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2006年05月 アーカイブ

2006年05月07日

エイモス・チュツオーラ『甲羅男にカブト虫女』(筑摩書房)

甲羅男にカブト虫女
甲羅男にカブト虫女
posted with amazlet on 06.10.12
エイモス チュツオーラ Amos Tutuola 鴻巣 友季子
筑摩書房

チュツオーラはアフリカの作家で、晶文社から出ている『やし酒のみ』が有名ですが、筑摩書房や今は亡きトレヴィルからも数冊出していました。しかし今はどれも絶版。アフリカ文学日本語訳一覧さんによると1990年の作品で、タイトルが魅力的な『甲羅男にカブト虫女』を出かけるついでに読んでみましたが、見事に(悪い意味で)期待を裏切られました。

チェツオーラといえばわたしにとっては『文無し男と絶叫女と罵り男の物語』の熱狂的な無常観につきる。ほんとにタイトル通りの3人が「金ね〜」「ぎえーっ」「あほばかでぶしね」というアフリカならではの(?)からっとしたアホっぷりを堪能したものでした。日本やラテンアメリカだと妙にしめっぽくなったり現実的だったりするところをさらりとかわす軽妙さを期待していたのです。

しかし、このチュツオーラはどうしたことか。短編集という性格か、ちょっぴり不思議な土臭い民話に終始して、物語が持つはずの渦が見られない。あらすじは「王様への貢ぎ物を途中で投げ出したらカブト虫にされてしまった女と、元盗賊で悪逆三昧を働いた罰として亀にされた男が森で出会って結婚する」だけ。これが連作短編としてだらだら続く。ほんとにひねりのなさすぎるタイトルに唖然とし、こんな荒唐無稽な民話ならアフリカに限らずどこにでもあるだろうとがっくりきた。チュツオーラには常識で計りきれないアホな展開を望んでいるのだけど、あまりにも素朴すぎてまじめにアホをやるおもしろさが消えてしまっている。この後おもしろくなるのかもしれないけど、半分読んで投げることにしました。ぽいっ。

2006年05月10日

三田村信行『おとうさんがいっぱい』(フォア文庫)

おとうさんがいっぱい
三田村 信行 佐々木 マキ
理論社
売り上げランキング: 219,764

表題作を含む5作がおさめられた短編集。児童文学とはいえ存在の不確かさを思い知らされ、非常に社会主義の影響を受けています。何よりすごいのはこの短編集が書かれたのは1965〜67年で、これほど不条理な世界を子供向けに書くというのもすごいし、出版した方もすごい。アメリカではピンチョンやヴォネガットがポストモダンを展開していた頃に、日本では三田村信行がいたのだ。

「夢であいましょう」は自分の夢の中で、別のある赤ん坊から子供の頃を眺めるが、不思議と眺めているうちに相手が嫌悪感を抱くというもの。ボルヘスも好きな胡蝶の夢を彷彿させるが、ラストの救いのなさはホラー並。

「どこへも行けない道」もタイトルそのままで、ある道を通って帰ってくるとがスライム状になった物体がいてどうやらこれは主人公の少年の両親らしい。こわくなって駅まで戻り、もう一度今度は普段使っている道を通って帰ってくると、今度は自分の家がなくなっている。三度目の正直で駅から家までたどってみると……。
ちなみに「夢であいましょう」とこの短編が掲載されていた雑誌名は「蜂起」。赤い!

「ぼくは五階で」もストレートに五階にいる話。五階の家に帰ってきた少年があの手この手で外に出ようとするがドアを開けても窓を開けても自分の家に戻ってきてしまうというもの。今なら映画のCUBEを連想するかも(わたしは全部は見てない)しれない。他の話もそうだけど、日常の中に不条理を生み出してその不条理もまた日常に溶け込んでいるところがうまいと思う。

そして表題作「おとうさんがいっぱい」は他よりもちょっと長め。これもやはりタイトル通りおとうさんが増えてしまう話で、同じ家で出くわすおとうさん同士が喧嘩したりなぐさめあったりしているが、社会現象になったことを重く見た政府が介入する場面がすごい。

当局は、すばやく事態の収拾をはかった。政府機関のすべてから、ふえた者が追いだされた。治安の維持という名目で、警察はすべてふえなかった者によってしめられた。やがて、ふえた者たちにたいして、当局は番号札を発行し、それを胸につけることを強制した。

すべての漢字にふりがながふられているとはいえ、子供理解できないから。番号で呼ぶなって怒られちゃうから。ふえたおとうさんの行方とは、そして平穏な日常は戻ってくるのか。

