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2006年01月 アーカイブ

2006年01月02日

アンドレ・マルロー『風狂王国』(福武文庫)

アンドレ・マルローについては、学生の頃にボリス・ヴィアンや「シュールレアリスムの始祖」アンドレ・ブルトンを読んでいた頃に名前を聞いたきりの作家でした。見返しによると「反ファシズム・反ナチズムの闘士として戦い、戦後はド・ゴール内閣で文化大臣として活躍した」作家とのこと。戦う作家というと、『ドン・キホーテ』のセルバンテスや、パルチザンだったカルヴィーノを思い出し、自由のために戦う作家ならなんとなく気が合いそうだと思い、古本屋で見つけたのをきっかけに読んでみることに。ま、一番の理由は福武文庫で薄いから、なのですが。

この本には、「風狂物語」「紙の月」「ラッパの鼻をした偶像のための書」がおさめられていますが、どれもシュールレアリスムという言葉から想像するにふさわしいもの。シュールレアリスムってわたしの感覚では、単に不条理なものを並べただけではなく、不条理さを重ね合わせていくことによる大まかなイメージに価値があると考えています。ダリのてろんてろんな時計が絵画では有名ですが、あれも単に時計がてろんてろんなだけではなく、その背景にある荒涼とした風景と重ねられているから、見ている方はありえない光景だけれどもあの世界に引き込まれるような力を感じるのだと思うのです。つまり現実にはあり得ないイメージを重ねることで、一つの世界を作り出そうとする試みだととらえています(だから「シュールな一発ギャグ」という時の「シュール」は、シュールレアリズムとはちがうもんだと思ってます)。なので、世界を新しく構築するという点で、ファンタジーの一種に勝手にカテゴライズしておるのです(上記はあくまでわたしのイメージで、学術的な見地から検証しているわけではありません)。

この短編集のうち、「紙の月」「ラッパの鼻をした偶像のための書」はかなりシュールレアリズム寄り。「紙の月」はあの『七悪魔の旅』同様に、七つの大罪が旅をするのだけど、大罪は風船になって死神を殺すのが目的らしい。しかも途中で羨望と吝嗇は破裂しちゃう。「ラッパの鼻をした偶像のための書」は音楽で怪物をつかまえたりする話が一番分かりやすい。他にもエピソードがあるのだけれど、前後の脈絡がよくわかりません。

しかし、「風狂物語」はかなり物語の形式を残していて、「千夜一夜物語」やダンセイニ卿の短編のような異国情緒がこんこんと泉のようにわき出している傑作。とらわれになった作者が、トルコの皇帝の前に引き出されて、兵士たちのバビロン報告を聞くあたりがメイン。

「……虎たちに先導された象の群が、砂塵の渦巻くなか、逃げまどう餌食の一角獣を追いかけていました。……」 「……深海魚に似て物静かでゆったりとした動物たちが、その透き通った躯で、黒いシュロの木の周りをとり巻いています。蛮族の飼うガゼルが運んでくる貝類のざわめきに満ちた風のなかで、枝のない高い樹々が海草のように揺れています……」

ラストは軍に送られた語り手が、サソリの大群によって軍隊が壊滅するところを目の当たりにし、這々の体でトルコにたどり着く。こちらは他の2編に比べて物語としてつじつまがあり、むしろファンタジー。ありきたりの剣と魔法の世界にうんざりしている人には、新しい世界を切り開く風となるのではないでしょうか。

2006年01月10日

読書部第11回 ガルシア=マルケス『百年の孤独』

百年の孤独
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G. ガルシア=マルケス Gabriel Garc´ia M´arques 鼓 直
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何度かの延期を経て、2006年最初の読書会としてふさわしい大著の読書会となりました。わたしは今回で読むのは2度目ですが、どちらも旧版(新版では改訳され、ブエンディーア家の家系図がついています)で読んだので、結局明確に家系図を把握しないままに臨むこととなりました。

