けはアメリカ大統領暗殺という事件でしょう。何枚もの写真も、頭を吹き飛ばされた瞬間の動きには勝てない。また、撃たれた直後に、ケネディ夫人が飛び散った脳みそを集めるためにリンカーンの後部に這い出るさまは、被害者とその遺族がとる本能的な行動をえぐり出すようで、何度も見た映像だけれども衝撃を受けます。最近は、「ショック画像100連発」のような、死人がどーんとテレビに写し出されることは、日本ではほとんどなくなりましたね。子供の頃は大好きだったものですが、若い方によくある「人を殺してみたい」という危険な欲望をある程度解消していた番組だったと思いますので、あまり倫理をうるさく騒ぎ立てずに見せてあげればいいのにな、と考えました。

動画が主流になるにつれ、事件の中心にはカメラではなくビデオカメラが据えられるようになります。日本では学生運動のさなか、カメラが押し合う警官と暴徒を上からとらえたり、放水ホースを構える消防士の眼に浮かぶゆるがない決意をとらえています。これが、最近になると事件の中心ではなく、引いたところからカメラが俯瞰する。または、事件によって引き起こされる飢饉、難民、カボジ肉腫など、人々の生活を写し出すことによって大きな問題に還元していくようです。特にブラジルの有名な写真家セバスチャン・サルガドあたりになると、事件そのものというよりも写真家の意図が強く出ているように思えます。事実を「ありのまま」伝えることがジャーナリズムの最低条件だと信じてきたわたしには、事実を伝えるために現実を加工することがはたしてジャーナリズムと称していいのか疑問が残ります。それは次の読書会でとりあげられるカポーティ『冷血』でも感じたことと同じです。一歩まちがうと事件をかさにきた売名行為になりかねません。ナイーブかもしれませんが、事実の裏で情報を操作されている可能性もある、と疑いのうえにさらに疑いを重ねることになり、どんよりとした気持ちで会場を後にしました。

2006年09月05日

P・G・ウッドハウス『スミスにおまかせ』(創土社)

牧人さんに借りました。どうもありがとう。創土社の古い本だったけど、ウッドハウス人気の今でも増刷されていないのかしら?

「伯母のネックレスを盗み出して欲しい」そんな依頼を受けた元魚屋のPsmith(Pは読まない)は、偶然にも知り合った貴族の屋敷に伯母が住んでいて忍び込む。しかし、そこにはターゲットのネックレスを盗もうとする人々でひしめきあっていたのです。

Psmithが登場するパートは、饒舌に任せたボケにあわせてするすると人の懐に入り込んでいくところがおもしろい。その勢いは大阪のおばちゃんだが、紳士らしくスマートで、徹底的になりきってみせる、Aチームでいうところの大佐。詩人になりすまして屋敷に入り込み、せっせとシュールな詩の勉強をする場面は「やるからには徹底的に」という意気込みが見えていじましくもおかしい。

また、イギリスならではのネタが豊富に盛り込まれているところも大きな特徴で、ガーデニングですっぽかしとか、貴族ならではのちゃらんぽらんなところは、著者の観察力のたまものでしょう。地元の特徴をいかしたネタは、本当の田舎でやっても誰にも理解されませんが、ロンドン、イギリスという世界の王者たる地位でありながら、各人は隙だらけのまぬけであるギャップもおかしみの一つ。読者の共有概念に頼った笑いというのは、落語の与太噺にも通じ、江戸のしきたりやら風情を知らないと廓の噺がさっぱり理解できないのにも近い。

なるほど、時代のせいで全体にのったりしているけれども、これはおもしろい。若島先生がジーヴスシリーズをファンタジーとおっしゃる理由が分かったような気がします。Psmithを世界の中心に、周囲が翻弄されるさまをちょっと腹黒い心でにやにや眺める。それにしてはPsmithがいない時間が多くて、序盤に入り込めなかったきらいがあります。冗長なところも少なくありませんが、しかし、それこそがウッドハウスの魅力なのでしょう。ロンドンの空を彷彿させるような曇天の日に、家にこもってにやにやと読みたい一冊でした。