ここまで読んでくると、比較的普通の幻想文学ともとれる「かべは知っていた」も資本家に搾取されるプロレタリアートの悲哀を描いているように思えてしまう。ある日週刊誌で壁に入った男がいることを知ったおとうさんは、夫婦げんかの勢いで壁に入ってしまう。壁の中にいるおとうさんは飲み食いは不要だけれども地震のはずみか、現実の世界に戻れなくなってしまう。それを知っているのは少年ただ一人で、新聞を読んだりラジオを聞かせたりと献身的におとうさんを気遣うが、この貸家を取り壊す日がやってくるのでありました。これは読後に物語よりもタイトルが怖く感じる。

どれもこれも子供に読ませたらトラウマ確定、屈折覚悟のショッキングな短編集。挿絵の妙なシンプルさがかえって恐怖感をひきたてている。むしろホラー好きな人に知らないふりしてさらっと渡すと喜ばれるかもしれない1冊です。このころの児童文学作家にはかなり実験的な人がいたようで、児童書読書日記さんを参考にいろいろ手を出してみたくなりました。

2006年05月14日

レイナルド・アレナス『夜になるまえに』(国書刊行会)

夜になるまえに
夜になるまえに
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レイナルド アレナス Reinaldo Arenas 安藤 哲行
国書刊行会
売り上げランキング: 87,857

キューバというと近年のブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブの影響で、貧しいけれども音楽があってそれに合わせて踊り、きれいな海で人々が楽しむというイメージを持っていた。NHKの深夜に放送している世界の風景に合わせて民族音楽が流れる番組でも、楽しげなイメージしかありませんでした。

しかし、この本を読んだ後ではその裏でいかに人間不信に陥る社会が繰り広げられていることか。

レイナルド・アレナスは1943年、キューバの貧しい村に生まれ、小説家でホモでキューバ政府に投獄され、機を見てマイアミからNYに亡命するも、1990年にエイズを苦にして自殺する。この本は彼の自伝で、60〜80年代のキューバにゲイとして生きることの苦痛が赤裸々につづられる。

とにかく序盤のゲイ活動の積極性には頭を垂れるしかない。21世紀のわたしから見ればこれでエイズなり性病に感染しない方が奇跡的なペースで「やらないか」を繰り替えす。基本的には「道下正樹」側。「エロティシズム」という章では、引用するのも面倒なくらいにどこそこでどういう男を見つけた、話をしなくてもそれとなく分かった、水中でもやるなどという描写が続き、同性愛は体制への反抗心があったのだと結論づけられる。アレナスの描写するキューバには女性がほとんどいなくて、キューバには女性はいないとすら思えてしまう。いくら同性にしか興味がないといっても、これほど広く同性愛が広まるのか疑問にも思う。結局当局がゲイを取り締まって同性愛傾向のある者は逮捕されかなりの重罪に処されるわけで、あながちアレナスの描写は嘘でもないようだ。女の子大好きなわたしには受け入れることはできても実感できない世界です。

本の後半ではそうして逮捕された牢獄の描写が続く。娑婆ではあれほど男を漁り続けたアレナスが、牢獄ではさらに罪を犯すことを恐れてほとんど男性と関係を持たずに過ごす。周囲ではそれなりに男同士の花が咲いていたにもかかわらず。そう見ていくと確かに社会主義体制の抑圧へ反抗するため、過度に同性愛に走るというアレナスの理屈は本人なりに正しかったのかもしれない。もちろん彼自身が実際に男性を好きだという性向があるのはまちがいないのだが。

アレナスの生涯を理解はできない。性的傾向や社会の治安などわたしの経験してきた生涯とはあまりにも隔たっていて、それは小説ではない現実だったというのが突きつけられる。また、本書のような体験をしている人が『めくるめく世界』のような小説を書くということをまだ関連づけられずにいます。自由を求めた遍歴として見れば、確かに近いかもしれませんが。

本はかなりヘヴィなゲイワールドが展開されているので、まずは映画から見ておくとショックは軽減されるかもしれません。

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2006年05月20日

第14回読書会 シオドア・スタージョン『輝く断片』(河出書房新社)

輝く断片
輝く断片
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シオドア・スタージョン 大森 望
河出書房新社
売り上げランキング: 7,176