いつものように自己紹介と感想・印象を順番に言ってもらうところでは、
・『百年の孤独』は難しいイメージがあったが、読んでみたらおもしろかったし読みやすい
・どこが「孤独」なのか分からなかった
・前に読んだときは、筒井康隆の影響
・『火星夜想曲』ぽいが、実は『火星夜想曲』が『百年の孤独』ぽいのだ
・アイデアをモザイクのように重ねただけの小説が多い中、それぞれのエピソードが有機的につながっているように感じた
・文章に濃淡があり、描写が凝縮されている
などの意見がありました。

「どこが孤独なのか」については、ウルスラとブエンディーアから始まったマコンドが、最後に豚のしっぽが生えた子供が生まれるまで、外部と接触はするものの、マコンドが受け入れることはなく、最後まで近親相姦的な愛が支配していた、という感じに収束しました。

あとはマジック・リアリズム近辺の話ですが、どうもわたしの勉強不足のせいで今ひとつうまく説明できませんでした。とても割り切ってしまうと、文学とファンタジーの融合で、そこに地域性や未知の文化がテイストとして加わっている印象です。で、サルマン・ラシュディやミラン・クンデラなどに代表される現代の有名な作家もマジック・リアリズムの手法を取り入れており、今一番熱いのはマジック・リアリズム! ということをかっこよく言おうと思ったんですが。

今までの読書会で遭遇したことのないアクシデントとして、旧版と新版ではページ数がちがうため、それを調べるだけで時間がかかってしまうという問題がありました。これは事前に全く予想していなかったので、次回以降はなるべく新版を使うようにしたいものです(そんな本はあまりないと思いますが)。

それとやはり事前に司会進行を他の参加者(特にぶちょう)に相談しておくべき、と思いました。わたしだけかもしれませんが、好きな本を取り上げる人が司会になると、どうしても客観性を保つことが難しく、自分の思い入れだけになってしまう可能性があると思うのです。そのため、ある程度「こういうことを話したい」という簡単なレジュメを参加者の誰かに見てもらうということを検討したいです。

今回の課題図書はとてつもないパワーがあって、読んでいる最中に圧倒されまくりだったわたしが司会をやるのが無理だったのかも、とやや反省中です。それでもこれも経験のひとつとして、次回以降に生かしていきたいと思いますので、これからもよろしくお願いいたしまする。

2006年01月14日

ダニロ・キシュ他『「夢のかけら」 世界文学のフロンティア3』(岩波書店)

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今福 竜太
岩波書店
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200円でシリーズの他の本といっしょに投げ売りされてたのを保護したもの。これは1編200円くらいの価値はありますよ。こういうのは河出の文庫あたりで出すと、世界の文学はこんなに変なのか! と驚くために境界文学が好きな人は必読。

・ダニロ・キシュ「死者の百科事典(生涯のすべて)」

プチ・ボルヘス。夜、特別に入れてもらった図書館の百科事典には、亡くなった父親の生涯がつづられており、どうやら図書館全体が人類すべての生涯を記した百科事典を所蔵しているらしい、というもの。ボルヘスだったら半分の長さでスタイリッシュに書くところを、やや冗長さを出すことにより、有名でもない一人の人物の生きた記録を丁寧に描き、大切な人の記録を読むという特別な体験を描き出している。

・ガブリエル・ガルシア=マルケス「海岸のテクスト」

新聞記者時代のコラムだそうで、『青い犬の目』と同じ頃なのかな? 「俺の悪夢はすごいよ」「いや俺の方が」とか、のび太の自慢のような小編。つまらないわけではないけど、特にガルシア=マルケスだから、というおもしろさではない。こてこてのコントも、藤子不二雄のような分かりやすい幻想譚。

