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2006年08月 アーカイブ

2006年08月05日

リリー・フランキー『美女と野球』(河出文庫)

美女と野球
美女と野球
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リリー・フランキー
河出書房新社

くそう。おもしろかったです。このおもしろさがくやしい。

いかにも脊髄から笑いの神経だけずぼっとひっこぬいて言語化したようなえりすぐりのアホテキストが並びます。どこ読んでも笑えるのよ。学生のとき中島らもを読んでげらげら笑ってましたが、やっぱり関西の笑いには感覚的に少し遠いものを感じていました。それよりも関東のあっけらかんとして裏のないバカさが肌には合っているのかもしれません。

"結局勝負はインポになってからだろう"

ここからおいらくポルノの世界へ展開する流れのおもしろさ、強引な自然さが実におもしろく、見習いたい。

立ち読みしたベストセラーの『東京タワー』や、最近の雑誌を見ると、この頃の爆発的なギャグセンスはなりをひそめて、「バカもやれる人がしんみりしちゃった」せつなさを売りにしているのでしょう、が、わたしはだまされないぞ。もっと走ってよ、かけぬけてよアホ街道。

2006年08月08日

Paladin「Charge!」

Charge!
Charge!
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Paladin
Red Steel (1996/07/08)
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プログレの言葉とストレンジ・デイズ・レーベルにつられて聴いてみました。パラディン(騎士)で「charge」ということは「税金よこせ愚民ども」ということかしら。

プログレのくせにファンキー、それでいてプログレ特有のインプロヴィゼーションがある。いわゆるプログレといってイメージするYes、King Crimsonなどからはほど遠い音楽性で、わたしのイメージするストレンジ・デイズ・レーベルからはほど遠い。

ファンキーさとハードロックをこの時代に兼ね備えていることはすごく評価できる。が、いかんせんこの音楽性は時代が早すぎたんではなかろうか。1.Give me your hand、3.Get one togetherのようなPファンクなテイストもあれば、レイナード・スキナードのようなサザンロックなテイストもあり、4.Anyway、6.Mix Your Mind With The Moonbeamsは普通に哀愁ロックで、アルバム全体としてわたしには統一性がないように聞こえる。

それでも夏のからっとした太陽の下で変拍子全開のじめじめした様式美プログレを聴くよりは、ずっとわたしの気分にあっています。夏向き。

三島由紀夫『潮騒』(新潮文庫)

潮騒
潮騒
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三島 由紀夫
新潮社
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三重近くの島を舞台としています。漁業を生業としており、男たちは日々船に乗り、女は海女として貝を採る。なんとか高校を出た主人公は、仕事上がりに海岸で見知らぬ女に出会い、初めて女を意識する、普通の青春純愛もの。

と思いきや、三島はひととおりの恋愛小説を書いてはいない。『仮面の告白』を読んだときには三島由紀夫にほとんど興味がなかったために挫折して以来、わたしは今まで「ゲイ」(彼の場合は「男色」と書いた方がいいかな)というカテゴリに収めていた(カテゴライズは敵だと散々言っていたにもかかわらず!)。それは自分の生い立ちを過剰に描く自意識過剰さに疎ましさを感じていたせいかもしれない。

ところがこの小説では冷徹に村の人間関係を見つめ、自然主義的な語り口を用いている。冒頭では舞台となる島を映像的、データ的に俯瞰しつつ、主人公にゆっくりとズームしていく視線は、空からふわりと降りてくる鳥になったかのような浮遊感を感じさせます。これが文章で味わえる映像か、と最初から興奮いたしました。

なんといっても見所は島の男尊女卑的な空気をみっちり描きつつ、女性が男性を評価する視点をも保っているところで、ゲイの文学と聞いて彷彿するマッチョイズムとそれにくみしかれる女性の両方が存在するところ。先日読んだエドマンド・ホワイトといい、三島由紀夫といい、女性が男を見定める視線の厳しさと力ではそれにあらがえない諦めが同居することによって生まれる女性の知恵の輝き、判断の鋭さが現れている。たとえば、