2006年09月06日

ミリオンダラー・ベイビー

ミリオンダラー・ベイビー
ポニーキャニオン (2005/10/28)
売り上げランキング: 268

ボクシングが好きなのです。実兄がかなり筋のいいアマチュアボクサーだったこともあり、幼い頃から機会があれば固唾をのんで見てしまうので、この映画も気になっていたけど、見たのは公開から1年後というていたらく。

ストーリーは決して目新しいところはない。女性版『あしたのジョー』。だけど、ボクシングの試合は拳だけで打ち合うだけでも息を止めて見守ってしまうように、この映画も歓びと悲しみをセコンドのフランキーといっしょに分かち合うことができる。チャーリー・パーカーの伝記映画『バード』でも同じように、クリント・イーストウッド監督作品は必ず死の影をまとっており、今回もしんみりしました。

頑固だけれども、だからこそ心の弱く優しいフランキーが印象的です。特にそれまでどちらかというと人でなしで心が狭い傾向が、素人女性ボクサーのマギーを育て、それを見守るエディ(モーガン・フリーマン)。ボクシングジムには嫌なやつもいるし、へんてこなやつもいる。そんな日々トレーニングに明け暮れる者同士の連帯感が描かれているあたりは、テレビドラマにもなりそうな雰囲気。

以下ネタばれ入ります。

決して自分が手を下したわけではないが、自分が関わらなければ起こらなかった悲劇に直面したフランキーの貧乏くじぶりに涙しました。この映画では解決策として安楽死を選んでいますが、フランキーがその後行方不明になるくだりなどを見ると、決して安楽死を肯定はしていません。自殺、自殺幇助は絶対に悪いとするキリスト教の教えよりも、愛弟子の要求を選んだ熱心なキリスト教徒にとっては、まさに究極で最後の選択となったのでしょう。ただ、映画自体は宗教の教えを超えて個人が選択するところに重点が置かれていました。

負け犬ボクサーのサクセスストーリーとして見られるところがありますが、むしろ安楽死の是非、そして成功と転落に直面した者の悲しみがぐっと胸に迫る作品でした。

2006年09月07日

楢山節考

楢山節考
楢山節考
posted with amazlet on 06.10.07
東映 (2002/07/21)
売り上げランキング: 7,637

へヴィーだ……。寝る前に見てしまい、ざっさざっさと土をかけられる夢を見る。あれっぽっちの土をかけられただけで人は出てこられないとしたら、昨今の地すべりは手入れのされていない山里を葬る自然の土葬かもしれない。

さて、物語は姥捨て山。幼い頃に読んだ民話では、殿様が「じじばばは役立たずだから山に捨てろ」と御触れを出したが、この舞台では食い扶持が確保できないために自ら編み出した風習になっているところがポイント。結果、住んでいる人々も老後は山に捨てられる、または死にに行くことを前提とした人生を歩むことを意識付けられている。

長男の緒方拳はもちろん、母親の坂本スミ子が見せる有無を言わさぬ迫力がすごい。歯を折って自分が山に行くべき者であることを知らしめる行動力、背負われながらも決して取り乱さない精神力と、母の鑑でした。

姥捨て山の話はあっても姥捨て海の話がないのはなぜだろう。どっぽんと放り込んだら、山よりも死ぬ確率が格段に高くなって物語性が失われるせいだろうか。はたまた山よりも食料が豊富なせいだろうか。

また、あれだけ食料の少ない山間部で、村の懲罰で単に人を埋めて終わらせるものだろうか、とさらに恐ろしいことを考えてしまった。蛋白源にしないのは、風習という形の倫理が村人の行動体系を規定しているため、食人までには至らなかったと読みとったが、どうか。でも禍々しさと生命の象徴、這いずってでも生きてやるという村人の諦めの悪さなどの象徴として蛇がたくさん出てくるので、「芋がなければ蛇を食べればいいのに」とフランス人のようなことを考えてしまった。

2006年09月08日

ガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』(新潮文庫)

予告された殺人の記録
G. ガルシア=マルケス Gabriel Garc´ia M´arquez 野谷 文昭
新潮社
売り上げランキング: 6,399

再読(3回目)。

本作が傑作であるゆえんは、この短さにあるかもしれない。映画でも2時間を超えるとどんな名作でも「長すぎ」という不満が出てくるものだ。短いながらも他の代表作『百年の孤独』や『族長の秋』と同じレベルの密度を保っているところがすばらしい。

