ジーン ウルフ Gene Wolfe 浅倉 久志 柳下 毅一郎 伊藤 典夫 伊藤 典夫 柳下 毅一郎
国書刊行会
ジーン・ウルフは難しい、そう思っていた時期がわたしにもありました。単語や文章の中に組み込まれた象徴性、一読しただけでは明らかにならない全貌、信用ならない語り手への警戒。でもね、かいま見るインタビューや前書きなどからは、ウルフはそんな難しくしようとして書いているわけじゃないと思う。syzygy noteでは柳下・山形対談の模様がレポートされていて、ウルフがかなり献身的なカソリックだと知って、ウルフの小説は読者を煙に巻くことが目的ではないってことがわたしの中では確信に変わった。確かに全貌を読み解くことは難しいかもしれない。でもまじめに読んだ読者にはしあわせが広がるつくりになっている。世界と自分が同一になるような、ささやかな欲が立ち入る余地のない、澄んだ幸福感で満ち足りることができる。だから、この本を読むときに必要なのは、余計な猜疑心を取り払って、自分と本と1対1で真摯に対峙すること。通勤途中の電車などではおすすめしない。前に立っている人やこれからやってくる義務感で、読後にあふれる光が届かないかもしれないから。本来読書ってのはそうあるべきだろうけど、なかなか難しい。それでも『デス博士の島その他の物語』にはそれだけの時間を割く価値がある。
まえがき
前書きにはデス博士一連のアナグラムの序章となる「島の博士の死」がおさめられている。「島々」に関する博士の授業を履修したのはたった2人。講義の一環として、ある島に不可思議なことを探しに行くよう言われるが結局島では何も見つからない、というもの。
これだけ短いにも関わらず早くもわたしは物語に隠された要素を探そうととらわれてしまう。単に老教授が2人の生徒に最後の課題を出しただけなのか? アーサー王にまつわる島の知識がラストにどうつながっているのか? それらの謎を抱きながらも老教授の最期にしんみりし、2人の生徒を祝福したい素直な気持ちがあふれてくる。ミステリ的に謎を追究する読み方もあるのだろうけど、それよりも小説は世界をすべて描き出すことはできないというジーン・ウルフの姿勢に素直に従うべきだと思う。所詮主観でしか人は生きられないのだから。
デス博士の島その他の物語
内容は少年が買ってもらった本の登場人物が物語の現実にも登場してくるというもの。河出の『20世紀SF』で一度読んだけれども、そのときはさっぱり理解できなかった。現実に物語が混じり込んでいるというのは分かるのだけど、それが生み出す少年の孤独や少年がデス博士に共感する気持ちがくみとれなかったのだ。「おもちゃのチャチャチャ」のように軽快だけど、暗く根ざした少年の心も描き出す傑作。
読後には若島先生のノートもぜひ。
アイランド博士の死
「アイランド博士」という精神治療惑星に送られた少年ニコラスが、暴力的な男イグナシオとカタトニアの女性ダイアンに出会う。惑星と言うよりもアイランド博士の島と言うべき舞台は、猿や木々、森羅万象がアイランド博士であり、ニコラスにそこここでアドバイスを与える。こういう島、わたしはすごく憧れる。もしかしたらこの舞台を孤独で過酷な環境(食事などは自分で野生の生物を得なければならない)ととらえるかもしれないけど、社会的な義務が少ないことが何よりも魅力。
ニコラスがアイランド博士として話しかけてくる猿を殺し、アイランド博士の仕組みを教わるシーンがある。アイランド博士は森羅万象を通して話しかけるのではなく、患者(ニコラス)の考えていることを読みとって最も良いアドバイスをするし、記憶からシーンを再現して患者に追体験させることもできる。こんなことができるようになったら、なんだかもう人が生きている意味なんてないような気がしちゃうな。パソコンで言ったら業務用のキーボードとディスプレイだけあって、サーバのアプリケーションを共用するような、記憶装置を使わない人間になりそうだ。物事から受ける印象は人によってさまざまだけど、アイランド博士によって受容するときの個別な感性のちがいがなくなって画一化されてしまうかもしれない。