二階から一階へ降りがけに、新治の背後でその下駄の音が止った。新治はふりむいた。少女は笑っていた。 「何や」 「私も黒いけど、あんたも随分黒いねえ」 「何や」 「よう日に焼けとるがな」

ふつう、人が日に焼けていることを指摘する時は、正面から顔の黒さを見て判別します。それを階段の後ろから頭を中心に、漁で引き締まった身体を見て指摘する構図がおもしろく、エロいのであります。もちろん下駄の音を止めて相手がどれほど自分を気にしているのか見定めるテクニックも秀逸。今なら拍子木のようなカシーン、カシーンと音のするサンダルで同じ効果が出せますので、女子のみなさんは奮って応用してください。

漁の危険、義父の反対、恋のライバルが仕掛けるいやらしい罠、婚前の焦燥と、いかにも昨今尊ばれる純愛の要素を全て込めて、たどりつくラストの一文! この一文のために小説がある。男の人はこの一文に戦慄し、心に刻んで恋愛してください。わたしは鳥肌立ちました。やや蛇足も見られる(千代子がらみはほとんど不要でした)ものの、この傑作を知らずして、君、恋に落ちるなかれ。

2006年08月09日

やってやる

TOEICを受けることにしました。もうこの年で何の資格もなくまともに雇ってもらうのは無理と分かったので、ちょっとでも箔を付けるために受験します。ぺかぺか。

Readingのテキストは誰がなんと言おうと伊藤和夫せんせいだ。本当は『ビジュアル英文解釈』を1、2とやっつけてから臨みたいけれどそれだけの時間はなさそうだし、全然文章の意味がとれないほどではないので、文法はある程度後回しでもいいだろう。少しでも単語力、語彙力をつかむために同じ伊藤和夫せんせいの『新・英文法頻出問題演習』を通すことを自分のノルマとします。せんせい、おれはやるぜ。

ビジュアル英文解釈 (Part1)
伊藤 和夫
駿台文庫
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ビジュアル英文解釈 (Part2)
伊藤 和夫
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新・英文法頻出問題演習 (Part1)
伊藤 和夫
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新・英文法頻出問題演習 (Part2)
伊藤 和夫
駿台文庫
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Listeningについてはずっと悩んでいた。金のない身としてはNHK第2を録音するか、ブクオフでCD付きのテキストを買うかの二択が現実的だ。ただ、NHK第2は時間が合わなかったり、解説がどうもかったるかったりで集中できない。ブクオフで探すのも時間ばかりかかっていまひとつ。そこで気づいたのが子供向けのインターネットラジオ。BBC Radio4は意外に聴きやすいし語彙もそれほど複雑じゃない。何より「夏休みは何を読むの?」みたいにわたしにとって興味のある話題を扱うところが楽しい。今のところ危惧していたイギリス英語の抵抗はない、というよりそこまで聞き取れていませんすいません。

履歴書には600点から自慢できるという。今の自分にはかなり遠い点数だと思いますが、Yes,I can fly!と窪塚くんをお手本に飛んでみたいと思います。こっちは飛んでも命の危険はないからね、安心です。

2006年08月10日

ロバート・キヨサキ『金持ち父さん 貧乏父さん』(筑摩書房)

金持ち父さん貧乏父さん
ロバート キヨサキ 白根 美保子
筑摩書房
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おもしろかった! だるまなわたしの目を開いてくれてありがとう。

すべては自分の自信、好奇心、それを満たすための勉強が大切ということです。今まで就職というスタート地点なんて見向きもしなかったために、大幅に出遅れたわたしは今からちょっと走ってやろうじゃないの、という気になりました。

ベストセラーを敬遠していた人で、今の人生が自分の思い通りになっていない、または自分の期待するほどお金を持っていない人は読むべき。逆に、今の自分を変えたくない人には読み過ごされる本でしょう。わたしの母も読んでいたけど、典型的公務員の彼女は「貧乏父さん」の考え方からまったく抜け出していなかった。親子でも読んでいるところはちがうとも思いますが、母はすでに人生の終わりに近づいており、自分の人生が「貧乏父さん」だったとは考えたくないのかもしれません。