今回はルポ的小説としてカポーティ『冷血』との比較を意識して読んだ。訳者あとがきでは、やはり『冷血』ばりの調査を元に執筆されていることが示される。

『冷血』と大きく異なる点は、作者が作中に登場して聞き書きの形をとること。『冷血』では作者は姿を消し、事実のみを追いかけている一方で、スミスに託されたカポーティの願望がありありと伝わってくる。本作では作者が住人の一人として後追いで事件をおいかけながら、当時の状況をリアルタイムで描いている。陰惨な殺人事件が当事者の目から見て、またガルシア=マルケスのユーモアと時間感覚のずれによって、ただのルポルタージュにはない不思議な共感を呼び起こす。『冷血』はルポルタージュの性格が強いために嘘が混じっていると信頼できない気持ちが先に立ってしまうが、本作で嘘がまじっているのは書き手の効果として受け入れられる余地があるところがおもしろい。キャラクターのちがいと一言で片付けられない作者の個性の発露です。

豚と軍艦

豚と軍艦
豚と軍艦
posted with amazlet on 06.10.07
日活 (2002/11/22)
売り上げランキング: 35,586

今村昌平監督1961年の作品。戦後特需に沸く横須賀のチンピラと幼馴染の娘を中心に、貧しかった時代の日本を描く。同じ日本語を話していても、ちがう国のような粗野、貧しさ、教育の無さがしみじみ伝わってくる。教育は大事だな。

やくざの手下となって臆病だけれどもひょいひょい働く金次(長門裕行)は、親分の殺しを引き受けることになる。しかし徐々に旗色が悪くなり、言うことを聞いても出世の見込みがないと分かったとき、やぶれかぶれの一策に出る。

金次の幼馴染はしがないバイトでろくに稼ぎがないままふらふらと暮らしていたが、アメリカ水兵の嫁のあてができる。結婚してしまえば一家が路頭に迷うこともなくなるが、金次という想い人がいるのでなかなか首を縦に振らない。

長門裕之以外にもキャストが有名人揃いで、水戸黄門は二人出てるし、丹波from霊界さんは病弱の兄貴を演じており影のあるダンディズムに本気で惚れます。ヒロインの娘さんもはすっぱな感じが出ていて、必ずしも美人の類ではありませんが、この映画にはぴったり。DVDのジャケットでも反抗的なまなざしが印象的で、自分のやりたいように生きるためにもがく雰囲気が出ています。

脚本はあまりすっきりしたものでなく、伏線の回収も消極的で分かりにくい。それでも全体を通して青春ものにあふれる活気、敗戦を経験して妙にすっきりした勢いが伝わってきて、なんだか元気が出る作品です。ラストはカタルシスと共に笑いも誘い、全体のぐだぐだをほんわかとまとめています。

2006年09月17日

ガルシア=マルケス『愛その他の悪霊について』(新潮社)

愛その他の悪霊について
G. ガルシア・マルケス Gabriel Garc´ia M´arquez 旦 敬介
新潮社
売り上げランキング: 76,693

1994年、ガルシア=マルケスが70歳を間近に迎えたときの作品で、『百年の孤独』や『族長の秋』から伝わってくる灼熱の大地や有無を言わせぬ迫力は衰えてきてますが、話は実におもしろい。 このタイトルは、海外の短編集でよく見る「●●とその他の短編」のパロディなのかしら?

侯爵婦人が奴隷と交わって生んだ娘が狂犬病の疑いをかけられ、修道院に入れられて幽閉されるが、そこに有望な神父見習い(36歳童貞)が現れる。聖と悪魔が禁断の恋に落ちるという案外古典的なあらすじです。

さてその中身はといえば、『キャリー』のようなB級ホラーぽさと、ラテンアメリカのじめっとした鬱屈加減が混じって、妙にキリスト教の敬虔さが強調されています。ちょっとカルペンティエール『バロック協奏曲』を彷彿させるのは、ラテンアメリカの貴族が中心になることで政情の不安や「所詮は移民」という引け目が出ているせいかも。歴史もの特有の距離感による軽さがあるので、『百年の孤独』よりは気軽に手に取れます。