注意! ネタばれ全開です。

今回はSFが課題図書というせいか、男性11名、女性3名という参加比率。小雨がけぶり、5月だというのに15℃以下という寒空のもとで開催されました。

まずは自己紹介と全体の感想、また短編集なので各々好きな短編をあげてもらう(複数回答可)。結果は、「マエストロを殺せ」がやや多く、続いて「ルウェリンの犯罪」、「旅する巌」、「ミドリザルの情事」、「ニュースの時間です」あたりが続く。普段SFやジャンルにカテゴライズできない本を読んでいる人が後半の重苦しさを好み、逆に後半の重い話だけでは嫌になったりつらかったりする人と半々というところか。また、ほとんどの人は国書や河出、早川で出た短編集や『君の血を』『夢見る宝石』『人間以上』などの既刊をどれかしら読んでいました。特に河出からこの前に出ている『』

「取り替え子」はまあいい話、ということで落ち着く。ラストの「貯める」が自分の子供のために愛情を貯めておく→妊娠していると読める。

「ミドリザルとの情事」はつまはじき者がミドリザルという比喩にされているところにおもしろさを感じたという意見がありました。

「旅する巌」はダメSF。最後のやっつけ感がなんともという意見と、だがそれがいいという意見が。あとネイオーミ=ナオミだと思うけど、どうしてこんなまどろっこしい名前になったんだろ。

「君微笑めば」あたりからいよいよスタージョン節が本腰に。この男の饒舌さと押しつけがましいところをスタージョンはいかにも楽しげに書いているところが賛否分かれる。「ミドリザル」でもそうだけど、押しつけがましい人物はたいてい悪役に配置されている。当時のアメリカはJAZZがビ・バップ(ビー・バップって書くと知らない人からもつっこまれるのだ)全盛で、ミュージカルや映画もハッピーなものが多く、それこそ「ゲイ」が楽しいという意味でしか使われなかった頃に、これだけマイノリティを意識した視点なのは読者がついてこないんじゃないかと、個人的には思ってました。ただそれもSF界をはじめ確かに読みとれる読者もいたのではないかと。
見返りなしに助ける人物の存在についてもこの短編では取り上げられました。これに限らずスタージョンの短編には存在し、それがスタージョン自身にとって謎だったのではないか。だからこそ自分の作中でそういう人物の動機を解明しようとした。
また、ヘンリー自身はテレパスという言葉を使っていますが、むしろ強い共感能力があることが原因で、浦沢直樹『MONSTER』に近いところがあるとか。わたしは未読なのでちょっと興味があるけど、浦沢直樹って読後感が苦いんですよね。また、ヘンリーは一人でもないという意見もありました。こういう人がたくさんいるのだと。

「ニュースの時間です」は星雲賞受賞についてひとしきり。確かに「アメリカの七夜」を抑えるほどではないかも。
これに似た話で鉄道模型を捨てられるというのがありましたね。
これまで饒舌な内面の語り手が物語をひっぱることが多かったのですが、ここでは全くマクライルの心情は語られず、最後に動機らしいことを表明しますが、それも曖昧なところがあるところが特徴的です。マクライルは「All or Nothing」の人。
ラストはジェノサイドではなく、あくまで人を殺すことにより悪い人が存在することを知らしめ、それまで世界に存在する悪意によって自分が傷つけられていたことに復讐します。

「マエストロを殺せ」は、まずタイトルについて前の「死ね、名演奏家、死ね」のインパクトが強いという話。
主人公で犯人のフルークは自分から追いつめられるタイプで、自分が作り出した悪い妄想に凝り固まってしまう。一方でバンドの中心ラッチはフルークへの共感能力があるが、他のメンバーはそれほどでもない。
ジャンルとしては犯罪心理小説で、「Why done it」が主眼。
また、トークショウの参加者によると、ラッチのモデルはアーティー・ショウだそうですが、不勉強にもジャズ好きを公言しているわたしは聞いたことがないのでした。恥ずかしい。それにしてもクラリネットがメインになるようなビッグ・バンドで、ギターにバンドの命が息づいていたという仕掛けはちょっと違和感がある、と発言したのはわたしです。また、MCのフルークがバンドのツアーについていたというのも、当時普通のことだったんでしょうか? 普通、MCはホール専属だと思うのです。

「ルウェリンの犯罪」「輝く断片」についてはメモなし。さすがに終盤に入り、この二つの短編については語るところなく、ただ感じる、という印象でした。でも「ルウェリンの犯罪」の場合、実際のところはどうなっていたのか、つまりアイヴィはどの場面で死んでいたのか、結婚証明書と死亡証明書は単に文盲からとりちがえただけなのか、などの小説内の事実をもう少し明確にしてもよかったかもと反省しています。