さて、上とは関係ないけれど、この短編集では驚くほどセックスが描かれない。一番自然に近いこの「アイランド博士の死」でも、もっとも金を持っていて社会的に自由な「アメリカの七夜」ですら、そういう雰囲気になることはあっても実際の行為を描写することはない。単純に考えるならカソリックとしてのウルフの傾向なのかもしれないが、具体的な描写はないとはいえ「拷問者」シリーズではホモセクシャルもあるし、故意に描かないという傾向はなかったように思う(未確認)。この短編集は本を、物語への愛がテーマになっているような気がするので、つまりこれは、本を読みながらセックスはできないということか。
死の島の博士
裏『夏への扉』。人類史上最高の発明をしたアラン・アルヴァードは、殺人事件で逮捕されガンの治療のために冷凍睡眠処置された。病院で目覚めた彼が過ごした時間は40年。目覚めた彼は自分の発明がすっかり世界になじんでいるのを知る。やがて彼の犯した殺人の真相が語られることになる。
これは群を抜いて物語の展開が分からなかった。病院で働いている人々は名前はちがってもどこか同じ人物のような気がするし、ラストでは「構えているのはカメラだ。拳銃ではない」という不吉な感じを残す。アルヴァードの殺人は銃を使っていないのになぜここで銃が出てくるのか。謎ばかりが残ったけど、それでも物語の鍵となっているらしいディケンズを読んでみたくなったのがせめてもの収穫か。もちろん物語自体はおもしろいんだけど、腑に落ちない度ではこれが最高。
アメリカの七夜
SFマガジンで既読。裕福なイスラム人が核関係で荒廃したアメリカに来る、というところが読者の価値観をいきなり揺るがしてくれる。今ならアルカイダの事件でイメージできないわけでもないけれど、書かれた1970年代にはファンタジーにしたくともありえない世界観だったのでは。
解説にも書かれていますが、日記の形態をとりながら「ドラッグの入った卵菓子のロシアンルーレット」によって記述のどこかは信用できないことになる。真実を探るよりもまずそういう手法で書くことができるウルフの手腕に脱帽。解説にはおおよそどこで卵菓子を食べたか書かれていますが、読書会などではそれぞれの日に卵菓子を食べたとしたら、という前提では話し合ってもおもしろそうですね。
眼閃の奇蹟
これはすごい傑作ですよ。この驚きは18年前に『アルジャーノンに花束を』を読んだときレベル。よく、小説を書くきっかけで「自分でもこんな話が書きたい」「自分がこの物語を書いていたら」という言葉がありますが、まさにそれ。
小説自体はロードムービー風。盲目の少年リトル・ティブが"教育長"と召使いのニッティに出会う。リトル・ティブはネバーランドならぬシュガーランドを目指し、教育長とニッティはマーティンズバーグへ向かうので同行することに。貨物列車にただ乗りし、ヒッチハイクでプリティヴィー(地天)博士のバスを拾う。途中、リトル・ティブは笛の音に合わせて踊り出し、踊りながら断崖の上に出てしまうが落ちない。このあたりでリトル・ティブがただものではないことがおぼろげに見えてくるのだけど、ちょうど「デス博士の島その他の物語」のように現実とリトル・ティブの空想が混じった描写が続いて、わたしはどこからが物語の中の現実なのか把握できないところもあった。
ウルフの真骨頂「書いてないところにも事実があり、それが後半に絡んでくる」がふんだんに楽しめる。福男ならぬ服男が出てくるあたりから、「あれ、もしかして」と徐々に物語の新しい一面が見えてきて、ラストには光り輝くシュガーランドへの道が現れるところでは泣く。それはかなり宗教的な悦びかもしれない。単に盲目の少年が光を取り戻した、とかいう次元じゃない。どこかでは「損のない読書」なんて特集があってそのせせこましさにげんなりしたものですが、これはまことの傑作であり損得の勘定では計れない小説を読むことの豊かさが満ちあふれています。ハレルヤ!