まじめな坊主が年を取ってから色恋に落ちるとろくなことがない、というのは古今東西同じことのようで、ここでももうすぐ神父をつぐことになるデラウラが、美しいけれども狂犬病の疑いを受けてから人生が狂ってしまい修道院に入れられたシエルバ・マリアに惚れてしまい、幽閉された牢屋まで出向いて連れ出そうとします。しかし、シエルバ・マリアはそこまでの愛情はないために怯えてデラウラに立ち向かう印象的なシーン。

「ほっといて」と彼女は言った。「さわらないで」。 彼(デラウラ)は耳を貸さず、すると少女は嵐のように彼の顔に唾を吐きつけた。彼も後には引かず、反対の頬を差し出した。シエルバ・マリアはなおも唾を吐き続けた。彼は臓腑の奥からわきあがる禁じられたよろこびの息吹に陶酔して、ふたたび反対の頬を出した。目を閉じ、魂をこめて祈った。

変態や。この「禁じられたよろこび」に目覚めるシーンは、聖職者ならではの物悲しさと人としての歓び、人が覚悟することの潔さが、汚れたものにまみれることで美しく描かれています。ともするとSMシーンの一場面で終わりそうなものですが、ここまでのデラウラの生き方を読んでくるとこのシーンの輝きが天上の光を伴って映し出されます。

覚悟という意味ではシエルバ・マリアの母ベルナルダも、この物語で決定的な覚悟をします。それまでは侯爵の妻として好き放題に生き、何かといってはカカオの魅力に陶酔していましたが、やがて財産を持って侯爵の家を出ます。

彼女は奴隷の中から相手をグループで選んで、バナナ畑の畦道に一列に並ばせて相手にしたものだったが、そのうち蜂蜜酒とカカオ粒のせいで彼女の魅惑にもひびが入り、体はむくんで醜くなり、これだけの体が相手となると、どんなにやる気のある男でも気持ちの方が追いつかなくなった。最初は年下の男たちを、美貌と逸物次第で金ぴか物を餌にして釣り、最後にはとにかく黄金を積んで釣れるものなら何でも釣った。彼女の果てしなき欲望から逃れるために奴隷たちが集団でサン・バシリオ・デ・パレンケに逃亡していることに気づいたのはずっと後になってからだった。

豪傑ベルナルダ。醜く老いさらばえた彼女はさらに侯爵に告白します。

「その時になって、あたしには連中のこと、鉈でぶっ殺してやるぐらい平気でできたのにってわかった」と彼女は涙のしずくも見せずに言った。「奴隷だけじゃなくて、あなたやあの子、それに安物買いのうちの親父、あたしの人生にうんこをかけてきた奴らみんな、平気でぶっ殺せる自分がいた。でももう、その時には、人を殺してどうなる自分でもなくなっていた」

恐ろしい告白です。人を殺してどうとも思わない倫理観はもちろんですが、それを超えてしまった自分を冷静に見つめるまなざしは救いなどないし求めてもいない。おそらく人が死を意識したときなどに「どうなる自分でもない」ことに気づくのかもしれませんが、同じ発想でもそれが幸せなのか絶望なのか、二つの間にある果てしない隔たりがずしりとのしかかりました。

この秋に出るガルシア=マルケスの翻訳2冊のウォーミングアップとして、充実した読書ができる一冊でした。200ページ足らずなので、ガルシア=マルケス入門編としてもぜひ。

2006年09月18日

白洲正子『器つれづれ』(世界文化社)

器つれづれ
器つれづれ
posted with amazlet on 06.10.07
白洲 正子 藤森 武
世界文化社
売り上げランキング: 122,149

著者が雑誌などに書いた器に関する記事をまとめ、カラー写真でお気に入りの器や道具を掲載した一冊。著者はこの本を編纂している間に亡くなられたそうです。

本書は日本の伝統文化に造詣の深い著者が、青山二郎などの陶芸の師匠たちから学び、生活に取り入れていった器の数々をきれいな写真で紹介しています。わたしには、そのへんの古道具屋でほこりをかぶっていそうな汚れてふちの欠けた器に思えるのですが、それでも著者のしなやかで自分の誇りを芯にした文章を読み、写真をじっくり見ていると、自分の器を見る目が変わってきます。きれい、整っているだけが美ではない。素直さ、素朴さ、生活の一部となれる馴染みが感じ取れるような気がしてくるのです。

