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2006年04月 アーカイブ

2006年04月03日

森見登美彦『太陽の塔』(新潮社)

太陽の塔
太陽の塔
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森見 登美彦
新潮社

ずっと噂を聞いていた「京大マジック・リアリズム」。ようやく手にとってなるほどなっとく。といっても、わたしは修学旅行も含めて2回行っただけで京都の土地勘はほとんどない。だから具体的な場所の持つ住民ならではのイメージは薄い(四条河原町が繁華街ってことくらいは分かる)。それでも十分に笑えたし、(おおげさに言うと)魂のよりどころとか性根のあり方を考えさせられた。

京都大学に入学したのはいいものの、協調性を欠きうち解けない主人公をはじめ、歴史の表舞台にはなかなか登場しづらい男4人の大学生活暗黒物語。主人公はようようできた彼女にクリスマスプレゼントを突き返されてふられ、それ以降彼女の研究と称して尾行を繰り返し、「研究成果」をノートにびっちり書き込んでいる。ヘンタイだ。

主人公の元彼女水尾さんは主人公の追憶の中でしか姿を現さないところがすばらしい。そうだ、美しい愛は常に過去にしかありえないっ。今そこにある愛はどろどろでぐだぐだなんだから、もっと美化して妄想に浸るのだ、と応援したい。情けないと言われようが、それもひとつの愛。他人には受け入れがたいけれども、愛にはいろんな形があるんだから、それはそれでしょうがない。

惜しいなと思うのは「邪眼」の植村嬢が有機的に絡んでこないこと。物語上、同じ学年の女性と設定することはかなり広い意味を含んでしまうと思うのだけど、その眼で見つめられると萎縮してしまうという単純な役割にとどまっている。ありきたりなパターンなら、4人組の誰かを好きというシチュエーションとかその逆と考えられるけど、毎回単に疑惑のつっこみを入れるだけで消えていってしまう。

物語が後半にさしかかると、主人公の語りが現実を離れて人の夢に入ったり、非現実的な描写に直面する。それは彼の一部であり世界だから驚くこともなく引きこもることもなく、その世界を処していくのだ、とわたしは受け止めました。が、ここはいろいろな読み方ができて、大変好印象。個人的にはマジック・リアリズムで起こる非現実的な事象には象徴性が極力排除されている方が好みなのでやや描きすぎかなとも思いますが、それはわたしの単なる嗜好。そもそもなんだかよく分からない太陽の塔がある時点でこの物語の非現実性は確立されたようなもので、その元でうごめく人と夢の純粋さとあほらしさを、主観ながらも落ち着いた筆致で描き出しており、非常に好印象。10年後、20年後の作品はきっと京都の枠から飛び出して驚かせてくれるんじゃないか。今から楽しみなので長生きしなきゃ。

2006年04月08日

ささだあすか『三日月パン(3)』

三日月パン 3 (3)
三日月パン 3 (3)
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ささだ あすか
白泉社

シリーズ最終巻。だまされまくってパン屋に流れ着いたみずほが、パン屋の若き主たっちゃん(ハードパン系)と年の離れた妹なつきに拾われて、パン屋さんへの道を歩み始める、という「一つ屋根の下」系まったりラブコメ。

前にも書いたけどこのシリーズ、別のところで出た『別恋生活』もそうだが、画面に占めるトーンの割合が増えて、それまでの特徴とも言える空間の広さや落ち着きが消えてしまった。この巻では温泉旅行に行ったり結婚式に行ったりで、他の巻に比べると必然性のある背景が多いが、それでもこんなにがんばって空間埋めなくていいのにと思ってしまう。

「一つ屋根の下」系は出会いのチャンスを作る必要がないから、シチュエーションは全体に安定している。それまでは「家族のようなもの」だったのがラブに変化するわけだが、もう一人ライバルのパン屋さん(菓子パン系美男子)を出すことで揺れる心が出ている。そのへんのややぎこちない展開が昔のわたしならきゅんとしていただろう。登場人物の誰かがかっこいいとか共感するとかではなく、紆余曲折を経て幸せになるシチュエーションにきゅんとなるのだ。

それにしても、自分がこのまんがを必要でないことが分かってしまった。変に整った線でなく非常に個性的で人間を信頼する気持ちのまっすぐな線を見せてくれる作家(ちょっと説明口調も目立つけど)だと思うけど、もうどっぷりとこのまったりとした心地よさに浸ることはない。最近は特にテンションを無理してあげているように見えてついていけない。それでもささだあすかの作品から数年前のわたしが受けた影響はほんとに感謝している。自分の凝り固まった価値観や殺伐とした傾向をゆらっと崩してくれた。作品はこれからもきっと買い支えるけど、今のわたしが欲しい物語、欲しいまんがではないんだな、とぼんやり思った。