・ステーファノ・ベンニ「最後の涙」

バラードぽい歴史改編SF。学校ではテレビの歴史を学び、焚書がまかりとおる世界を描く。テーマは好きなんだけど、前半と後半でテーマが乖離しているように見えるのがやや不満。

・スタニスワフ・レム「一分間」

出ました噂の架空書評。書評にしては長すぎ、と思うのは日本人センスでしょうか。1分間の間に人類全体が活動している内容が統計で示された本の書評、という形をとっています。1分間の間にどんな死に方をするか、1分間にどれだけ精子を放出し、どれだけの血液が心臓から出入りするか、そういうトリビアについて熱く語るレム、を自ら作り出しているレムに萌える小説です。

・イスマイル・カダレ「災厄を運ぶ男」

イスラム教の国で女性がかぶっているチャドル。国が拡大してそれまでチャドルの習慣がなかったところにチャドルを運ぶ男の物語。ところが男はイラスム圏外に出ることで、生まれて初めて女性の自由な視線にさらされる。この驚き! これはSFを読むときに全く異なる文化、知性体に感動する時と同じ驚きです。読みやすいし超おすすめ。

・ヴィスワヴァ・シンボルスカ「ユートピア/奇蹟の市」

詩。しかし文系センスが試される普通の詩とはちがい、すごく理系ぽい詩と言ったらいいのか、明快でいて考えさせられる。こういう作品がノーベル文学賞(1996)ってのはすごい。

ここに生えるのは正しい推論の樹
その枝ははるかに大昔からもつれることがない
なるほど、そういうことと呼ばれる泉のほとりにたつのは
目がくらむほど真っ直ぐな理解の樹

・ヴォルフガング・ヒルビッヒ「ゆるぎない土地」

カフカのように不安定な日常描写からはじまり、ラストはカタストロフィを予感させる落ち着いた喫茶店の会話で終わる。作者が旧東ドイツ出身ということもあり、時期的にも東西ドイツ統合を思わせる内容だけれども、それはまた生きてきたことに疲れた生死のはざまの一瞬の空想とも読みとれました。

小説としては一番おもしろくなりそうなところを回避して、予感させるにとどまったところがいまひとつ好みではありませんでした。

・ボフミル・フラバル「魔法のフルート」

「意識の流れ」というやつでしょうか、作者自身の行動やチェコの町の喧噪、自殺、警官たちが発射する催涙ガスと逮捕される民衆などが、つらつらと流れる文章の中に息づいています。しかし、失敗したシュールレアリスムのように、一歩まちがうとただのだらだらした文章にうんざり、という危険性もはらんでいるように思われます。それぞれの文章の描く対象が、明確にまざりあっていないので、「物語」ではないところにわたしの違和感があるのかもしれません。

でも登場人物のフラバルさんは、にゃんこに鶏ももを4つも買ってあげるので、人間としては最高だと思います。同志よ!

ところで「グラム三百円の豚肉ゼリー寄せ」というのはいかがなものか。当時のドイツだからマルク? でもいいんじゃないでしょうかね。

・残雪「かつて描かれたことのない境地」

残雪はSFだ。それもジャック・ウォマックに似ている。泥と腐った有機物にまみれた残雪と、限りなく無駄が排除されたウォマックでは、一見水と油ほどにちがうように見えるけれども、凝縮された言葉で描かれる、意味と無意味の境界を進む姿が似ているのであります。

しかし、ここでの残雪は舞台が寒いせいか、何も腐ってないし、人物も小屋の中にいて地面よりも高いところにいる。普段のはいつくばって土を食う残雪じゃないところがちょっと意外です。

道ばたの掘っ建て小屋で、道行く人々の夢を聞き、描写しつづける記述者。彼が夢を記述し続けたノートを捨てる顛末が描かれる。残雪にしては非常に読みやすく、それゆえにやや物足りない。しかし、「それでも人は生きる」としか言いようのない、虚無を淡々と描き続ける残雪はやっぱりすごいのであります。