とりあえず今までは実現しないと思っていたいろんな目標を掘り返したり作り出したりしながら、この本はときどき取り出して気合い付けに読み返したいと思います。あんなやつらに負けないからっ。

2006年08月13日

新藤兼人『老人読書日記』(岩波新書)

老人読書日記
老人読書日記
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新藤 兼人
岩波書店
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冒頭から老人の孤独をろうろうと語り始めたので、どれほど痛ましい内容なのかびくびくしながら読み進めましたが、さすがに脚本家、映画監督だけあって、本の内容を的確につかまえて、印象に残る場面をつらつらと引用してきます。本を読むというよりも、本に正体するような、本の神髄をとって食うくらいの勢いが垣間見えるほどです。

取り上げられている本は、ドストエフスキー、漱石、チェーホフ、西田幾多郎などのいわゆる古典ですが、読んでいく著者の視線は若々しい。

わたしが八十を越え、半ばを過ぎてみると、老人というものはそんなおだやかなものではない、妄執、欲望、恐怖、で苛立つばかりだ。 過去に裏切られた数々の無念、また裏切ったことへの痛恨、確実に死に向かって一歩一歩近づいている恐怖、そして家族に疎んじられている口惜しさ。平和を愛するどころか、修羅の巷といっていい。

と、達観からはほど遠い感情が沸き立っているのです。若い頃に抱えていた漠然とした不安をくぐりぬけて数々の名作(わたしは見てませんすいません)を撮ってきた著者ですら、孤独と不安に立ち向かっている。ネガティブな感情を克服するというと見映えはいいですが、実は創作の根っこを断ち切ることであり、むしろたくさんの感情を抱えたままで走りきる力を付けることが大切なのかもしれません。そのような感情を抱えた著者は、それゆえに傑作をものにすることができたのだと思います。

30を過ぎてのんびりすることばかり成長させてきた自分にとって、この本は感情の枯渇は一つの死であり、むしろ晩年を迎えてなお若かりし頃の感情を原動力としている著者に敬意を感じるのでありました。

また、書評の書き方という点からも勉強になります。「テネシー・ウィリアムズの「私」」という章では、きちんと字数を数えていませんが、おそらくは著者の言葉よりも作品からの引用の方が多そうに見えます。

ウィリアムズに「あなたは何ものですか」と問えば「さあ、ぼくは何ものでしょう」と答えるだろう。その「何もの」かをわたしたちは知りたい。

自らの言葉よりも作品の言葉を新たに書き写すことで、著者は対象に少しでも近づきたかったのかもしれない。書かれている言葉をまっすぐに受け取り、自分に照らし合わせて、さらに新しく生まれる言葉を記すこと。ほっとくと腐ってしまう脳みそを、ぬか漬けを混ぜるように、本を使って丁寧にかき混ぜるような著者の優しい手が見えるようです。

著者は映画監督でありながら、溝口肇の脚本を長く手がけていたという。その時に培われた構成力は、数々の本を読んで身につけたものだというが、特に仕事がないときにこたつにくるまって妻とともに本を読んで過ごしていたというエピソードは、漫然と読み散らかしているわたしの胸にささった。妻とともに金がないながらも本を読み続け、やがて戦争に駆り出される、その間の書評とは関係のない体験には愛があり、孤独がある。とりあえずは読む本に不自由せず、食べるものに不自由しない自分をもっともっと奮い立たせて、老人になってもこの1/10くらいでも感動できるような読書を続けたいと思いました。暑くてだるくてなんとなく本を読む気にならないときにおすすめ。

2006年08月19日

内田義彦『読書と社会科学』(岩波新書)

読書と社会科学
読書と社会科学
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内田 義彦
岩波書店
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社会科学を学ぶ際に読書会を開催するにあたって、気をつけることをやさしく説明してくれる。
たとえば、積極的に発言が行われる読書会に参加した後での印象として、

一人で印象深く読んできたこと、心に感じたままを率直に発言したことが受けとめられ深められる形で議論が進まずに、それていく。何か奇妙なずれを感じさせられることが多いんです。(P.5)