2006年04月11日

G.ガルシア=マルケス『物語の作り方 ガルシア=マルケスのシナリオ教室』(岩波書店)

物語の作り方―ガルシア=マルケスのシナリオ教室
G.ガルシア=マルケス 木村 栄一
岩波書店
売り上げランキング: 11,366

南米マジック・リアリズムの雄にして、小説にとどまらずテレビドラマや映画の脚本を何本も作ってきたガルシア=マルケスが、若手の脚本家に30分間のテレビドラマの脚本を作るためにあれこれ話し合った記録集。「ガルシア=マルケスのシナリオ教室」という副題がついているけれども、ここでのガルシア=マルケスは日本の先生のように前に立って指導するわけではなく、シナリオを作るメンバーの一人として発言している。もちろん仕切るところは仕切るし、ひどくて笑えるユーモア(「小説のことは私に任せておいて、君たちは脚本を書いてくれよ」)なんかもあるけれど、決して自分の意見で場を閉じこめるわけではないところがポイント。これはできそうでなかなかできないことだし、それが単にノーベル文学賞作家という権威によって行われているわけでもない。素晴らしい脚本を作り上げたいという一心から、メンバーの全員がバザール方式によって一つの物語を作り上げる課程を地道に追ったもので、そこに関係の上下はあまりない。

この練り上げ方は脚本だけでなく、小説でもそうだろうし、もしくは普通の会社でも応用できる技術のはずだ。全体の方向性を決定する人は必要だが、意見を出す権利は全員にある。誰かの思い通りにするのではなく、全員が納得できる作品のためにアイデアを出し惜しみしない。わたしは演劇部の時に演出の方向性としてこういう経験をしているけど、同時にこの作り方は誰かがエゴを出したときに諫められる人間がいないと成り立たないことも分かっているので、こういう空間が自然にできているのがおもしろい。それは一応のトップに立つ人間の手綱の閉め方によるところも大きいが、メンバーの質によっても左右されるにちがいない。

ガルシア=マルケスの小説は複雑な時間の流れや多くの人物が行き交うために長文でこみいっているが、ここではあくまでテレビドラマの脚本を作ることが目的だから、30分の映像で語ることができる比較的シンプルな物語だけが俎上にあげられる。映像から読みとれない象徴性は不要だし、わかりやすさと驚きを与えるためのドラマを作ることだけが目的だから、ラテンアメリカを舞台とした物語の背景もつかみやすい。

ガルシア=マルケスの作品として見たときには、彼の作風よりも、タイトル通りに物語の作り方に力点が置かれているので、物語を紡ぐことにあまり興味のないわたしは途中で本を閉じた。決してつまらないわけじゃなく、今は単に本の処分中と言うことで、それほど集中して読めないというのが理由。おもしろいのは間違いないが、そういう縁もあるということで。

2006年04月20日

オール・アバウト・マイ・マザー

オール・アバウト・マイ・マザー
アミューズソフトエンタテインメント (2006/06/23)
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もともと涙もろいけど、この映画には声を上げて号泣してしまった。ぼろっとどこかが取れたのかと思うくらい。一人で見てよかった。

あらすじは、17歳の誕生日に息子が出待ちしていた女優を追いかけて交通事故で死亡。母親一人で育てていた息子は、文筆家志望で母親のことを書きたいと言っていたので、事故さえなければその夜に自分の過去を話すはずだった。母親は息子を亡くした悲しみに耐えかねて、昔住んでいたバルセロナに行き、過去の友人、過去の自分、そして新しい友人に出会い、ずっと疎遠だった息子の父親にも出会うことになる。

「母親の強さ」なんて一言では言い切れない葛藤と耐久力、それに観客にだけ伝わる弱さで、自分の息子の死を受け入れる母親の姿は、男のわたしでは共感どころかただただ平伏するばかり。主人公が息子の死の間接的な原因となった女優の付き人になるとき、またなった後でも決して「おまえが殺した」などと責任をなすりつけないなんて、自分にできるだろうか。臓器移植に携わる業務についていて死に近いこともあるだろうけど、誰かを責めるよりも、死んだ者は帰って来ず、自分がしてやれなかったことを悔いている感情の方が大きいのだと感じた。

愛と執着はちがう、とずっと思っていた。「愛」は分かち合うものできれいなもの、「執着」は独占し醜いものと決め付けていた。でもそうじゃない、その2つは表裏一体で愛ゆえに執着することがあってもいいんだ、と思えるようになったのはつい最近。この映画では母の愛情がわたしのイメージする”美しい愛”として描かれている場面が多い。ドアを閉めた途端に泣き崩れるところや、気遣う友人の手を振り払うところにエゴが見えるが、そこに彼女らしさも感じる。