・アナトーリイ・キム「コサック・ダヴレート」

コルタサルやレイナルド・アレナス『めくるめく世界』を彷彿させる一人称がころころ変わる幻想小説に、作者自身の体験を織り込んだ散文としての面も持ち合わせたまったく予想外の小説。コルタサルほど一人称の視点が今ひとつ洗練されていないように感じるところもありますが、転がり続けるパワーと、シンプルな描写で、言葉の違いによるコミュニケーション・ブレイクダウンをセンチメンタルにさえ描ききる力はすごい。いや、これはとんでもない作家の予感ですよ。群像社から翻訳が出ているらしいので、読まねば。

沼野先生によるエッセイも発見。

・エステルハージ・ペーテル「ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし」

カルヴィーノ「見えない都市」のペテルブルク版。二番煎じ。

・アブラム・テルツ「金色のひも」

教科書ちっく。

「私の素晴らしい靴は、あなたのところですか?」「はい、私のところです。」

こういうのが全体の9割続く。皮肉な短編として驚きはあるけど、象徴するものが少なすぎて物語のおもしろさはないな。

2006年01月15日

ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』(国書刊行会)

「今日の若手作家連は本屋に雇われとるのです。」

あ、ちくま文庫なのか。わたしが読んだのは国書刊行会版です。訳にちがいはあるのかな?

ヴァージニア・ウルフといえば、フェミニストが好きな本を書きちょっと暗めな内容、という思いこみしかなかったわたしですが、やはり百聞は一見に如かず、自分の愚かで貧困な想像力を反省することになりました。

だって、マジック・リアリズムなんだもん! フェミニズムうんぬんはあまたある解説書にお任せして、どこがマジック・リアリズムなのかに着眼してみます。

『オーランドー』で使われているマジック・リアリズムの要素は、
・読みやすい
・おおげさ
・現在の科学で解明されていないことが、具体的な説明ぬきで起こる
・時間の流れ方が現実(普通の歴史)と異なる

・読みやすい
マジック・リアリズムは何よりも物語として読みやすくおもしろいものでなければならない、とは誰も明確に規定しているわけではありません。しかし、ラノベ=ラテンアメリカ文学最高の傑作にして代表的なマジック・リアリズム作品『百年の孤独』をはじめとして、マジック・リアリズムの作品は読みやすく単刀直入におもしろい作品が多いものです。『オーランドー』も英国のかわいいけれど時代錯誤な詩人から始まり、恋の遍歴を重ねてトルコへの都落ち、そこで性転換(こう書くとモロッコみたいですが)からback to UK、運命の出会いをするも愛するあの人は船乗りでほとんど家におりませぬ。そうこうしているうちに歯の奥にある加速スイッチを押して、気が付けば20世紀という大変すぐれた石ノ森章太郎なのです、ということでフェミニズムやゲイにびくついてるSF/文学好きにはぜひ手にとっていただきたい。

・おおげさ
繊細な筆致が続くオーランドーですが、冒頭にいきなり大寒波のおおげさな描写があって、マジック・リアリズム的つかみはばっちりです。

ノリッジでは若く頑健な田舎女が道を横切ろうとしたところ、曲り角で凍るばかりの突風に打たれて見る間に粉と砕け、ひと吹きの塵と化して屋根の上を吹っ飛んでいくのを目撃した者がいる。

じゃ、なんで見ていた奴は塵と化して吹っ飛んでいかないんだなんて言うのは野暮です。また、1章の最後では「英文学散文の粋」と言われているという、テムズ川の氷河大移動のシーンも圧巻。氷の上で平然と暮らしていた人々が、突然川が氷解したものだからただただ流されていき深い川の底に沈んでいくという、街に自然の力が押し寄せるダイナミズムがすてきです。