ここはもう、そのまま今の読書部にも通用する指摘です。あくまで立ち位置は自分が読んだ本と自分の感想なのに、活発な会話が交わされていくうちに、自分がおもしろいと感じたところが取り上げられず、本の内容から外れていってしまう。さいわいにして、読書部ではそれほど逸脱したことはないと思いますが、常に参加者がみな自分の思ったことを口にできる場を提供したいと思いをあらたにさせられました。

また、感想文については実に刺激的なまとめをされています。「みだりに感想文を書くな」と提言したうえで、

感想を狙いに本を読んじゃいけない。感想は読んだ後から——結果として——出てくるもので、それを待たなければならない。さいしょから感想を、それも「まとめやすい形での」感想を求めて、いわば「掬い読み」をするかたちで本に接するから、せっかくの古典を読んでも、そのもっともいいところ、古典の古典たるゆえんが存するところを取り逃がしてしまう。(P.54)

これは実に耳が痛い。もちろん感想文を書くことが読書において最優先されるわけではありませんが、わたしにとっての読書は読んでそれを解釈し、さらに何かしらの形で出力するところまでを範囲としています。最近は確かにその「解釈」の部分を早急に判断するのはいけないと思っていて、第一段階の感想文から少しずつ変えて、たいていは読了3日後くらいにアップしています。ただ、感想を言葉として出力できない場合に無理をしない、という心がけは大切だと改めて認識しました。もっと自分の言葉として責任の持てる文章に整えること、言葉を探すことを怠けてはいけないのですね、内田先生。

さて、読者として受け取ったものの解釈はいかになされるべきか。単に自分の基準だけで読み解くのももちろん一つの形ですが、内田先生は次のようにおっしゃっています。


作者が作品とは別個に、自作について表明した「作者の意図」を安易に、頭で理解してしまって、その、頭で理解した作者の意図なるものを作品の外から持ち込んで、その眼で作品に接することになりやすい。すると、肝心の作品の字句一つ一つに対する取りくみが上すべりになる。(P.81)

この部分で述べられている「作者」は「批評家」「他者」などと置き換えられるかもしれません。つまり、他の人の解釈を読んだり聞いたりすることがかえって自分の解釈に影響し、場合によっては自分なりの解釈を阻害することがあるということですね。だからこそ、読書部にはしっかりとした自分の読みを立てて参加する必要があると感じました(他の人に強制はしませんが)。

一方で後半の「創造現場の社会科学」では自分が解釈するための概念装置を確立させるために必要なことが語られるのですが、正直この年になるとそのへんは固定化してきて、またある程度は固定化されるべきだと思います。もちろん、新しい概念を受け入れるための余地は常にあけておかなければいけませんが、それと自分の軸となる思想を両立させることについては、この文章から読み取ることができませんでした。

それにしても読書会について推奨し、しっかりとその心構えを説く本は日本ではそうそう見ることがありませんが、この本は良い入門であり常に心にとめておくべきことを記しています。読書会に参加される方はもちろん、単なる読書でも自分の軸を定めてそれぞれの本をないがしろにせずに読むことの大切さを感じました。社会科学、経済史に興味のない人にもおすすめです。

2006年08月24日

サガン『ブラームスはお好き』(新潮文庫)

ブラームスはお好き
ブラームスはお好き
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フランソワーズ サガン 朝吹 登水子 Francoise Sagan
新潮社
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BGMはハイフェッツのバイオリン協奏曲でしたが、作中では「オーケストラが勢いよくはじまったとき」とあるので、二人が聞きにいったのはピアノ協奏曲だったのですね。わたしはセレナーデが好きですわ。

それにしてもフランス人は愚かだな。気持ちばかり若いわたしは、ツバメであるところのシモンに思い入れを持って読んでいましたが、まあ、なんと救いのない話でしょうか。

中年を迎える女が感じる不安や倦怠の一方で、若いイケメンに情熱を捧げられる歓びもあり、いつかその情熱が途切れるときの恐怖もないまぜで、そんなに忙しくては当の男は複雑すぎてついていけませんよ。楽しいだけじゃダメですか?