主人公が悲しみゆえに距離を置くことは友人たちにとっては驚きだしあてにしてもらえなかった寂しさもあるだろうけど、自分で自分の答えを出さずにはいられない性格では、本当に必要な自己防御の手段だったのだろう。それは小動物が冬の寒さで凍死&餓死しないように冬眠するような、理屈ではない本能からの行動に見えた。2回とも列車で移動する姿はさらりと描かれるが、彼女の決意や悲しみが移動することによって緩和されるのだろう。

と、いろいろ書いてみたけれど、所詮10年も肉親と会っていない親不孝者の言うことなどあてにはならんわな。それと劇中劇がかなり象徴的に使われているので、知ってから見るとまたちがった印象を受けるだろう。全体ではまっとうな男が不在なのにニヤリとさせられた。

2006年04月21日

E・M・フォースター『天使も踏むを恐れるところ』(白水社)

天使も踏むを恐れるところ
E.M. フォースター E.M. Forster 中野 康司
白水社
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まずタイトルがいい。解説によると西洋の慣用句とのことだけど、「天使も・踏むを・恐れるところ」と日本語のリズムもよく、イメージをかきたてられる。はてさてその舞台はどんなに恐ろしいところなのか。

舞台は19世紀のイギリスとイタリア。イギリスの貴族階級から一人の未亡人リリアがイタリア旅行に出かける場面からはじまる。イギリスの貴族一家のドンたるおばばが口では「身体に気をつけて」などと励ましの声をかけるも、裏では奔放な女がいなくなってせいせいしている描写が続き、その表裏の激しさは関東人がイメージする京都の老舗呉服問屋。

旅行先のイタリアは自由な気質、おおらかな土地柄で、リリアはすっかり土地の水が合い、地元民と結婚することになる。ところがイギリスではたとえ一族の邪魔者であっても田舎者との結婚には大反対。貴族の家とつりあわない家柄など許さないというわけで、説得部隊が派遣される。

日本でいえばさしづめ京都と東京の結婚みたいなものか。イギリス人の小説だけあって食べ物の描写はほとんどないが(イタリア料理について「悪臭漂う」と形容するくらいの味音痴だ)、生活習慣のちがいをいちいちあげつらって皮肉る話。おしゃべりの耐えないオペラハウスにイギリス人が耐えられなくなって出て行ってしまうところなどはくすくすと笑ってしまう。物語は死人も出て、あらすじだけなら異文化を受け入れられない偏狭さゆえの悲劇ともいえるだろう。イギリス人の偏狭さとイタリア人の野蛮さの対比にニヤニヤできます。

後半になると今度は男女間の認識のちがいをこっぴどく描き出し、「知的な」男の優柔不断ぶりを「教養のない」女が本人の意図していない方法で(天然なやり方で)がつんとへし折るあたりは見もの。それでいて男のほうは紳士的鈍感さをいかんなく発揮して友好的に分かれたがり、紳士のやせ我慢ぶりを発揮する。この辺も男の情けなさと虚勢ぷりにニヤニヤ。

全体に著者の意地悪さがほつほつと出てきて、そこを笑えたり悲しみの中でも底意地の悪さがにじみ出ており大変に好印象。特にドンたる婆様の悪だぬきぶりはたまらない。他人の愚痴をそ知らぬ顔して聞きながら心でニヤニヤできる人におすすめの一冊であります。

2006年04月25日

壇一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫)

小説 太宰治
小説 太宰治
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檀 一雄
岩波書店
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太宰治と作者との私小説。戦争を目前に控えた世相と、自然体の作者が常に出している高揚感があいまって若さの疾走を描き出している。もっと簡単に言うとかなりホモぽいです。

見どころは解説で沢木耕太郎が引用されていて、貸してくれた人も絶賛していた、壇一雄21歳のとき。太宰を「君は天才だ」と面と向かって認める場面。自らの才能を信じて自尊心の塊のような人物が、他人の才能を認めるのは相当の照れと心酔が必要だ。二人きりのシーンなので創作の可能性もあるが、流れている敬意や向上心、対抗心などが入り混じった末に昇華された結晶はたとえようもなく美しい。それでも気炎を上げるとはいえ、イタリア人的享楽さとは異なり、常に身内に己を刺し続ける刃を抱えて苛みながら文章を書こうとする。