・現在の科学で解明されていないことが、具体的な説明ぬきで起こる
については、何はともあれこの小説のメインとなっているオーランドーの男性から女性へ転性です。彼はトルコに大使として赴任するのだけど、争乱の中7日間の眠りにつき、目覚めたら女性になっていたというシーンは、エドワード・バーン=ジョーンズか、羽海野チカ的おむかえかという勢い。

また、この転性がトルコという「ヨーロッパとアジアの境」で起こったことも象徴的です。文化的な世界と野蛮な世界を分ける場所で起こり、その後ロマ族に拾われるというのも劇的ですばらしい。

・時間の流れ方が現実(普通の歴史)と異なる
というのは、すでにボンスロップと出会った場面あたりから始まるのですが、物語当初では1600年代に生きていたオーランドーが、結婚後物語を書き始めます。書く作業に没頭するうち月日はたち、オーランドーは実際の歴史の時間からどんどん加速しながらはみだしていきます。すでに馬車ではなく自動車が走り、電話が開通しているイギリス。この時間の加速はカルペンティエール『バロック協奏曲』でも見られるように、時間の流れが一定でないがために過去と現実がないまぜになることで生まれる混乱の妙。

ガルシア=マルケスだと時間が過去と未来にスウィングしてしつこさになれ合う感じになるのですが、ここではさっぱりと加速し、解説によるとオーランドーのモデルとなった一族の時間の流れでもあったようです。

てな感じで、意外なところにマジック・リアリズムが潜んでいたものだと小説のおもしろさを改めて感じました。マジック・リアリズムじゃないけど、伝記作者が出てきてうまいつっこみを入れるというのは、『ドン・キホーテ』ぽいメタ小説としてもおもしろい。印象としてはティプトリーが一番近いかもしれません。

2006年01月20日

マノエル・デ・オリヴェイラ 「家路」

家路
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今年初めての映画はこれ。新年の抱負は毎週映画を見ること。早くも3週目ですが。

ポルトガル出身のオリヴェイラ監督の映画は、映画館で見た「家宝」に続き2作目。あのとき誘われなかったら、きっと一生オリヴェイラ監督に興味がないままだったろーなー。ありがとうございますありがとうございます。この作品は、偶然にも家つながりだ。「家宝」の方がはっきりしているのだけど、オリヴェイラ監督の撮る暗いシーンでは何が起こってるかよく分からないくらいに暗い。だが、そのシーンがあることで、暗いところでも人は生きているということが身に染みるのがオリヴェイラ監督の映画なのかもしれない、と思った。

物語は有名な年輩の俳優が家族のほとんどを事故で亡くすも、孫といっしょに暮らし、演劇に出演しながら日々を優雅に暮らす。しかし自分が出演するにふさわしい『ユリシーズ』の映画化で、せりふに詰まってしまう。という、わたしが好きそうな退屈で淡々とした映像が続く。だから、ハリウッド的な豪快さとか、華美な絵を求める人には向きません。でも、人が齢を重ねることの喜びと悲しみ、家と社会との関わりなんかをしみじみ感じたい、考えたい人には必見と申せましょう。

映像的にとても好きなのは、孫への買い物を済ませて荷物を抱えた主人公がタクシーを拾ってパリの風景を眺め、自分のお気に入りのカフェで一息つくところ。タクシーからは笑っちゃうほどの青空と大観覧車が見え、噴水が見え、思い思いに過ごす人々が見え、美しい彫像がタクシーの窓から見切れるまで見続ける。不遜な言い方をするならば、それはタクシーの中から美しいものをすべて見届ける神の視点だ。それは新しいスレンダーな靴を履いた感覚、タブロイド紙を開いて口にする一杯のコーヒーも、すべて日常でありながら至高。わたしが評価する映画監督はそういう日常の中の至高(永遠とか幸せとか言っちゃってもいいけど)を描くのがうまいのかもしれない。