やっぱりレジュメとはいわないまでもそれなりに語るべき場所を絞り込むことは大切です。また、解釈はそれぞれだけれども誤読したままで終わらないような物語の構造を互いに確認する作業も必要かと思いました。

2006年05月21日

雪舟からポロックまで

ブリヂストン美術館のお宝一気開陳の展覧会は、盆と正月がいっしょに来たような圧倒されまくりの豪華さでした。

800円と良心的なお値段でチケットを買ったら、右手のロッカーに荷物を放り込む。結構な人いきれで数の少ないロッカーはほとんどうまっていた。でも、できれば展覧会は手ぶらで見ましょうよ。荷物をぶらさげている分、他の人が見られるスペースが狭くなるのですから。

2Fにあがるとまずは彫像がおでむかえ。大理石で作られたロダンの「立てるフォーネス」が印象的。像の丸みやたたずむ印象がしっくりなじむ。その後は順路なんて気にせず人と逆行しつつ、空いているところにさらりとすべりこみながら見物。「和」ゾーンではこの展覧会の目玉になっている雪舟の「四季山水図」に人だかりが。個人的には荻茶碗や六角の青磁にうっとりしてました。青磁はよく見かける薄めで青みがかった程度の色ではなく、濃い青と緑は沼に沈んだ竹を見るようで、特に首がすらっと長いところは竹が日々静かにのびていくような息吹すら感じられるほどです。

古代コレクションの部屋にはシュメールやエジプトのレリーフや像が並んでいますが、ここで驚いたのはギリシアのアッティカ時代コレクション。「アッティカってこんなにおもしろい絵を描いてたのか」という驚きと無骨な壺の形状によって、不思議な世界が広がります。あまりいい画像が見つからなかったのですが、こういう感じ。精巧に描かれた人物は黒一色で描かれて、茶色の壺が背景となるさまは影絵のよう。

新しい絵ではモローの「化粧」、ルドン「供物」「神秘の語らい」、ルオー「郊外のキリスト」「ピエロ」、クールベ「雪の中を駆ける鹿」(躍動する鹿の肉体はマッチョの域!)、そしてセザンヌ「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」がすばらしい。モローとルドンは展示されていると思わなかったのでうれしい驚きで、小さめの絵にたゆたう幻想性を堪能。ルオーは力強いのにどこかもの悲しさを帯びていました。セザンヌの中でもこの絵だけは格別で、緑の山と同じような色の空を見上げる構図で、目の悪いわたしなどは、山をほてほてと登ってきて目的地のシャトーノワールまでもう一息というところでメガネを外して汗をぬぐったときの視界はきっとこんなぼんやりとした風景かもしれない、と思うのです。

会期は6/4までだそうで、目的なくふらっと入って意外な発見ができる展覧会です。展覧会自体にコンセプトなどを求める向きにはあまりいい顔をされないかもしれませんが、力を抜いて宝の山を見物するつもりでどうぞ。

ロスト・イン・ラ・マンチャ

『ドン・キホーテ』といえばメタ構造を持ち、幻想性や冒険もののおもしろさがあり、何よりも物語を愛する人の滑稽さを客観視しているという点で、人類最初の小説にしていきなり最高の地位を獲得してしまった、後世の小説書きにはお手本であり困った存在です。それを映画化しようと試みたのが、奇想・諧謔・凝り性のテリー・ギリアム。岩波文庫で6巻もある物語をどうやって映画にするのか、とても楽しみにしていたわけですが……。

ドン・キホーテ役のジャン・ロシュフォールはどこからどう見てもドン・キホーテで、これだけでも映画を見た価値あり。劇中でちらっと使われていたオーソン・ウェルズによる映画もかなりリアルに映像化されていて、そっちも見たくなりました。奴隷の役でブラッド・ピットが出てきたので、おそらく小説版で言うところの前編1〜3の素直な冒険譚の映像化をもくろみたのでしょう。

全体通して言えるのは「映画を作るのって大変!」。有名な俳優はスケジュールやわがままが厳しい。スタッフはギリアムの出す無理難題満載の条件をクリアするのが厳しい。自然環境は厳しくて、乾いた砂漠のシーンを撮っているさなかに豪雨となり、地面が乾くまで撮影できず。そして何よりも厳しいのはお金。

見終わってただただこれだけの傑作を撮影できなかった事実が悲しい。理不尽だけども『指輪物語』の映画化ができるなら、なぜこちらもできなかったのか。この未完の傑作を思うたびに、もしかすると世界は日の目を見ることができなかった傑作の墓場だったのかもしれないと悲観的になってしまいます。

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