著者は器は趣味の問題だから必ずしも正解はないとしながら、

好き嫌いというものは、あくまでも趣味の問題だから、当然、一人ひとり「好み」が違っていいし、私ごときが口をさしはさむことでもない。しかし、悪趣味は、どう見ても悪趣味としか思えない。

と言い切ります。断言するには背景となる知識と体験が必要で、身に付いた自信がなければどうしても腰がすわった言葉になりません。これはわたし自身も常々痛感していること。著者は青山二郎や魯山人から知識を受け継ぎ、自ら器を見、買い、使うことで他人は他人、だけど自分が美しいと思う物の指針を明確にしています。

ただ、明確にしているといっても、それを言葉で言い表すことは難しいし、すべてが伝わるとも思えません。その点、本書は著者が使って気に入っている器や道具を多数掲載しています。その写真は一枚としてスタジオで撮影したようなすべらかなものはありません。おそらくは著者自身の家や時には外に並べられ、器に合う布を敷かれ、季節の花を生けられて撮られています。薪の上に置かれた灰釉徳利だけでも、静かで凛とした、それでいて開放的な空気が漂っています。

この空気を少しでも我が家に持ち込むためにも、本にしおりを挟んで古道具屋に行ってきます。古本やめても骨董に呼ばれていては、ますます財政が苦しくなってしまいそうですが、これも理想の自分に近づくため。学ぶことは自分を好きになり、毎日を暮らすための重要な糧であるとしみじみ感じました。酔っぱらいながら眺めるのが最高です。

2006年09月20日

山田正紀『弥勒戦争』(ハヤカワ文庫JA)

弥勒戦争
弥勒戦争
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山田 正紀
角川春樹事務所
売り上げランキング: 85,306

『神狩り』はSF初心者のわたしにもくっきりと爪あとを残す傑作でした。言語学と神の実在をSFに絡めた上で、文章は読みやすくスリルあふれる展開にはらはらしたものです。あれから5年、『神々の埋葬』と含めて3部作とも位置づけられている本作に挑戦です。

「独覚」と呼ばれ自滅を運命づけられた超能力者たちが、弥勒と呼ばれる謎の存在を感じ取る。弥勒は終戦直後の日本を占領したマッカーサーをはじめ、まだまだ戦いと流血を求めるように要人たちを操っているようだ。謎の朝鮮美人に惹かれながらも、自らに課せられた運命を果たすために困難を乗り越えて最後の独覚となる結城弦が未知の弥勒に戦いを挑む。

黒くて大きなサングラスにロングコートのハードボイルド+超能力+地味な架空戦記。どのへんがハードボイルドかというと、

――次はおれの番か……。

と覚悟しても死なないところ。

――おれが殺したようなものだ。

としめっぽく後悔するところ。ハードボイルドって沸騰して水分が蒸発しているイメージがあるんだけど、主人公はいつもぐじぐじと湿っぽく後悔してるんだよな。

この小説を楽しむのは、悲運を定められた独覚たちにどこまで感情移入できるかにかかっています。それとこの壮大な設定にのめり込めること。わたしはハードボイルド要素にはわくわくできたのだけど、いかんせんこの壮大な設定を生かすには枚数が少なすぎて、特に後半はぱたぱたと作者の指で駒を倒していくような性急さを感じてしまいます。

それでもハードボイルドな友情、宿命論にあがく主人公たちの勇敢さをあっさり楽しめるところは、『アルテミオ・クルスの死』に疲れた頭にはちょうどいい息抜きでした。

2006年09月22日

ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』(白水社)

フロベールの鸚鵡
フロベールの鸚鵡
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ジュリアン バーンズ Julian Barnes 斎藤 昌三
白水社
売り上げランキング: 106,501

読んでから感想を書くまでしばらくかかった。自分の期待と物語が大きくちがっていたことのショックが大きく、読了までそれをひきずったのが評価の低さにつながっている。

一番の問題はわたしにフロベールという対象への興味がないどころか、小説家、文学者全般にあまり興味をもてないところだ。小説家、文学者には人としての親近感が持てず、どこか自分とはかかわりのない人という認識がこびりついて落ちない。だから書店などで行われるサイン会なども積極的な興味はない。講演会などは別で、聞くのは楽しいしおもしろいのだけど。