しかしこいつらは友人のものを質草に入れたり、わずかなつてを頼って無心したりと、平成の世から見るとダメ人間甚だしい。それが許された時代、と言うよりもダメをダメとして受け入れられる寛容さが当然の風潮だったのか。志ん生の『なめくじ長屋』でも同じようなダメっぷりを発揮していたことを思い出した。高度成長期のあたりからその傾向はあったが、特にWEBが浸透するにつれて、ここで描かれるような天才でもダメな人間は徐々に認められない風潮が出てきて、現状は規格に沿った人間だけが認められるようになったように感じる。倫理の規格外であるからこそ人を感動させることができる」という考えることは、言い換えれば信念の強さに通じるかもしれない。世間に迎合しないからこそ彼らの芸術は人を感動さ
せるのかもしれない。

非常に得心のいった場所は、後半に壇一雄が太宰とは生と死の観点で方向性がちがうと認識する場面。生きる理由があるにもかかわらず死の方向を向いている太宰と、生きるために文章を書こうとする壇。もちろん実際には処世的なもろもろが人生を分けることになったのだろうが、究極的な方向性をすぱっと切り出す壇一雄の文章は分かりやすく、また別れてしまう二人にしんみりしてしまう。

それにしても、友達にはなりたくないけどね、この二人。性が別だったら人生を支えたいと思うかもしれないけど、波乱万丈でつらい生涯は覚悟しないと。

2006年04月29日

杉浦日向子『百日紅(下)』(ちくま文庫)

百日紅 (下)
百日紅 (下)
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杉浦 日向子
筑摩書房
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昼からの春雨で部屋が寒くなってきて、昼寝している猫の横にごろりと肘をつき、ビール片手に読了。今更だがこれはすごい。手に取るのも厭になるくらい。

国文出のくせに江戸というと『雨月物語』くらいしか思い浮かばない脳には、作者にはあまり興味がなかった。しかし短編の妙、絵の艶っぽさ、あらゆるところに顔を出す人の業がまざまざと描かれていて、いざ読んでみるとどれが良かったなんて比べられない質。「女罰」の脱いだ尼さんの流し目を見たらぶるっとくるし、火事を見るために走る女の上気した顔といったら。

これまでは物語に日本の匂いが強く出ていると拒絶反応があって、身近すぎて萎えてしまっていた。幻想的なものは自分の手が、想像力が届かないくらい遠くにあってほしい。そのくらい遠くて初めて浸ることができると信じてきた。だがこれは力がちがう。きちんとした研究の裏付けがあってこんな物語が生み出せる作者には嫉妬なんてちっぽけな感情ではとうてい追いつけない。作者のあまりにも早い死は神や仏が作品を読みたがったせいにちがいない。

なぜか江戸の漫画のBGMにはキューバ音楽が合う。にぎやかなようでちょっとさみしいところが混じってるところが似てる。逆にいっしょに買ったEnredo(エンヘード)という、つまりはブラジルのサンバは全然だめだ。祭り脳になってしまうので、掃除のときにかけると血が高揚して仕事が早く進みそう。

2006年04月30日

The Corrs「in blue」

In Blue
In Blue
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The Corrs
Warner (2000/09/12)
売り上げランキング: 37,446

現在持ち物処分中で、もう聴かないCDを選んでいる。聴かないCDを選ぶのは読まない本を選ぶよりずっと難しい。本は図書館で入手できたり、amazonを使えばたいていは入手できる。でもCDはamazonでもブクオフでもおおむね安くないし、図書館も体系立てて収めていないのでいざという時に探す手間とお金がかかる。もっともいざというときなんてそうそうないのだが。

これは1stが大好きだったアイルランド4人兄弟の3rd。1.Breathlessから飛び跳ねるような音が、アイルランドじゃないポップのリズムでげんなり。コーラスやエフェクトがきらめいていて、次女のバイオリンは奥の方に引っ込んでただのコーラス隊になりさがっている。4.sayはあのハードゲイさんばりの「セイセイセイ」をかましてくれて泣き笑うのみ。解説を見ればプロデューサーはマット・ラングというシャナイア・トゥエインの旦那だとかで、なるほど無機質な音にボーカルのエフェクトをかけてポップ丼一丁上がりな仕上がりだ。

ジャケットのメイクもけばくて、長男の勘違いU2みたいなサングラスは渋谷の客引きみたい。アルバムが出たときは前々作のひいき目もあってそれなりに聴けたけど、改めて聴くと笑っちゃうほどのエフェクトの洪水に黙って停止ボタンを押すのみ。一応MP3に落としてから売るけどHDDの無駄だな。おそらくこの音づくりは本人たちの意向よりもレコード会社の力がはたらいたんだろうな。自分の生まれを忘れたかっ。

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