主人公の俳優は娘夫婦や妻を序盤に亡くして、孤独の中に生きるようになる。それをオリヴェイラ監督がおまけのインタビューで否定するのが意外だった。確かに人は1人では生きていけない。だが、孤独の中に生きるのもまたその人が選ぶ生き方だと思うのね。実は家族や友人に囲まれて生きている人も、実はそれを息苦しく思っていたりするのかもしれない。そういう人に人と交わって暮らせ! と強要することは、明確ではないけれど確実にストレスを生み出してしまうかもしれないでしょ。離れることでできる人間関係もあるのだ、というのは人との物理的な距離を保ちたがる日本人固有の発想ではないと思うのだけれど。

ラストの哀しみは、自分の記憶力の衰えを実感するという、ある意味人が死ぬよりも苦痛な状況を「家路」という形で残酷に描く。それをじっと見つめる孫の目は、おじいちゃんの墓に刻まれた文字を見るかのような諦観。枯葉舞い落ちる秋な映画でした。

2006年01月28日

池上永一『シャングリ・ラ』(角川書店)

シャングリ・ラ
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池上 永一
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ずばりと言おう、この本は『人類皆殺し』+『スノウ・クラッシュ』であると。
ディッシュ『人類皆殺し』は地球に伐採不可能なすごい木がにょきにょき生えまくって、人間があたふたする話。この『シャングリ・ラ』は未来の東京にすごい木を植えまくって排出する二酸化炭素を抑えようとし、えらい人間は山手線の内側を埋め尽くすようなでっかい塔に移住する豪快な話で、舞台設定は似ているけど話の複雑さや活力の点で遙かに『人類皆殺し』を凌駕している。
『スノウ・クラッシュ』(某所では『ダイヤモンド・エイジ』と書いてしまったが、ニール・スティーブンソンは『スノウ・クラッシュ』しか読んでない)のサイバーでかっとんだ舞台設定、特に経済をきちんと背景として描くことで荒唐無稽な物語にリアリティを出すところが似ている。

しかし上記2作を大きく突き放しているのが、池上ワールドとも言われているキャラクターの元気ばりばりなところ。主人公國子は女子高生にして重力のない世界に住む破壊神、その育ての母にして父であるところのモモコ姉さん(「銀」最高!)はじめ、出てくる人物はみなそれぞれの生き方において無敵で、無敵ぶりを生かしつつ世界が転がっていくのでページを繰る手を止めさせない。それでいて下品でおバカなところは池上永一ならでは。

ただ、読んでいるときはすごく楽しいんだけど、自分が好きな物語かという問いには悩んでしまう。下品でおバカなところは『風車祭』と変わりないんだけど、それが物語を生かすよりもキャラクターを生かす方に使われているように思うのだ。なので、読んでいるときは手に汗握るけれども、読み終えて「豪快な話だったなー」で終わってしまう。それは後半のジャンプ系バトル(無敵な人たちがどかどか戦いまくる)が長すぎることに起因しているかもしれない。カタストロフィは物語の大切な要素だけれど、「結局腕っぷしの強い奴が一番」という印象しか残らない。キャラが立つというけれども、立ったキャラクターでも動機が切迫してない(東京以外は森になってないんだから、好きなところに住めばいい)ところが不満かな。

ところで、作中の鍵となる炭素経済と地球温暖化ですが、この本を読了後には森山さんによる丸山茂徳さんへのインタビューを読んでおくべきだと思います。『シャングリ・ラ』前に読むとおもしろさが減るかもしれないので注意。「メデューサ」の機能も一刀両断ですが、ま、こちらはフィクションですから目くじらをたてることもないでしょう。

一つ心配なのが、池上永一はこれからライトノベルに行ってしまうのか、ということ。池上永一ならではのデフォルメでもっとシリアスなテーマ(キャラは今のとおりバカでいいけど)を取り上げてほしいところですが、次はモンゴル方面らしいので、土着の雰囲気が今回よりも色濃く出るかもと期待しております。

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