文学者への嫉妬から来る無視、嫌悪ということも考えてみたが、たとえば無条件に尊敬するNBAやNFLのスポーツ選手、またはミュージシャン(特にプログレ系)であったとしても人物を掘り下げる研究までには興味が至らない。性別が男女どちらでもいっしょ。このあたり、わたしにはミーハー成分が欠如していると言えるだろうし、それはわたしの愛の薄さに基づくものかもしれない、とここではとどめておく。

本書ではフロベール研究家の語り手によって、フロベールが手元に置いていた鸚鵡の真贋を調べるところから始まり、やがてフロベール研究書の形をとりながら、語り手の身辺が明かされていく。ちょっと度の過ぎた本オタクの過剰な語り、研究結果を楽しめるかが肝。わたしはちょっとチャンネルが合わなかったので、再読する機会があったらそれまでにフロベールを読んでおきたい。

ちなみにバルガス・リョサにもフロベール論があるという(『果てしなき饗宴』(筑摩書房)from池澤夏樹による書評)

なんとも覇気がない小説だと憤慨していたところ、まったく異なる方面から解読のヒントを得たような気がします。

辻邦生、水村美苗『手紙、栞を添えて』という美しいタイトルの文庫本で、雑誌での交換書簡をまとめたもの。ここでもフロベールが取り上げられており、辻氏は

生命的であることを否定するこの作家

と言い、水村氏は上品ながらも否定的な見解で、

小説として圧倒されることはされるのです。(中略)本を閉じる時、涙すら浮かびます。ただ、その悲しさはやがて活力となって心を癒してくれる悲しさではない。

と、二人ともどこか人間を描く純粋な文学と異なっているという見方を持っているようです。

フロベールマニアの語り手は医者という生命を司る仕事につきながら、もう定年を超えて自らの寿命を数える年になっており、その妻はゆえあって行方不明となっている。「明日はこれをしよう」というささやかな予定や小さな希望すらない。単に生命維持装置としての自分が動き続ける理由として、長年にわたって社会的な地位を築いてきた医者という職務ではなく、フロベールマニアであることを選んだのです。その語り手の気持ちは、まだまだ死に向かいきれていないわたしにはついていけなくても当然なのかもしれません。

いずれにしても、本書はフロベールを読んでからでなければ本当のおもしろさは分からないのではないか、と自分に言い聞かせて本棚にしまうことにいたしましょう。

2006年09月27日

『くらしのやきもの事典 昭和の名品と全国の窯場』(MCプレス)

まさにわたしのようなやきもの素人のための一冊。磁器と陶器のちがいという当然のところから、やきもので使われる専門用語、地方のやきものの特徴がオールカラーで説明されており、大変便利。副題に「昭和」とありますが、古伊万里などの写真もあります。ただ、B6サイズで160ページと情報の濃度を求めるにはちと薄い。あくまで初めの一歩として入門編という位置づけで作られた本でしょう。

実家の笠間焼も出ています。淡白な感じ。数葉の写真だけで判断すると、備前焼や萩焼の力強さにひかれ、常滑の酒器などもシンプルだけど普段の生活にきりっとした筋が入りそうな切れがありそうです。

巻末には昭和に活躍した偉大な陶芸家を紹介している。わたしはいわゆる骨董の趣味はまだないけれど、萩焼の三輪休和の雪をかぶったような茶碗には魅力を感じますね。確かその筋にあたる人が今年の夏に東京で個展を開いていたはずなのですが結局行けずじまい。旅をしてでも見に行きたいですが、それにはまず貯金をしなければ……。

1点残念だったのは、写真によって妙に赤っぽく写ってしまっているのです。きれいな紙を使ってオールカラーなのにもったいないことです。器がややぼんやり見えてしまって、残念。

2006年09月30日

『ベータ2のバラッド』(国書刊行会)

ベータ2のバラッド
ベータ2のバラッド
posted with amazlet on 06.10.07
サミュエル・R. ディレイニー 若島 正 Samuel R. Delany
国書刊行会