目の前の歓び/寂しさと将来の不安/安心をてんびんにかけて、将来を選んでしまうのが大人の悪いところだと思いました。そのへん、一人でうまく需要と供給ができれば世はなべて泰平ならむ。

2006年08月27日

トルーマン・カポーティ『冷血』(新潮文庫)

冷血
冷血
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トルーマン カポーティ Truman Capote 佐々田 雅子
新潮社

1年たたずに文庫化する新潮社さんは冷血だなあ。

ルポルタージュは事実を告知する。それはニュースよりも「現実にあったこと」の描写を目的として、全体に文章も長いものになるだろう。それは単にあった事実を概念的に報告するだけでなく、実際の行動、言動を絵画的に描写することが目的であるからだ。つまり事件の模倣、繰りかえし再生できるカセットやビデオテープのような再現性を文章で目指したものだ。この『冷血』は単に事件の描写というわけではない。殺された被害者たちは死ぬまでの時間は当然生きており、話もすれば次の日以降の予定も組み、恋人とちょっとした仲違いもしていた。それまでの事件自体に着目したルポルタージュとは異なり、より人に近づこうとした文章になっている。

それは加害者の側でより顕著になる。おそらく、それまでの事件記事で、被害者がどんな人物かを描写した視点はあっても、加害者がどのような人生を歩んできたかをクローズアップしたものはそれほどなかったのではないか。あったとしてもそれは歴史的な事件を背景に持つ、歴史書という形をとっていた。この『冷血』のおもしろいところは、事件の発生から一介のならず者である加害者にアプローチして彼らの処刑=死までを描くことに密着していること。それが唯一の事件の真相を描く手がかりだから。

ところで、この秋に日本で公開される映画では『冷血』を執筆しているときのカポーティ自身が描かれている。160cmに満たない低い身長、同性愛、甲高い声、どれをとってもいわゆる「男らしさ」と無縁の姿がクローズアップされている(特にフィリップ・シーモア・ホフマンのアカデミー賞候補について取りざたされている)が、実は『冷血』の取材にあたって、カポーティは自分の名声を利用して、かなり仁義にもとるふるまいをとっていたらしい。当初は世間へのなじめなさをスミスに託して、教育を受けていないけれどもアウトローとしてとてもクレバーな人物として描いている。しかし、取材の後半になるとペリーがカポーティに会おうとしても決して「コーナー」に足を向けることはなく、カポーティ自身も精神の均衡を崩してドラッグ、アルコールにおぼれていく、話らしい。

それはなぜか。実は、『冷血』の登場人物のうち、事件の段階で被害者は少なくとも全員死んでいるし、加害者の二人も1965年に処刑されている。つまり、1966年に『冷血』が出版された段階で、被害者と加害者の会話についてはすでに検証ができない状況だ。ありていにいうと、クラッター家とペリー、ヒコックの発した言葉についてはカポーティの創作である可能性もあるということ。この本の驚きの一つとして、現場の情報を正確に伝えるというルポルタージュに、「なかったかもしれないこと」を織り込むこともあったにちがいない。

しかし、世界はそれを受け入れた。一家殺人というゴシップの内情をこれでもかと暴きだしている本作は、新しいルポルタージュの始まりであると同時に、人間のどこまでも不謹慎な好奇心を満たし、ひいては作者本人にはねかえってくるゴシップ記事となった。その後、「新ジャーナリズム」という形式にひきつがれ、おそらくはガルシア=マルケスのジャーナリズム的作品『幸福な無名時代』『戒厳令下チリ潜入記』「大佐に手紙は来ない(『ママ・グランデの葬儀』所収)」(わたしは読んでいない『悪い時』なども)や、やはり実際の事件を元にした『予告された殺人の記録』に影響を与えたのでしょう。カポーティに興味はありませんでしたが、意外なところで自分の興味とつながっていたということで、非常に収穫のある読書でした。昨今毒にも薬にもならない器の小さいフィクションが多い中、内容も、その位置づけも「フィクションでした」の一言で片付けられない作品だと思います。

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