あー、SFキライじゃなくてよかった。特にNW(ニューウェイブ)-SFはわけわかんないからキライなんて毛嫌いしなくてよかった。これもみんな学生時代にがんばって読んだブルトン『シュルレアリズム宣言』(特に「溶ける魚」の詩的な無意味さ)のおかげだな、ブルトン先生ありがとう。あの本からわたしは「よくわかんないものを楽しむ」姿勢を学んだと思う。実は自分の理解できないものに喜びを感じることは訓練が必要だ。未知への不安について「わかんねえんだよ、このやろう」と怒り出す人もいるかもしれない。わたしだって時々そういうことはあるけれども、分からないことを分からないままに受け入れる心構えはしてきたつもり。未知は不安と共に新しい世界の始まりであることも忘れてはいけないと思う。

もっとも不評のベイリー「四色問題」。セックスを暗示したへんてこな物語と、四色問題を解こうとあがく老人と少年、数学的な説明が入り乱れ、「この小説が何を言いたいか」ということは全く理解できなかった。だが、この四色問題、性的な関心から何か連想することはないだろうか。日本人なら誰しも一度は耳にした血液型占いである(海外では星座占いがメジャーです)。合コンなんかで四色問題をさかしげに持ち出して、「人間もね、四色より少ない色で分けることはできないわけよ。君、何型?」と居酒屋トークの皮切りとなり、数時間後にはロケットでマグマへ突入するのであります。でも、いつまでも四色問題をひっぱっていると、非モテとなり少年を連れていつまでも解決できない四色問題をぐずぐず考え続けることになるという、分かりにくい教訓として読みました。また、佐藤哲也ぽく

つぎの瞬間、地球のマントルが流れ込み、会議室もその中身も高密度の熱い岩石の堅固な連続体へと融合していった。
と繰り返されてそれまでの話ががっしゃーんと卓袱台返しされるのも小気味よい。

もちろん、ディレイニ(あえてサンリオ表記)もいい。最初は読者がまごつくように背景の説明を極力抑えて、主人公と共に徐々に世界が明らかになっていく手法は、SFの常套手段でありSFだからこそできる技法です。その明らかになる瞬間は脳内で何かが発火したような名状しがたい喜びがありますね。この作品も、よく分からない歌を学校の先生に叱られていやいや解読していくだけなのですが、ラストはエンターテイナーの手法を見せずに魂だけで持っていくディレイニならではの盛り上がり。すばらしい。

キース・ロバーツ「降誕祭前夜」は原題がドイツ語なのがポイント。ドイツ語の理由は読んですぐに分かるようになっていて、『パヴァーヌ』を読んでいるので納得の構成。日本でやるとどうしても戦闘シーンばかりがクローズアップされてしまうけど、本作は「その後」が舞台となっています。日本だとどうしても嘘ぽくなるのに、ヨーロッパが舞台だとファンタジーでもなく、SFの一つとして「ありえる」物語として読めるのは、単に距離の問題なのか、はたまた文化そのものに由来するのか。民族が多いがゆえに異なる歴史を選択した可能性がより身近に感じられるのかもしれません。キース・ロバーツらしい性格悪いセンチメンタルさが存分に発揮されていて、一気に読んでしまいました。喪失感を書かせたらSF界ナンバーワンかもしれません。

ちょっとネタばれ。

部屋に置かれた禁書を読むまでは、同伴の女性がダイアンであることは地の文では明かされていません。マナリングの会話でダイアンと知れるだけです。つまり、この時点で女性はいるけれども読者はダイアンであると信じ込まされている、ともとれるようになっています。ここはうまい。また、禁書を読んでから現れる女性はダイアンと自ら名乗っている。ここからは主人公マナリングの幻想とも解釈できます。そのあたりの虚実の分かれ目をたゆたうのもこの小説の楽しみ方。

ハーラン・エリスン「プリティ・マギー・マネーアイズ」は再読。だが、改めてかっこよさを感じる。すかんぴんのところから、謎の力を借りて陳腐な成功をおさめるが、それには裏があったという話。このどうしようもなく陳腐で、それでも生命力にあふれた気合いがエリスンの魅力であり、短編集を通すと冗長に感じられてしまうところ。

あとの2つは無難なSF。あまりNWぽさは感じませんでした。でも、この短編集は入門編としても、NWというすでに古ぼけてしまった前衛の勢いを感じる意味でもいいセレクションだと思います。

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